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―記念文倉庫―

これを、別の一間で盗み聞きしていた慶次は朱槍を抱え直して立ち上がった。
「キキッ」彼の長い髪を掻き分けて、相棒の夢吉が問い掛けるような眼差しを投げかけて来た。
「半兵衛の事だ、きっと汚い手を使ってでも動くだろう。独眼竜がどう動くか俺にももう予想も付かないけど、…見過ごす訳には行かないよ」
「キ」
夏の磐梯山と吾妻山は急峻苛烈ではあったが、清冽に澄んだ大気と日差しと水のせせらぎと共に、野生動物の息遣いとに満ちていた。
慶次はそこを数刻で踏破して米沢に入った。
城下では既に鍬や鋤が鋳溶かされて、軍備に必要なものへと作り直される作業が始められていた。
各村から若者が駆り集められ、年の行った者も城下城内の下働きとして無駄なく働いていた。
そんな中、川端の丘陵上に森の中ひっそりと佇む米沢八幡は、一見戦とは関係のない時間軸にあるようだった。だが、山側から近付いて行った時、そこに出入りする武者の数の多さに慶次は身を隠した。
人の背丈より高い土塁と空堀にほぼ全体を取り囲まれ、喰違虎口で敵の侵入を警戒している辺り、米沢八幡が唯の神社ではないのを解き明かし顔だった。
仕方なく、慶次は木の上に隠れながら夜になるのを待った。
その眼が、山の中から連れ立ってやって来る老爺と子供の2人連れを捕らえた。
老爺は出仕(神職の最下位)の様子で、粗末な白張り姿で袴の膝の下で括っている。子供は目刺し程になる前髪を垂らして祖父と見られる老爺に手を引っ張られていた。それが、社の裏手門から誰何の声もなく入って行ったのを見届けて、慶次は良い事を思いついた。

晴れ渡った空に今日も庭掃除と社の修繕に精を出している小十郎にしてみれば、拝殿で八幡宮司の景広を中心に行われている奥州各地の武将らの遣いや米沢の留守を預かる伊達氏族らとの連絡は、遠い世界の出来事だった。
彼にとっての問題は、何としてでも記憶を取り戻す、その一点に尽きた。
「片倉様、今日も精が出なさるなぁ」
出仕の老爺が庭の石を渡りながら声を掛けると、小十郎は手を止めて振り向いた。
彼は鎧張りの塀に瀝青と灰を混ぜたものを塗装していた。風雪に痛む木製のそれを保護するのが目的だ。左右の手が真っ黒なのも構わず作業をしていた小十郎の顔を見て、子供が笑った。
「爺ちゃん、片倉様のかお!」
「ああ、いけねえ…」
慌てた老爺が玉砂利を蹴って小走りに近寄って来た。そうして、懐から出した手拭いでごしごしと小十郎の顔を擦る。
「落ちなくなりますぞ、片倉様。後で香油などで洗わねば…」
「ありがとう、荘助。…その子はお前の孫か?」
「はい、本日は是非にも伊達政宗公のご武運をご祈祷致したいと生意気にも申しましてな。連れて参りました」
「そうか…それは偉いな」
「ですが、字を知りませぬでな、こうして俄か祈願書を奉納致そうと」
そう言って老爺は袖の袂から折り畳まれた封書を小十郎に見せた。
「お前たちのその気持ち、きっと八幡神にも届くだろう」
「有り難うございます」
にっこり微笑み、一礼して歩み去って行く後ろ姿を、小十郎は何時までも見送っていた。
あのような幼な子までも政宗の命運を案じている。いかに彼の方が領民の隅々にまで慕われているかが分かろうと言うものだ。
刷毛を取り直した小十郎が気配に振り向くと、今度は大柄な男が出仕の姿で平然と庭を渡って来るのが見えた。見覚えはなく、又その不適な笑みが小十郎の癇に障った。
「へえ…話に聞いた通り、…でもないみたいだね、ここ」
「何者だ、手前…」低い声で唸って小十郎は呟いた。
「ここ、ここ、又皺が寄ってる」
大男は困ったように笑って、自分の眉間に人差し指を当てて見せた。
「敵国の間者…にしては間抜けな面してやがる。ここはお前の来れる所じゃねえぞ。とっとと出て行け」
「そんなにつれなくすんなよ、片倉さん。あんたの身が危ないってのを教えに来てやったんだから」
「俺の身だと?」
そう言って小十郎は鼻で笑ってやった。大男を放っておいて塀の塗装作業を再開してしまう。
「危険とはほど遠い面して何をほざきやがる」
「ツラツラって…相変わらず酷い嫌われようだねえ。俺が何者なのか、聞かないのかよ?」
「聞いたって思い出せねえ。思い出したくもねえ」
「酷過ぎる…。俺は前田慶次」
「知らねえな」
「―――」
「キキッ」
窮屈そうな慶次の水張りの懐から苦しげに夢吉が飛び出して、小十郎の肩に飛び移った。そこでようやく小十郎は振り向く。

