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―記念文倉庫―

一息吐けるようになったのは、戦が終わって半月程も経ってからだった。
戦が行われたのは7月中旬、今田畑では見晴るかす限り青い稲穂が山颪に棚引いていた。
政宗は麻の生成りの一重のみと言う軽装で猪苗代城内を颯爽と歩き、小十郎の居室へと向かった。
意識を取り戻し、傷も快方へ向かっているとの報告を受けていた。ただ一つ気になる事があると言えば、それを報告しに来た良直の顔色が優れなかった事だ。暑気当たりでもしたか、と政宗はその時思ったが深くは追求しなかった。
開け放たれた一間に挨拶もなしに入ると、小十郎は白い単衣を纏ったまま褥の上に起きていた。顔色は良く、食事も普段通りに摂っている事が分かる。
だが次の瞬間、彼が放った一言に足が止まる。
「若造、室を間違えちゃいねえか?」
政宗の左目が軽く見開かれた。
「…間違えちゃいねえよ、ここは片倉小十郎に宛てがわれた書院だ」
「―――らしいな」
「怪我の具合はどうだ」
褥の脇を回って政宗は小十郎の左側に腰を下ろした。
武将の誰もが利き手ではない位置に人に居座られると心地悪く感じる。それは、政宗が常日頃から気遣っていて今では意識せずとも慣れ親しんでしまった動きだった。
それには気付かず、小十郎は応える。
「大事ない。もう動けると思うんだがな…」
回りの者たちが大事を取らせて動かせてくれない、と言って男は苦笑した。
その表情を見守る政宗は、何故か不思議な心持ちを抱いていた。最初の瞬間こそぎくりと心臓を凍らせたがそんなものはすぐ様呑み干した。今となってはただただ軽い驚きと新鮮さだけを味わっている。
―――何故だろう。
そう思ってもっと良く彼を観察しようとしようとした所へ、男が振り向いた。
「お前も、俺が何者なのか知ってる口なんだよな?」
非常に曖昧な問いだった。
それが彼の心中に今現在沸き起こっている戸惑いを端的に現していた。
「…少なくとも、お前が名無しの権兵衛じゃねえのは知ってるな」
「―――お前が伊達政宗か?」
「―――…」
返答はせず、政宗は俯きつつ軽く首を左右に振った。
「何でそう思う?」
「俺に対してそんなぞんざいな口調で話す奴が居なかった。…綱元、さんぐらいだったか。彼は俺の義兄だと言うしな」
「俺はただの小姓だ」
「小姓がその態度か」
「いいだろ、俺は天才なんだ」
自分でも何故とっさにそんな口から出任せを言い放ったのか分からない。あるいは、過去深い繋がりのあった伊達政宗として今の彼と相対したら耐えられないかも知れないと思ったか。
共に数多の激戦を潜り抜け、貴方の背中を守るのはこの小十郎一人と言った熱い誓いに結ばれ、更に体と心の深い処でも幾夜か繋がった事のあるこの男と―――。
政宗はもう一度、微かに首を振ってその考えを追い払った。
「俺が暫くあんたの世話を申し付けられた」
「そうか…俺の主人は案外、薄情なお方なのだな。話に聞くのと違って」
「―――どういう意味だ?」
「伊達政宗は俺を竜の右目と言って下にも置かない寵愛振りだったと聞く。真っ先に見舞いに来ても良いもんだがな。…やっぱりお前がその人なんじゃないのか?その右目は、どうした?」
頼りなさそうな両眼が政宗の顔を覗き込んで来た。
記憶を取り戻すよすがを、もはや己が主人である伊達政宗との邂逅に求めるしかないと思っているようだった。だが、今この目の前にいる自分に気付かないのでは同じ事だ。
「俺の、右目は―――わざと潰した。政宗に気に入られる為にな」
「…無茶をするな」
「別に良いだろ、そんな事」
顔を背けて俯く青年の表情を小十郎は追うようにして伺っていた。見知らぬ人々の中で、誰もが自分の知らない事を姦しく言い立てる。誰が真実を告げ誰が嘘を吐くかなど見分けられる筈もなかった。
やがて彼はそっと背後を振り向いた。
床の間に据え置かれた衣架に小十郎の陣羽織が掛けられていた。左利きの彼の為にわざと左腕の袖が短く設えられたそれ。
「俺は戦の度にあれを身に纏って、内着は左前にしていたそうだ…それは死者の装いだ。戦に臨んでは何時でも死ぬ覚悟は出来てたって訳だな。…何とも不思議なものだ…」
「あんたは優れた武将だった。知将としても最高だ。政宗があんたを下にも置かないってのも事実だ。だが、今は忙しいんだろうよ」
「………」小十郎は声もなく笑っていた。
「何だ?」
「…いや悪い。お前の言い草がな、"武将だった"って過去形になってるもんだから、つい―――。俺の役目は記憶がなくなったのと同時に終わったんだなって分かっちまって…」
「な…」
「悪い。けど、お前分かり易過ぎる」
「………」
どうして記憶はないクセにこうも容易く人の心を読んでしまうのか。その事に絶句していた政宗は、やはり同じように笑わずにはいられなかった。
こいつは以前から自分の知らない所で色んな事に眼や気を配っていた。その情報があってこその知将だ。記憶がなくなろうとも、もう一度それを積み重ねて行けば軍師の役目を立派に果たせるだろう。更に言うなら、長い時間を掛ければこの身が男を求めている理由にも気付き、気持ちを通わせるのもそう難しい話ではない筈だ。
―――そう考えている我が身が何とも浅ましかった。
「…余計なお世話だ。それより小十郎、お前腹は?」
「ああ、空いたな。―――それと、小姓が付いたついでにこっちも頼めるか?」
そう言って小十郎は酒杯を傾ける仕草をして見せた。
「しょうがねえな、一本だけだぞ」
「有り難い」
すくと身軽に立ち上がってざくざくと歩き去って行く若い後ろ姿を見送ってから、小十郎は再び己のものだと言う陣羽織を振り向いた。
―――思い出したい。
そうは思っていた。
代わる代わる彼の様子を見に来る家臣らは皆一様に小十郎に記憶がない事にショックを受け、涙を流す者すら居た。片倉小十郎と言う御仁は余程皆に慕われていたのだろう。その彼らが分からない自分が情けなかった。その上、己の半身と言う意味を含ませた「竜の右目」の二つ名を頂いている伊達政宗に対しては、申し訳なさと共に途方に暮れる思いとが相まって如何ともし難かった。
―――それ程、大事にされた方なら面通りすれば何か思い出すかも知れないのに。そう思って政宗が渡って来るのを密かに待っていたのだが、とんと音沙汰がない。先程の青年がつい口を滑らせたように、政宗の中ではもう自分は用済みなのだろうと思うといたたまれなさに身が裂かれるようだ。
―――そういや、先刻の小姓の名を聞くのを忘れていたな。
自分がこれからどうなるのか分からないが、せめて新たに関わって行く者たちの名と顔は全て覚えておこうと小十郎は心に決めた。

