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―記念文倉庫―
7●
義姉が立ち去った後で、小十郎は唐櫃に納めていた陣羽織を取り出して水墨画の屏風に立て掛けて見た。
―――片倉小十郎景綱。
戻って来いと、念じた。
内着の下襲を死者の装い、左前にして、左の手に愛刀・黒龍を携え、伊達政宗の背を一生守り続けると誓った猛将智将の誉れ高き男よ。
浮ついた男色などに現を抜かしている場合ではない。
命より大事と誓った君主と、苦楽を共にして来た仲間を死地に赴かせたまま手を拱いているだけか、と叱咤した。
思い出せ。
幼き日の政宗公、梵天丸の徒小姓として相見えたその時と、それからの苦悶の日々を。
彼の方の病んだ眼球を断ち切ったこの左手に残る感触を。
敗戦色濃かった人取橋の戦で戦果に逸った政宗を庇って、己が伊達政宗なりと呼ばわって敵を引きつけその包囲から彼を救った時を。
父君・輝宗を裏切り者と共に鉄砲で撃ち抜いてしまった昏い顔をした青年を、叱咤激励して弔い合戦に向かわせた辛酸の日々と夜々を―――!
だが、
男の未練は卑しくも浅ましく景宗の元へ堕ちて行く。
―――この…腑抜けが…!!
叶うなら、己の腹をかっ捌いて邪な想いを鮮血と共に流し去ってしまいたかった。

その夜半から翌日に掛けて断続的な雨となった。
思い出せぬ苛立ちに疲れ果てた小十郎は、夜明けの空に恵みの雨を降らせる曇天を眺めながらぼんやりと景宗の事を思った。
過去を思い出せれば、今直ぐにでも戦列に馳せ参じてあの青年の側に行くことが出来る。彼と共になら、津波のように押し寄せる秀吉の大群に勇猛果敢に立ち向かう事も出来るだろう。
しかし思い出せなければ、越後の上杉景虎の息女を娶って彼の地で暗躍と諜報の日々に明け暮れる事だろう。そうなってはもはや、青年と再会する望みは完全に断たれる。あるいは景宗の討ち死にを耳にした時、自分がそれまで通り伊達家への忠誠を誓い続けていられるかどうか、自信がなかった。
―――全く、俺はどうかしている…。
恐らく、記憶を失う前から体を繋げる関係であったあの青年を、思い出せもしないクセにこんなにも求めてしまうとは。
旱魃に干上がった田畑に今目にしている絶え間ない慈雨が染み込んで行くように。
彼がいなければ、自分の存在意義などまるでない、そうまで思えてしまう。

日に出来る「影」のように。
水の中の魚のように。
闇夜に照る「月」のように―――。

小十郎はふと、簀の子から屏風に掛けられた陣羽織を振り向いた。
「月に叢雲」の文様が描かれたその背中。
―――…何だ…?何か、引っ掛かる…。
ずかずかと歩いて行って、小十郎はそれを取り上げた。
―――片倉小十郎景綱、お前はこの文様に一体どんな意を込めた?

黒川城の薄暗い天守閣の中で政宗は、一葉の文を手に眼下に広がる城郭と城下町を眺めていた。
動揺はない、と思っていた。
だが迷いはある。
それが事態の展開に対する猜疑心なのか、感情的に沸き起こる拒否感なのか、自分でも分からなかった。
米沢の留守を守る者の一人である喜多の発案は、政宗には小手先のその場凌ぎに思われた。上杉と手を組んだとて、俄か同盟で何が出来るか疑わしかった。また、他に候補に挙げられていた武田や真田との同盟についても然りだ。とは言え、少しでも兵卒が多い方が良い事には間違いない。
今現在、軍の再編を急ピッチで進ませてはいるが基本的な数に限りがあった。奥州全領土を合わせても今の秀吉の持つ大軍の2分の1に届くかどうかと言う所でしかない。
確かにこれに上杉や武田の軍勢が加われば、五分とまでは行かなくとも拮抗させられる所までは持って行ける。
だが、その方法だ―――。
「ちっ」思わずの舌打ちが、今日何度目かに漏れた。
―――畜生…妻を迎える事はともかく、あいつを人質になんぞ…。
そんな考えが思いついた喜多をこそ恐るべしと言うべきか。
政宗は露台の床に腰を降ろして顎に手をやった。その薬指で己の唇を押し潰してみる。
あの男が正室を入れても自分は平気だと思っている。逆も又然りだ。しかし、自分の戸惑いが何処にあるのか分からない以上、もしかしたらあれが女を抱いて子を成したと知った時、自分が自分でいられなくなるかも知れないと言う恐ろしい予感があった。
あのような口付けを他の女にも―――。
ぞくり、と鳥肌が立った。

体を後ろから抱き込む感覚が蘇って、震えが起こる。それを押さえ付けようとして両腕に自らの爪を立てた。耳元に吹き込まれる息は以前の小十郎にはなく、饒舌に熱い言葉を語って政宗の心臓を掴み上げる。
―――お前の中は熱いな…蕩けちまいそうだ…。
バカが何実況中継なんかしてやがる、と胸中で悪態を吐いてみるが、体は勝手に反応して中の雄を締め上げてしまうし、情けない声は溢れた。
体を横にした下から顔を捩じ曲げられて、苦しい体勢で口付けを求められた。同時に後ろから貫かれ揺さぶられて、おかしくなりそうだった。
訳が分からないまま、啼いた。
そんな時に囁かれる低い声。
―――たまんねえ…。
感極まったように呟かれて、身体の中を満たすものがそれと分かるくらいに硬直して内壁を擦る。
耐えられる筈もなかった。