立ち話のついでのように慶次から事のあらましを聞いた小十郎は愕然となった。
早過ぎる、と思った。
ひと月の猶予など有って無きが如しだ。何の準備も出来ぬまま、伊達家は内紛の内に太閤秀吉の大軍勢によって完膚なきまでに叩かれる。上杉との和議などとうてい間に合わぬ。何もかもが後手後手に回り、手の施しようもなかった。
呆然と立ち尽くす男を見やって、慶次は更に言った。
「竹中半兵衛はそうした中でもあんただけは家臣として召し上げたいって言ってた。奴は片倉さんが断ったとしても力尽くで攫ってくぜ。あんたはどうする?滅びる定めの伊達家から逃げ出して、今が天下の華と咲く豊臣秀吉の軍門に下るか?」
「―――」
「考えてる暇はないぜ。伊達政宗は徹底抗戦に打って出ると腹を決めてる。戦緒はひと月より早く切られるだろう」
「…バカな、無謀過ぎる!!」
「って言って諌められるモンが側にいないからだろうが。独眼竜を説き伏せ納得させられるのは片倉さんしかいないだろ?…そりゃ、時たまあんたの言う事すら聞かない奴だけどさ、今回は話が別だ。奥州の一族郎党って、ここら辺りじゃ隣近所が皆親類縁者みたいなもんなんだろ?奥州の血が全て途絶えちまう。俺は秀吉にそんな非情をして欲しくないんだ。早く黒川城に行って独眼竜を止めてくれ」
「…しかし、俺には記憶が…」
「ああ、もう!記憶はなくたって故郷を愛する気持ちは残ってるだろ!さっきの爺さんや子供だって半兵衛と三成なら容赦なく殺しちまうぞ。あんた、それで良いのか?!」
「…俺は、…政宗様は俺には一度も目通って下されなかった…!」
「は?」
「猪苗代城で政宗様は―――」
「何言ってんだあんた!!!」
慶次は大きく叫んで小十郎の襟首を引っ掴んだ。
「あンの独眼竜が…何処まで身勝手なんだ。…あんた確実に政宗に会ってる!言葉も交わしてる!!」
「…何だと…?」
「―――本当に忘れちまったんだな…」
小十郎の戸惑いの顔を覗き込みながら、大男は食い縛った歯の間から呻くように応えた。
「あんたの眉間から皺が消えてる、そのまま守りたいって俺に言ったんだよ、あいつは!」
「―――まさか…」
人の気配に、慶次は小十郎の体を突き放した。
拝殿の方から出仕の老爺と子供が戻って来た。にこやかに言葉を交わし、無事祈願書を奉納し終えて実に晴れやかな表情だ。
慶次は顔を見られないよう、その場に跪いて小十郎の手の者に見せかけた。
幼な子が小十郎の姿を認めて駆け寄って来る。
「片倉様!」
塀に凭れ掛かっていた小十郎を見上げる瞳には一点の曇りもない。小十郎が政宗の幼き日に相見えたのも、このくらいの頃だったろう。
「片倉様は神主見習いなのだろう?まだ、ほぎごとも唱えられんと聞いておる、だから―――」
子供らしい声を張り上げて、少年は懐から一枚の紙切れを取り出した。
「片倉様もこれを奉納してまいれ。政宗公のごぶうんを祈るのだ!」
それを受け取って、覚束ない手つきで広げた小十郎の手が震えた。
拙い筆の手によって描かれたのは、未だ文字を知らぬ幼な子の落書きにも見えた。だがそれは―――。
「政宗公の陣羽織の背にえがかれてる文様だ!力強い、お天道様だろう!!天下統一の願がかけられてるんだそうだ、爺ちゃんが言っておった!」
「いやいや、これは年寄りの勘ぐりに過ぎませぬ。片倉様、ご無礼を致しました」
「―――いや、これは俺にくれ…」
「ああ、これは…お気遣い有り難うございます。では失礼致します」
子供の無邪気な戯言を受け取ってくれたと勘違いした老爺は、子供と連れ立って立ち去った。
「前田慶次」
「何だよ」
「これは―――」
慶次が立ち上がって、小十郎の手にした紙切れを覗き込んだ。
「そうだよ、政宗の陣羽織に描かれてる紋だ。俺はてっきり雷の事だと思ってたんだがな、確かに…日輪にも見えるな」
小十郎は震える手で紙片を握り締めた。

政宗の日輪。
翻って自分の月輪。

―――明白じゃないか…。
日月双方どちらが欠けても世界は動かぬ。
天は回り天は巡り、その双翼を担う我らは二つにて一。

それは、愛の証しにも似た。

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