―記念文倉庫― 3 夜が更けてから政宗は小十郎の居室へ赴いた。 「飯は食ったか?」そう気軽に話しかけて来る青年へ、小十郎は多少恨めしげな視線を投げて寄越した。 「俺の小姓のクセに、飯時に側に居ないってのはどういう了見だ?」 言われた言葉に思わずたじろぐ。こいつはこんなストレートな物言いをする男だったか?それを隠す為に、傍らの煙草箱を引き寄せた。 「俺にも他に色々仕事があんだよ…」 不貞腐れた物言いに、今度は苦笑が刻まれた。小十郎はその表情のまま、煙管を取り上げた政宗の手の上に自分のそれを置いた。 「主を差し置いて煙管を吸うのも、お前が天才だからか?」 「そうだよ、悪いか?」 政宗はその温かい手を振り払った。その気安さが何とも居心地の悪い思いをさせる。 小十郎は左手を行儀良く膝の上に戻した。それから庭を見やる。 更夜、暑さも一段落し、暗闇の静けさの中に虫の声が清かに聞こえた。開け放たれた板戸の向こうにある庭も今は屋内の灯火も届かず闇に沈んでいるが、実に平穏な夜だった。 「名を聞いていなかった」 「―――」 問われた言葉に暫く返事は出来なかった。 「景宗」ようやく応えた短い一言には様々な思いが含まれていた。だが、記憶のない小十郎にはその真意が汲み取れない。 「良い名だ」 それは社交辞令だったか、意図せず吐かれたものだったか。 政宗は2、3口煙をくゆらせ、その息を吐きつつ肝心な事を何気なく言い放った。 「あと10日程で政宗はこの城を出る」 「………」 「黒川城へ移って次の天下取りへの駒を進めるつもりだ。俺もそれに着いて行くことになった」 「おいおい…」 「俺はこの城で一時、あんたの世話を命じられただけだ。一方あんたは米沢へ帰す事になってる。俺の主人は実の所あんたじゃなかったってだけだ」 「―――そうか」 では仕方ないな、そう嘯いて小十郎は政宗の手から煙管を引ったくった。 庭を眺めるやる男の横顔を見つめていた青年の中に、衝動が刹那駆け巡った。彼の手を導いてこの肌を這わせてやりたい、と―――。 小姓であるその偽りの立場を利用すれば出来ない事ではなかった。だが、もし万が一小十郎に拒否されたりしたら二度と、"景宗"としても"政宗"としても二度と彼の前に立てない気がした。 「お前に家族はいるか?」 不意に尋ねられた時に、とっさにその意味が掴めなかった。暫く逡巡してから政宗は「そんなもの、いねえよ」と応えた。 「俺には父も母も、義兄も義姉もいるそうだ。だがおかしな事にそこら辺の記憶もすっぽり抜け落ちてる。面白い状態だな、これは」 面白がってんじゃねえよ、そう言う悪態は胸中のみに留めて政宗は身を乗り出して反対に尋ねてみた。 「覚えてるのは、どういった事だ?」 「例えば…煙管や褥とかだな。今が天正年間だってのも分かる。織田が倒れ豊臣が権勢を振るってるのも知ってる。…ここは猪苗代城だろ?それが猪苗代氏の居城だってもな―――。要するに、個人的な記憶だけが抜けていて一般的なものは残ってる、そんな感じだ」 小十郎は自分の状態を冷静に観察していた。 「記憶がないってのは、どんな感じだ?」 「…身の置き所に困るな」男は苦笑とともに煙を吐いてそう呟いた。 「何だか自分が陽炎になった気がする。ゆらゆらして追い掛けて行ったらふっと消えちまうような―――…」 そう言った小十郎が政宗を振り向いた。 「何もかも、頼りねえ…」 「―――…」 「何てえ面しやがる、お前が悲しむ事ぁねえだろ」 伸ばされた指の背でそっと頬を撫ぜられた。自分がそんな表情をしていた事に驚いて思わず身を引く。 「別に同情なんか…」 「同情してくれよ」 そんな台詞がこの男の口から飛び出して来た事に、更に驚かされた。 「他の奴らは皆、今の俺じゃない元の"小十郎"が戻って来るのを望んでやがる。でも俺にゃわからねえんだよ、"そいつ"が何なのか、どんな奴だったのか。どんなに探しても俺の中にそれらしきもんはねえ。…そりゃ、戻ってやりたいさ。済まないとも思う。でも、なんつうか……」 言葉を切って煙管の灰を火桶にたたき落とした。 「正直、腹立たしくもある、俺は俺だってな」 くるりと回した煙管を差し出され、政宗は何となくそれを受け取っていた。 「その点、景宗は俺にそんな期待をしてねえだろ?ま、以前の俺とそれ程関わりがなかったせいだろうが、そいつが今は却って有り難い。