それを他の女にも言うのか。
同じように揺さぶるのか。
同じ口付けを―――。

ダンッ
振るった拳が露台の手すりを一本、破壊していた。
「―――…っ」
重症だと思った。
己自身に対して苦笑する以外、思い浮かばなかった。

その時、天守閣の梯子をドタバタと登って、成実が駆け込んで来た。
「政宗!!…秀吉の書状を持って竹中半兵衛と石田三成が…!」
来たか、と政宗は喜多からの文を片手に立ち上がった。

黒川城の居館に2人の名だたる武将が数人の共を連れてやって来た。
奥書院の間で彼らを迎えたのは武装した政宗の他、綱元と成実だけだ。隣の間には用心を兼ねて良直とその徒士らが具足を整えて待機していた。他の文七郎らは、会津盆地を臨む博士山に展開する豊臣軍に備えて伊達軍を動かしていた。
竹中半兵衛の目配せに応じて、石田三成が悠々と歩み寄って来て政宗に一通の書状を差し出した。黙ってそれを受け取った政宗は三成ではなく、半兵衛の薄っすら微笑んだ顔をちらりと見やってからそれを広げた。
文字列を追う独眼が静かに上下する。
沈黙の隙間に忍び入るのは、紙を繰るかさついた音と長閑な百舌の鳴き声だけだ。咳一つ起こらない。
やがて政宗は床几の上で膝に手を突いた。
「He say…. で?どっちがお望みだ?」
ずい、と差し出された書状を見やってから半兵衛は笑みを深めた。
「望み?望みと言うなら政宗君、君の領土を全て無血で召し上げ秀吉に忠誠を誓う者たちに分け与えるのが僕の望みだよ。けれど、僕らだって鬼じゃない。君に選ばせてやろうと言う寛大な措置じゃないか。今、君の所領は推定で150万石を越える。それを半分にし、秀吉の治める天下の一領主として慰撫されるか、さもなくば豊臣全軍にての包囲攻撃の暁の一族皆殺しの死罪。―――さあ、どちらが良い?」
「Don't be ridiculous.(笑わせるな)どちらも呑める筈がねえだろ」
「そんな安易に結論を出して良いのかい?急く事はない、こちらとて10万を越える軍勢を動かすのに最低でもひと月は準備が掛かる。…言っておくけど、今回引き連れて来た1万は数は少なくとも先鋒を勤める軍勢だ。このくらいの山城を落とすのは造作もない事だけど、やる時は"一族郎党皆殺し"が決まりだからね。全軍を投入させてもらうよ」
政宗は喉の奥で笑った。
「手前らの惣無事令ってのには、反吐が出る…」
「政宗君、…君に秀吉の考えを分かってくれとは言わないが、その禁令の主旨だけは理解してもらいたいね。これまで通り、地方大名が小競り合いを続けていては、民百姓が疲弊し切って日の本の国の基盤が弱体化する一方だ。秀吉の目的は飽くまで富国強兵、海の向こうの大陸にひけを取らない国家体制を築き上げる為にも、無駄な消耗は避けてもらいたいのだよ。その為の合戦禁止令だ」
「手前の言う富国強兵ってのはあれか?各地の百姓を本来の耕地から召し上げ尽くして、繁農期にも閑農期にも関係なく修練させ続けて立派な足軽に育て上げる事か?」
「大事の前の小事だよ。目的遂行の為には多少の犠牲は付き物じゃないか。そんな事は百戦錬磨の独眼竜こそ百も承知だと思っていたけど?」
皮肉に笑んで肩を竦める若い男を、政宗は胡散臭そうに眺めた。
「まあ、とにかく。僕は講釈しに来た訳じゃないんだ。君にはひと月の猶予を与える…。奥州各地の頭領らと良く合議し合って決めるんだね」
すくと床几から立ち上がった半兵衛が、体を斜にして政宗の左右に侍る家臣らを一瞥した。
「片倉小十郎景綱殿は、米沢八幡だそうだね…」
「―――…」
「伊達軍が必要としていないのなら、是非豊臣軍に欲しい人材だ。これからも大きく強くなる豊臣軍で僕の片腕となって働いてもらいたい…」
「誰が手前らなんぞの所に―――」
「おや?記憶を失った片倉君が僕の誘いを蹴って君に忠誠を誓う保証はないんじゃないのかい?ましてや、ひと月後には負け戦が必定となっている領主の元では…」
くくく、と半兵衛は声に出して笑って見せると、怒りに顔を紅潮させた2人の家臣らをちらと見やった。
「直ぐカッとなるのは領主の躾がなってないからだろうね…」
具足を鳴らしていきり立つ成実と綱元を尻目に、半兵衛は爽快な笑いを残しつつ立ち去って行った。後を追った三成が不意に振り向いて、鋭利な一瞥をくれる。
「政宗様」
「政宗…!」
綱元と成実に注視された政宗は、その左目を敵将の立ち去った簀の子に投げやって眼を閉じた。

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あきゅろす。
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