だが、食膳を運んで来た侍女たちの中にその青年の姿はなかった。

政宗はその時、城の居室で近しい家臣らと酒杯を傾けていた。
「医師の見立てでは一時的に記憶の混濁が起こっているだけだと申します。ここは一先ず米沢に帰って養生させた方が宜しいかと」
手にした酒杯を膝の上に置いて、小十郎の義兄・綱元が静かにそう言った。
「まあ、それでいいだろうな」と政宗。
「政宗様も一時、ご帰城なされたは如何でしょうか?あれの記憶が戻るのは、やはり政宗様がきっかけかと存じます」
「今日、会って話したがこれっぽっちも反応してなかったぞ」
「それは…徐々に―――」
「今はそんなのんびり出来る時期じゃねえ」
政宗はきっぱりと言い放った。
「奥州を平定したは良いが、まだ不安定なのには変わりがねえ。それに、天下取り気取ってやがる秀吉の惣無事令を完全に無視した戦だったのは、始める前にお前たちに話した通りだ。奴が何言い出して来るかわからねえこの時に、不便な山奥の米沢に帰る訳にゃ行かねえよ。俺はこの後しばらく黒川城に移り住む」
黒川城は、今回滅ぼした蘆名氏が居を構えて会津一帯を納めていた蘆名氏代々の居城だ。そこを足がかりに関東、果ては京への進出を目論んでいる政宗にとっては抑えておきたい要所でもあった。
「記憶が戻ったら後からこっちに合流すりゃ良い」
「ホントにそれで良いのかよ、政宗」
「Ah?」
成実が盃を脇に押しやって詰め寄って来た。
「小十郎とは一心同体みたいなもんだったじゃないか。それを、あっさり…」
「そうっすよ、筆頭!!」と続いて良直もにじり寄る。
「片倉様の記憶が戻るよう、俺たちも最大限努力しますから、絶対別々の場所に離れるなんて言わないで下さいよ!!!」
「離れたら、思い出した時に片倉様は傷付かれますよ!自分が情けないっつって又腹を召されようとなさるかも!」
「記憶がなくたって常にお側にいればきっと片倉様だって嬉しい筈です!」
「お願いです筆頭!!片倉様をどうかお側に…!」
良直に続いて佐馬助、文七郎、孫兵衛らが同じように必死の形相を詰め寄せて来る。それに対して政宗は鬱陶しそうに空いた片手を振った。
「うぜえよ手前ら、今生の別れじゃあるめえし」
「薄情だぞ、政宗!!」
珍しく成実がヒステリックに叫んだ。
「お前が一番辛いのは俺にだって分かる!けどな、俺たちだって小十郎の居ない城なんか、戦なんか、淋しくってたまんないんだよ!!小十郎がどんだけ俺たちの支えになってるか、分かってるか?あいつはお前一人のもんじゃねんだよ…!!」
「―――成実様」
さすがに領主に向かってそれは失礼だ、と言おうとした綱元がその言葉を言い掛けて呑み込んだ。彼自身も同意見だったのだ。そして、成実が睨みつけ良直たちが注視する我らが主を振り向いて、綱元は更に言うべき言葉を取り零した。
彼のその佇まい、かんばせ、口元に浮かんでいるもの―――。
「ああ、俺は恵まれているな。誰よりも恵まれている…」
そう微かに呟いて政宗は口を閉ざした。彼の口からそれ以上のものは決して語られる事はなかった。

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