そのお前が同情してくれんなら思いっきり同情してくれよ、遠慮なく…」 そう言って、小十郎は煙管を差し出した手を床に突いて上体を伸び上がらせて来た。顔を間近で覗き込まれて体が動かなくなる。 期待が、別の意味の期待が胸の奥の鼓動を逸らせる。 身体には一切触れない口付けだった。 唇を食むように啄まれ、それがふわりと唇を覆った。 舌先が軽く唇を舐って悪戯するように何度も吸われる。最後に思ったより高く音を立てて唇が、離れた。 情けない事に、その時政宗はピクリとも動けなかった。ただ、胸の奥から込み上げて来るものが全身を満たしていた。それは訳の分からない内に透明な雫となって、唯一の左目から溢れた。 体を離した小十郎がぎょっとなって慌てた。 「ああ、済まねえ…お前にゃ歴とした主人が居るんだったな」 その涙の意味を取り違えた小十郎に泣くな、と言われてバカヤロウ泣いてなんかいねえ、と言い返してやった。 小十郎はその台詞にただ声を出して笑った。 次の日、小十郎の義姉の喜多が米沢から猪苗代城にやって来た。小十郎に会う前に先ず城主である政宗に目通る。 「真に申し訳ございませぬ、政宗様…。これからと言うこの時期に景綱めが飛んだ失態を―――…」 平身低頭で延々詫びる女御のつむじを眺めながら政宗は微笑った。やはり血の繋がりは半分だとしても姉弟だ、良く似て律儀だった。 「別に失態じゃねえよ。俺を庇っての負傷だったし、記憶がないのはおまけみたいなもんだ」 「わたくしは情けのうございます。…よりによって政宗様を忘れるなどと……有り得ませぬ。かくなる上は力尽くでもこの喜多が景綱の記憶を取り戻して見せましょう」 「おいおい、曲がりなりにも相手は手負いだ。手荒な真似はしてくれるなよ」 「いいえ、何より頑丈に出来ているあの子の事です。多少のお灸は必要でしょう。それに、そうでもしなければわたくしの気が治まりませぬ」 「―――喜多…」 政宗の苦笑が深まる。 ひのえんまの女か、と思わせる程気性の激しい女御の事だ、これは無事には済まされないぞと小十郎の身を悪戯心半分に思い遣った。 小十郎は簀の子を渡る衣擦れの音に顔を上げた。 手にしているのは手慰みの為に取り寄せた戦術書だ。景宗が渡って来たのかと思ったが、2人の女房を従えた凛々しい女御が姿を見せてその期待が外れたのを知った。 「どちら様で―――」 身分卑しからぬ小袖打掛姿に自然と言葉も改まる。 「小十郎、そこへ直りなさい」 女御、喜多は懐中から匕首を取り出して、そう冷ややかに告げた。 「……一体…?」 小十郎の言葉を遮って喜多は居丈高に叫んだ。 「義姉の喜多も忘れたか、この痴れ者め!!」 「―――」 喜多の語尾が微かに震えている事に、小十郎は気付いた。 褥から出て上着を掻き退け、姿勢を正して見せる。 「義姉上であらせられましたか…申し開きの仕様もございません。何とぞ、ご存分に」 「…記憶を失ったと聞き及んでおる。失ったものを何故取り戻そうとせぬ、申してみよ」 「そのように日夜努めておりますが一向に蘇って来ず、悶々とした日々を過ごしております。情けなくも存じております。それでも―――」 「言い訳など聞きとうない!」 一喝されて小十郎は黙った。 「情けないのはこちらの方じゃ…。大恩ある政宗公に忠義も立てられず、このように安穏と書など読み耽りおって…。そなたに恥と言うものはあらぬのか」 「お言葉ですが義姉上」 姿勢を正したまま、小十郎は片拳を床に突いた。 「わたくしが命を捨てれば良いのであればお気の済むように致しましょう。ですが、ただ記憶がない、その一事によってのみ命を召し上げられるのだとすれば政宗公は狭量よと世の誹りを受ける事になりましょうぞ。義姉上はそれで宜しいか?」 「…この―――相変わらず口だけは達者な…」 「義姉上がこの身を慮って下さっているその事実は今わたくしの骨身に滲みました…有り難う存じます。この上は、ただ政宗様の言質を待つばかりにございます」 言い終えた小十郎は床に額が着くくらいに平伏して見せた。 匕首を取り零した喜多がへなへなと床に崩れ落ちる。 「…この、愚か者めが……」 打掛の袖で口元を覆った下から漏れた言葉は、微かに濡れていた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |