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―記念文倉庫―

その日は朝から曇り空で、生温い湿った風が山の木々を揺らしていた。
市女笠に打掛を腰辺りで括った壷装束の武家女が数人、米沢八幡へ続く参道を急ぎ足で渡って行ったのはそんな時だ。
武家の子女を迎えた宮司、片倉景広は神殿作りの奥の間に客人を招き入れた。女主人を上座に、己は下座にして平伏するのはやはり女御の権威が奥州全土に鳴り響いているからだ。
「正岡様、今度は斯様な僻地にわざわざご足労頂いた訳をお伺いしても…?」
片倉景広は烈女と名高い女御を前に恐る恐ると言った風に問うた。"正岡様"は喜多の別名であり、身内以外の者が呼んだ。
「神職の者が婚姻を交わしてはいけないと言う法はありませんよね」
喜多は努めて静かに切り出した「景広様には早々にまとめて頂きたい縁談がございます」と。
「景綱の、でございますか?」
「日がな一日、ぼう、としているそうではありませんか、景綱は」
「い、いや、人一倍良く働いてくれております。お勤めの若い者や年寄りを脇目に、それは鮮やかに境内の掃除を…」
「景綱は下働きの為に八幡に戻ったのではございません」
「それは…そうでございますが、日々のお勤めも又修行の内でして」
「神職の勤め」
ほんの少し張り上げられた声に景広は口を閉ざした。
「確かに、神職の勤めは神祗と人との架け橋ではございましょうが、人の世ではそれ以外にもございましょう。奥州の各所に分社しておられる八幡神社との密な連絡。又、他国との交流。果ては伊勢の神宮との関わりまで…」
「お、お待ち下さい、正岡様。何をそれ程焦っておられるのか…」
「―――」
喜多の剣幕には確かに納得し難い所があった。そこを指摘されて我に返った女御は、微かに視線を泳がせてやがて息を吐いた。
「…太閤殿が政宗殿に禁令を破った事への詫びを求める書状を遣わせた、と聞く―――」
「…それは…、今度の蘆名との戦…」
「それ以前より幾度か太閤殿の忠告を無視した事もおありなのじゃ。…そしてさすがに今度の戦には堪忍袋の緒も切れた…と言った所であろう」
「―――…」
景広は喉回りの肉をたるませて、言葉もなく唸った。
太閤秀吉の支配はここ奥州にも届いていて、先に政宗が倒した蘆名氏などはその支配下の一大名として慰撫されていたのだ。これに加えて、私事での戦を禁じた惣無事令をも破っている。
豊臣の大軍勢がこの奥州に何時押し寄せて来てもおかしくはなかった。
「政宗殿は逆にこの機を天下分け目の大勝負と見ておられる…」
と喜多は重ねて言った。
「黒川城に居を移し、奥州の玄関口で太閤殿との雌雄を決するべく、今は奥州各地へ檄を飛ばしておられる。だが、それだけでは足りぬのだ。長年国境を競り合って来た上杉、武田、真田などとも手を結ばねば、到底太閤殿の何十万と言う兵力に適う訳がない。…このような伊達家存亡の危機にあの男は―――!」
喜多は手にした扇を両手で握り締めた。
知将・片倉小十郎が今あるべき所になく米沢の一角で草毟りをしているなどとは、喜多にとって堪え難い屈辱だ。これが焦らずにいられるだろうか。
「…わかりました、至急に。して、そのお相手は?」
「上杉家の姫じゃ」
「何と」
「景綱にはわたくしから話す。―――あれの居室に案内せよ」
「畏まってございます…」
神職には国や武将を越えたネットワークがある。修験道を主とする仏教・雲水にそれがあるのと同じように。いや、元々天皇家を祖とする神道には独特の道があった。国と国とが敵対していてもその神を通じたネットワークが切れる事はない。今も昔も敵対し続けている上杉の某所、某氏に話を通すのも可能だった。

出仕の老爺に呼び出された小十郎は、池の掃除を途中で止めて手足を拭って己の居室に戻った。
その薄暗い一間で待つ見覚えのある女御に思わず足が竦む。どうもこの女人は苦手だった。記憶がないせいか、はたまた彼女の威勢の良すぎる所のせいか判じ難いが。
「義姉上、お待たせ致しました…」
小十郎が畏まって目の前に座すのを、喜多はじっと見つめていた。
「そなたは…まだ、何も思い出せぬか?」
「…口惜しき事なれど」と言って、小十郎は頭を下げた。
喜多は細い溜め息を扇の奥から吐き出し、伏せた眼を再び上げた。
「鬼庭と片倉両家にて上杉との和議を、と考えておる」
「は…?」
「その為そなたには越後へ行ってもらいたい」
「…し、暫く…、暫くお待ちを…!」
慌てた小十郎が、片手を上げつつ身を乗り出した。
「それは政宗様もご存知の事なのでしょうか?」
「昨日、文を遣わせておる。一両日中にもご裁可を頂けるであろう」
「―――」何と根回しの早い、と小十郎は舌を巻いた。
「越後でわたくしは…」
「上杉景虎殿がご息女の婿養子となる」
「……………」
今度こそ絶句した。
小十郎を、義姉の喜多は上杉との和議を成立させる為の人質として差し出そうと言うのだ。もはや小十郎には過去の栄達を盾としたそのような使い道しかない、と言われているようなものだ。
「そなたに思慮する余地はない。政宗殿のご了承を頂き次第、米沢八幡がその仕儀の為に動く手筈になっておる。…ただ事前にお前に知らせたは姉としてのお前への気遣い故じゃ。厭とは言わせぬぞ」
「…伊達勢は上洛への足固めの為に」
「言わずと知れた事じゃ」
「しかし、性急過ぎる。つい先頃奥州を平定したばかりで、軍の再編成も家臣団の序列も未だ整っていない筈。それに上杉が和議に首肯するとは限らぬ中で、政宗公は進軍しようとなさっておいでなのか…?」
「そこまで分かっていながら何故思い出せぬ!!」
喜多の一喝に、体中をビリビリとした痺れが走った。
「再三に渉る太閤殿よりの文、それをそなたが前で政宗殿は握りつぶして参ったのであろう!そなたの事だ、再三再四、お諌め致した今度の黒川攻めにしても、それが成された果ての事態は予測しておった筈。それを今更の如く、よくも抜け抜けと―――!」
ギリ、
と体中が引き締まる音がした。
何と言う事だ、蘆名氏を平らげた後に立ちはだかるのは豊臣秀吉の他にはない。政宗と自分はそれを視野に入れて奥州平定に乗り出していたのだ。
伊達軍の準備が整うのを待つような秀吉ではない。一年と経ぬ内に目障りな東北勢を潰しに掛かるだろう。その短期間にどれだけ奥州内を整えておけるか、が自分の他数多の家臣らに委ねられていたと言うのに。
自分はと言えば―――。
ギリリ、
と噛み締めた歯が鳴った。
そのような状態では、記憶喪失の軍師など排除されて当然だ。足手まといにしかならぬ。また、家臣団が一致団結して事に当たらねばならないのに、その中に亀裂を生む原因にすらなり得る。
それなのに自分は何を安穏と泡沫の夢を夢見ていたのか。
姿勢を崩しはせぬものの、肩を震わせ自責の念に打ち拉がれる義弟、それを眺めやる喜多の横顔に刹那痛ましげな色が流れた。だが直ぐに強い光を宿した眼差しで相手を射抜く。
「かくなる上は成り振り構ってはいられまい…。そなたは今、そなたの出来得る務めを果たす事で政宗殿の一助となりなさい」
小十郎は俯いていた視線を上げて、目の前の女傑を振り仰いだ。
「この…一命を賭して……」
その眼差しにかつての猛将の気色を見た喜多は思わず息を呑んだ。そして負けじと眼力に意志を込めて、全力でそれを捕らえ返してやった。
「任せたぞえ」
「は―――」

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