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―記念文倉庫―

日付が変わる少し前に試合は捌けた。
興奮冷めやらぬまま人々は三々五々散って行く。会場の外にはTuKTukタクシーが列を成して乗客を待っていて、それぞれの場所へ帰って行く人々を乗せて散って行った。
ラサとカロンがここで別れると言う。
「えっ何で?!カロンちゃんが一人になっちゃうじゃんか!」
話を聞いた成実が声を張り上げる。
ムエタイの試合中に一緒にはしゃいでいる内に、言葉が通じなくとも気持ちは通ったようだ。なー?とカロンに表情で問うとカロンは成実のTシャツの裾を摘んだ。
「バカ成、聞いてなかったのか?」政宗が従兄弟の頭を小突いた。
「ラサはパトンビーチに魚売りに行かなきゃならねえんだろうが。それで昨夜もカロンはジワンの宿に世話になってたろ」
「あ、そうか―――。じゃ俺たちとゲームしよう」
ころっと笑うとカロンも微笑んだ。
「Return to the home with your younger sister.(2人とも家に帰れ)」
政宗と成実の背後から言い放ったのは、小十郎だった。
何事かと政宗は振り返り、ラサも無防備な表情を見せた。
「You think that I employed you as a guide for what?(何の為にお前をガイドとして雇ったと思ってる?)」
そうか、と政宗は気付いた。小十郎がラサとカロンをガイド役として雇った裏の理由に今思い当たった。
カロンには身内と過ごす穏やかな時間が必要なのだ。話したい事をじっくりと話し、あるいはただ側にいるだけでも良い。両親の死を共に悲しむ存在が、今正に必要としているものだった。
「Because drinking it pays a guide bill as much as you peddle it and again, return to the home with a younger sister for a while.(お前が行商して儲ける分くらいはガイド料払うから、しばらくは妹と一緒に家に帰れ)」
呆気に取られていたラサが不意に笑み崩れた。慣れた営業スマイルのそれではなく、不器用な青年の照れ笑いだった。
「You are a good-natured person.(お人好しだね)」
「It's the care that it doesn't need.(いらんお世話だ)」
「Or will I go to the hotel?(それとも、僕がホテルに行こうか?)」
クスクス笑いが深まって、小十郎は片眉を上げた。
「Return to the home!」
「OK! see you next day.」
ラサは軽やかな笑顔と共に妹の手を取ってTukTukに乗り込んだ。

ヴィンセントは度々誰かに追われて小十郎のスタジオに転がり込んだ。
それは警察だったりギャングだったり様々だったが、その度にボロボロになっていたのには違いはなかった。
そしてその度に小十郎は彼を庇った。
何故とはもう二度と問われなかった。その代わり、ヴィンセントの行状は悪化して行く一方だった。計画的だった強盗は思いつきに、通りすがりに繰り返され、それは男でも女でも年寄りでも子供でも何でも良くなった。ドラッグの常用は以前からだったが、その量が増え、質の悪いものにも手を出すようになった。ギャング仲間やボスなどには半ば見捨てられてもいたようだ。
小十郎に対する態度も徐々に荒れて行った。何でもない時に突如ものを投げ散らし、怒鳴りつけつつ小十郎を殴った。
小十郎の優しさに触れて、ただ粋がっていて享楽的に生きて来た男が何故か人間として壊れて行く―――。
それが分かっていながら小十郎にはどうする事も出来なかった。
小十郎に暴力を振るうのも、ただ自分のせいだと分かるだけだ。手の施しようもなかった。
会話は意味を成さないものになった。
「俺を憎めよ」とヴィンセントは言った。
「憎めない」
何で憎まなくてはならないのか小十郎には分からない。
「警察に突き出せよ」
「自分で出頭すれば良いだろ」
「俺を罰しろ」
「俺が?何で」
たまに交わす言葉はそんな風にすれ違いばかりで。
全部、全部―――。
今となっては「俺を愛してくれ」と言う男の悲痛な叫びだったと小十郎は思う。幼い頃の家庭環境が荒んだものだったのだろう。もしかしたら虐待も受けていたのかもしれない。他の、犯罪に手を染める若者の多くがそうあるように。

