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―記念文倉庫―

政宗は次の日、時期を早めて伊達軍を黒川城に進めた。
騎馬・歩兵含めて総勢2万の軍勢が磐梯山を背に猪苗代城を出て戦場となった日橋川を渡って、会津の地域を500年近くに渡って治め続けて来た蘆名氏の居城へと向かう。
並足で進む行軍の前にひょっこりと顔を出した男を、先頭を騎馬で行く政宗の左目が捕らえた。見知った顔なので傍らの槍持ちが気色ばむのを黙って制する。
「黒川城主、この度は終着〜」
場違いに明るい声を上げたのは、前田慶次のにやけた顔だ。
「Ha!祭りの気配でも察して嗅ぎ付けて来たか、風来坊」
政宗の皮肉に慶次は肩に担いだ朱槍を揺らして苦笑した。
「独眼竜がついに奥州を平らげたって聞いてね。今夜はじゃあ黒川城で酒盛りと行こうじゃないの?酒は持って来てないけどさ」
「飛んだたかりじゃねえか、祝宴なんざ開いてる暇はねえぞ」
釘を刺してやってる間に、慶次の眼が政宗の背後に続く家臣の列の中を泳いだ。何かと言えば彼を目の敵にしていた男の姿がない。
「…噂は本当だったのか」
「何の事だ」
「とぼけるなよ、おっかない顔した兄さんがいないじゃないか。怪我をして戦列から離れたんだろ?片倉小十郎景綱どのは」
「―――さすがに早耳だな」
「いつ戻ってくんだ?」
「戻らねえ」
「は?」
「奴は記憶を失った。使いもんにならねえから実家に引き取らせたんだよ。記憶が戻りゃ戦に加わる事もあるだろうが、元の立場は難しいだろ」
「………」
返事をする事も忘れ、慶次は兜の眼廂の影になった政宗の顔をまじまじと見上げていた。
「んだよ」その政宗が左目だけをじろりと動かして男を見やった。
「今夜は呑もうぜ」
「…だから、んな暇は―――」
「いいじゃないの、ケチケチすんな独眼竜!」
薄っすら微笑を浮かべた風来坊の横顔を、政宗は呆れたように眺めやって口を噤んだ。

黒川城は小さな天守を備えた平城で、城下町の広がりも申し分なかった。
石垣、堀、壕水、切り通し、土塁など、戦国時代の平山城としての機能も言うに及ばない。住まう城ではなく攻め込まれた時に籠って敵を迎え撃つ為の城なので、居館は城下町の一角に設えられている。政宗以下主立った家臣は、そちらに移り住んだ。
それ以外の軍勢は城下町に数ある大家に仮住まいをし、それでも足りぬ者らは町を広げてそこに簡単な長屋を組んだ。
「さすがに良い町だね〜。会津の頭領が治め続けた土地は」
我が物顔で館の廂間に陣取り、大盃を片手に傾ける慶次が、庭を眺めながら言い放った。
「何一人で呑んでやがる」
と言って彼の手から大盃をぶんどった政宗が傍らの柱に背を預けて座った。
彼は戦装束を脱ぎ捨て、生成りの麻の長衣一枚の軽装だった。
結局、入城したこの当夜だけは他の家臣らの労を労う意味も含めて解散となっていた。酒樽は政宗の入城を祝って城下の町人らから献上されたものだ。
ただし、見張りと城及び城下町周辺の偵察だけは夜通し敢行されている。
「酒もうまいしね」慶次は傍らに転がっていた湯飲み茶碗を拾い上げると、酒樽の栓を捻った。
食膳も用意された。山海の味覚が普通に供されるのも、城と町の機能をそのまま譲り受けられた結果だ。これが戦場となり、焼き討ちなどをしたら人っ子一人いない荒野を一から立て直さなければならない。
「何で、引き止めなかったんだ?」
「Ah?」
ぐい、と一気に茶碗酒を呑み干した慶次は、柱に凭れた政宗の横顔を盗み見た。
「片倉さんだよ」
答は返って来ないものと思っていた。
きっと触れられたくない部分だろうし、政宗の中にもそう自分に問い掛けずにはいられない後悔が燻っている筈だ。政宗の性格を考えても、質問を突っ撥ねるのは眼に見えていた。
だが―――。
「あいつの眉間、いつも皺寄ってたろ」
眼帯で隠された方の横顔が、柴垣に囲まれた庭を見た。
水の流れる池があり、あちこちに篝火が灯されていて哨戒兵が時折2、3人で見回っているシルエットも見えた。
慶次は新たな酒を注ぎながら、注意深く応えた。
「…ああ、俺なんかいっつも睨まれっ放しだったよ。その表情しか見た事ないってくらいさ」
「それが消えてたんだよ」
「ん?」
青年の横顔が微かに俯いて苦笑を漏らしたのを、慶次は呆然と見つめた。今、声を掛けたら飛び立ってしまう鷺でも目撃したかのように。
「そのままで良いかって思えた」
「おい―――…」
どうしたんだ一体、と思わず不安げな声が出ていた。
ふと政宗が我に返って、大男を振り向いた。
「何て間抜けな面してやがる」
口の端を歪めて笑われた。
「自然の流れに任せてるだけだ」言って、政宗は大盃を傾けて残った酒を干した。
「本気で言ってんのか?」
「んだよ」
差し出された大盃を何となく受け取った慶次が、甲斐甲斐しく酒樽から酒を注いだ。そうして、新たな酒を満たしたそれを黒川城城主に返す。
「…らしくねえ」むっつりとして慶次はそう言ってやった。
政宗は朱の大盃を受け取りながら、目の前の傾奇者を面白そうに見やった。

