「Oh boy, I have had my work stolen by him.(あーあぁ、僕の仕事、取られちゃった)」
翌朝、食事のテーブルであから様にラサにそう言われて、小十郎は咽せて咳き込んだ。政宗は素知らぬ顔で食事を続けている。
「何の事だ?」
朝から鶏肉入りのおかゆを何杯も平らげている綱元が、聞き咎めてそう尋ねた。ヒアリングだけは出来るので始末が悪い。
「た、多分、パトンビーチでの行商の事でしょう…」
小十郎は苦しい言い訳でその場を凌いだ。
機嫌の直った政宗の提案で、その日はアクティビティの体験出来るビーチへ行ってシーウォークやダイビングなどをして過ごした。まだ肌は痛むようだったが我慢出来ない程ではないようだ。成実やカロンとはしゃいでいる間に忘れてしまうぐらいには快復していた。
綱元の腰も良くなったようだ。ダイビングには彼も付き合った。
残されたのは又しても小十郎とラサだったが、不機嫌そうな小十郎はまともな会話をしようとはしない。ラサはただ肩を竦めてこれだけは言った。
「I pray for your future having much good luck.(君たちの将来が幸多き事を祈るよ)」
「It's the care that it doesn't need(いらん世話だ)」
速攻で帰って来た台詞に、ラサは苦笑を一頻り零した。
コーラル島にはもう一泊してプーケットタウンに戻った。
ジワンは、政宗たちがいたくコーラル島をお気に召したのを喜んで、その夜は奥さんの手作り料理をご馳走してくれた。
そして、出立の朝。
荷物をまとめていた成実のTシャツを、不安げな様子でカロンが掴んでいた。
見送りの為に一緒に来ていた兄を振り返ってはタイ語で何事かを問い掛ける。だが、ラサに返す言葉はない。
両親はもう戻って来ないのだ、そうはっきりと妹に告げられないのと同じように。
「おい、成実。遅えぞ」
既にレンタカーに荷物を詰め込んで来た政宗が部屋の戸口で声を掛ける。相変わらずカロンは成実のTシャツを掴んだままだ。
「何時までそうしてるつもりだ?飛行機が出ちまうだろ」
「わかってるよ!」
珍しく成実が癇癪を起こした。
そうしてから、気持ちを落ち着かせてカロンの泣きそうな顔を振り向く。それへ、カロンは小さな声で何かを尋ねた。タイ語なので分からないが、多分「何処へ行くの?」とか「帰って来るの?」とか、そう言った事だろう。
「あの、さ、カロン…俺―――」
政宗だけでなくラサも、小十郎や綱元もやって来て、この様子を見守っていた。
「俺、俺…」と繰り返すばかりの青年を。
「あげいん…」
「成!」
政宗が鋭く従兄弟の言葉を遮った。
「約束出来んのか、又やって来るって?…何時?お前、俺の片腕として伊達をしょって立つんじゃねえのか?」
「………っ!」
「いつ来れるとも分かんねえのに"また"待たせるつもりか?」
「―――…」
成実は自分の膝に拳を突き立てて項垂れた。
待つ事は辛い。待たせた方は何時しか誰かが待っている事を忘れてしまうかも知れない。人はそれぞれ別の方向へ進んで行くものだ。共に歩ける時間は少ない。それが旅人であれば尚更、余りに少ない。
「カロン…」
成実は自分のTシャツを掴む少女の手を取った。
淡い恋心だったのか、それは本人たちにも分からない。己の身の内から引き裂かれるような痛みだけが現実だった。
「ぐっばい」
「シゲ?」
少女に片言の発音で呼ばれ、心が折れそうになる。
―――だが…。
「ぐっばいだ、カロン。あい ごー とぅー ほーむ」
「Home?」
「そうだカロン。俺は俺のほーむに帰るんだ」
少女の瞳が揺れて一杯の涙がつ、と溢れた。
「ぐっばいだ、カロン!」
呻きながら成実はカロンの細い体を抱き締めた。
妹の様子を見ていられないと言った風に、ラサは顔を背ける。それへ、小十郎は背中を押して促した。
「Chalon…」とラサは優しく静かに妹に声を掛ける。
そうして、成実が手を離しても呆然と座り込んでいたカロンを抱き起こす。彼女はただ呆然と眼を見開き、ここではない何処かを見ていた。あの、落ちた海中で見せた幽玄のあわいにあるような表情。
その耳元へラサは忍耐強く話し掛ける。
妹がこの場へ戻って来るように。その幼い顔に笑いが戻るように。
政宗は俯いた成実の肩を叩いて促した。小十郎が彼の荷物をまとめて運び出す。表情を殺した綱元は、成実の肩を抱き寄せてホテルの外へ連れ出して行った。
「Hey, Lhasa!」と政宗が声を飛ばした。
「Should not you take off a morning dress anymore?(いい加減、喪服を脱ぐべきなんじゃねえか?)」
「―――…」
「Is not only a younger sister, as for yourself.(妹だけじゃない、お前もだ)」
「I understand it.(分かってる)」
妹を抱きながら、ラサは漆黒の瞳をひたと政宗に当てた。
「Hey, do you know such a story?(ねえ、こんな話知ってる?)」
その顔が、何故か泣き笑いのような表情を刻んでラサは言った。
「The sun is dead every day at the other side of the sea, and It's born every day from the sea. There is not the same sun with two. that is always newborn.(太陽は毎日海の向こうで死んで、毎日海の中から産まれるんだ。同じものは二つとない、いつも生まれたての太陽だって)」
「………」
「Though it should have been thrown off like that in the past.(過去もそんな風に脱ぎ捨てられたらいいのにね)」
「Even you may do it. As for the night that day does not break, there is not it.(出来るだろ、明けない夜はねえ)」
「You are cool.(言うねえ)」
政宗はラサの美しいアルカイック・スマイルをろくに見もせず、とっとと踵を返した。