試合の興奮のせいか、それとも別の興奮のせいか知らないが、寝付けなかった小十郎はテラスからジャングルみたいな庭に出た。
自分の中に例えばヴィンセントのような、例えばカロンのような心のしこりが残っているのだろうか、と小十郎は考えた。
―――あるとすれば。
政宗に対する欲望が暴力に結びつくのではないかと言う恐ろしい予感だ。
征服したい、踏みにじりたい、全て奪い取ってやりたい、そうした衝動と背中合わせの愛おしさをただ隠し通して来た。
他の商売女や男に対しては決して抱く事のないそれを、唯一彼にだけは持ってしまう皮肉。本当に欲しいものだけが手に入らない、手に入れたと同時に壊している自分。そんなものが容易く想像出来てしまうのだ。
だからこそ、過去の事など彼には話せないのに。
だが、政宗のあの傷ついたような表情には参る。
本当に参ってしまう。
小十郎は思わず手近にあったシダの葉を毟り取っていた。
ガサリ
背後の叢で気配が動いて、小十郎は振り返った。
「…政宗様……」
白い短パン一枚で自分の腕を摩りつつ歩み寄って来る政宗。庭のそこここに仄かな照明が施されている。それに映し出された表情はむっつりとして不機嫌そうだ。
「背中が痛くて眠れねえ…」と彼はその顔のままぼやいた。
「ビーチは無理ですよ。海にも入れないでしょう」
「んーまあな…最終日までに治まったらな…」
会話が途切れて、虫の音が響く沈黙が降りた。
二歩、三歩とサンダルの足で歩いて政宗がこちらを振り向いた。照明を背負ってしまってシルエットとなったその表情は伺い知れない。ただ、熱帯の熱い空気に互いの息遣いだけが潜んでいるようだった。それが、某かの隙を、あるいはチャンスを狙っている。
息の詰まるような静寂に堪えかねたのは、どちらだったか。
政宗がふいと顔を反らしたのと同時に小十郎は「政宗様」と呼び掛けた。
「何」顔を反らしつつ、ざくざくと土を踏みしめて青年が近付いて来る。
「もう一度、ローションを塗っておきましょうか、それ程痛むのでしたら」
「………」小十郎の脇を通り抜けようとして青年が振り向いた。
小十郎とその片目が合うと動揺したように再び反らされる。
「いい―――お前に触れられると変になる…」
「…は?」
「だから…!」声を張り上げようとして、今が深夜なのに思い至る。
政宗は、男の背後に回りながらぼそぼそと呟いた。
「言わなかったか?…何か、したくなるんだよ……お前に触れられると…」
「………」
そんなのは初耳だ。
似たような事は言われたが、それは確か「何時もと違う感じになる」とかそういうものだった。
「条件反射かな…」
そんな事を嘯く青年の耳の後ろ辺りから項への流れを、小十郎は凝視した。
凝縮した熱帯の果実が熟れたような香りがした、気がした。
それは、今にも樹上からもげ落ちそうでいて、未だしがみ付いているような毒々しい色の果実だった。
小十郎がふらり、と体を揺らした。
てくてく歩いていた政宗の眼前を何かがひゅっと空を切る。目の前に突き立てられたのは小十郎の右腕だった。体を押されながら、そうして後ろ足が木の根に蹴躓いて背が何か柔らかくてちくちくしたものに突き当たった。体を反転させようとした所へ、もう一方の腕が突き立てられた。
苔むした木の根を背にして、政宗は小十郎の突いた両腕の中に閉じ込められていた。項垂れた男の表情は闇に溶けて見えない。ただ、何故か肩を大きく揺らして荒い息を吐くその様は苦しそうで。
ひりひりと言うか、ちくちくと言うか、疼く背中を無視して政宗は眉を潜めた。
「…小十郎……?」
抱き締めたい、そう思った。
無防備に晒された素肌を心行くまで味わいたい、と。
この手に触れられるだけで求めてしまうような体になってしまったのなら、自分を受け入れてくれるのではないだろうか。
そうして、したいと言うその身体を開いて何処までも追い詰めたかった。
だが、だが、だが―――!
己の心と葛藤する男を政宗は何と思ったか、その首に両腕を回して頭を抱き寄せた。男の腕が微かに震える。
「俺があんまりいい加減だから、お前に心配かけてるんだよな」
「………」
「お前の過去を詮索したりして悪かったよ、それも謝る」
「―――…」小十郎が大きく息を吐いた。
「でも、さ…あんな事するの…お前だけだからな」
「……っ!」
「信じろよ」
何だそれは一体どういうつもりの台詞なんだまるで愛の告白じゃないか。まさか俺がビーチに行くのに反対してる理由をそんな風に思ってたのか?そんな事を自ら望んでするような人じゃないだろうそんな事は分かってる。と言うか俺がそういう風に考えているとこの人は思っていたのかそんなの心外だ―――。
ずるずると絶え間ない思考が巡って目が回りそうだった。
「…勘弁、して下さい…政宗様」
「あ?
「貴方のその言葉は、その気がある男には誘い文句にしか聞こえません」
「なっ!!」
政宗は思わず小十郎の肩を突き飛ばしていた。
「…っの、バカヤロウ!」
色の見えない夜の闇の中だが、多分顔は真っ赤だろう。
「ヒトがせっかくしおらしくしてやってんのに…っ」
「済みません」
笑いを堪えながらの謝罪が更に油を注いだようだ。
「もう寝る!」大人げなくそう一言叫んで政宗は走り出そうとした。
小十郎はその腕を取って、今少し引き止めた。
「貴方と出会ってからの11年間、様々な事がありました。それ以前の過去より俺にとってはその時間が重要で意味のあるものなんです。そして、今とこれから…小十郎はずっと貴方のお側にいるし、貴方をいつまでもお守りする。それだけは確かな事です」
「―――」
むっとした様子の青年が小十郎の腕を振り払った。
「…その言葉、忘れんなよ…」
「しかと」
肩を怒らせて歩み去る年若い頭首を見送って小十郎は小さく息を吐いた。これが、今の小十郎が言える精一杯だった。

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