記憶はなかった。
彼の主人だとも名乗らなかった。
唯の小姓相手にあちらから与えられた口付けで、不覚にも涙が溢れるのを抑えられなかった。
その時、彼となら何があっても何度でも想いは通じ合わせられると思った。だとしたら、彼を死ぬ程必要としている己の胸の裡は捩じ伏せても良いだろう。
いや、何より記憶を失った小十郎と初めて言葉を交わした時のあの新鮮な感覚、それが何なのか分かった瞬間、己の意志を持って戦場に臨めない男を身の側に置いておく必要はなくなったのだ。
小十郎の眉間から皺が消えている。
それは、戦のない平時でなら心安らぐ平穏の象徴として笑って迎えられるが、政宗の予測ではこの後、これまでにない激戦が伊達軍を待っている筈だ。その中に覇気の消えた軍師が混じるなど、全軍の士気に関わる事だった。
成実は小十郎が居てくれさえすれば良いと言うような事を喚いていたが、以前の小十郎ではない男がお飾りのように居たぐらいでは何の力にもならない。いや逆に、以前の小十郎と比べてしまう家臣らの仲違いの原因ともなりかねない。
政宗は徹頭徹尾、国主としての判断を貫いていただけだった。

神社での勤めは掃除と修繕から入った。
神職としての修行は追々で良いと義兄から言われている。境内の掃除は夏の日差しに生い茂った雑草を毟る所から始まり、積み重なった枯れ葉をかき集め、その下の白い玉砂利を井戸水で丹念に洗う事までやった。更に睡蓮や杜若の生えた池はかなりの広範囲で、一日や二日ではとても終わりそうもなかった。
米沢八幡に戻ってからの数日はそうした雑務に追われていた。

勤めを終えた夜、与えられた一室で神道系の書物をあまり働かない頭で読んだ。
―――いかん…。
小十郎は一向に集中出来ない己を叱って、書を投げ出した。
昼間、体を動かしている間はいい。忘れていられる。しかし、夜の静寂が訪れ、こうして米沢の町外れの閑散とした社に一人佇むとダメだった。
あの夜をどうしても思い出してしまう。
ただ一度の。
いや、あれは多分幾夜も重ねた果ての最後の一夜―――。
景宗は「今夜で最後だ」と言った。あれは過去に繋がる言葉だった。
「惚れてる」は過去から現在も続いている状態。
「体に刻み付けて行け」は、もう二度と交わされる事のない覚悟の証。
別れを告げられた、あの夜を忘れられない。
黒川城に移動した伊達政宗に着いて行った景宗と、神職に下った自分とでは僅かな逢瀬ですら難しいだろう。戦にも付き従っている景宗自身、何時なんどき命を落とすこ事になるかも分からぬ。
死地へ赴く者の心理として、別れを告げたくなるのは理解出来る。
だが、小十郎は彼と再び相見える刻が来るのを心の何処かで期待していた。期待しているし、生きている限りそれは現実の可能性として有り得た。
―――そんな哀しそうな顔をするな…。
官能の色の中に薄っすらと涙を浮かべる鋭利な青年の横顔。それに何度囁きかけた事か。そして何度、その度に青年が否々と言った具合に首を振った事か。
何か言いたい台詞を呑んで、堅く唇を噛んで。
―――また、会いたい…。
そう彼の耳の中に熱い息と共に吹き込んでやった。
―――また、こうやって……。
彼の肌に鳥肌が立って、投げ出された手足が強張って震えた。
ただ、彼が返すのは熱に浮かされたように男の名を呼ぶばかりで。

その夜、小十郎の体に刻み付けられたのは、思い出せないもどかしさにいや増しに募る愛しさと、深く強い未練だった。

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