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―記念文倉庫―

昼食とシエスタをマカム湾のその漁村でのんびりと過ごした後、夜に再びラサたちと再会する事を約束して別れた。
ホテルの部屋で成実が妙なダンスを踊っていた。
「ワイ・クルーってんだ」そう言って低い姿勢でぐねぐねと体を動かす。ムエタイ・ボクシングで試合前に踊られる神聖な舞のつもりのようだが、一風変わったヨガにしか見えなかった。
今夜8時から開催される本物の試合を見に行くとあって、今の成実の頭の中はムエタイで一杯だった。ラサとカロンと言う友達も出来て楽しくてしょうがないと言った感じだ。
政宗は小十郎が危惧した通り、日焼けした肌をヒリヒリに腫らしてベッドの上で唸っていた。俯せにベッドに横たわり、枕に顔を埋めている。
ベッドルームは二つ、それぞれ籠の衝立てで居間とは仕切られているだけだ。成実が妙な踊りを踊りつつ、妙な鼻歌を口ずさんでいるのも聞こえて来る。
「あのヤロー、ムカつく…」
能天気な成実に一つ毒づいて、ちょっと動かすだけで灼け付く痛みに襲われてはうーんと唸る。
「政宗様、ローションを買って来ましたよ」虫除けのカーテンを開けて小十郎が入って来た。
「絶っっ対、試合には行くからな…」
痛みをこらえて呻く政宗に苦笑を一つくれてやってから、日焼け用のローションを取り出す。さすがタイ人の生活の場であるプーケットタウンだ、ドラッグストアの場所をジワンに尋ねて15分程で買って来られた。
小十郎はローションを手に塗りたくって青年の肩から肩甲骨へと伸ばした。タイ香料の独特の香りが辺りに広がった。
「う……」
その冷んやりとした感触と痛みとに思わず声が漏れる。
肩から腕へ、腕から肩へ、男の冷たい掌が冷たいローションと共に滑る。こんな事ですら、自分の中に怪しい炎を灯してくれる男の仕草がえらく憎らしかった。他の男に、等と考えた事があるのなら、その目ん玉をくり抜いてやりたいと思った。
「せっかくガイドが付いたんだ…ビーチにも行こうぜ、小十郎」とわざと言ってやった。
「しかし…観光客だらけですよ」
言い淀む小十郎が位置を変えて反対側の腕を取った。
「俺も、アマタン海の真珠ってのを見ときたい」
「………」
「夜じゃなきゃいいだろ、白人には気を付ける」
小十郎の手が止まった。
首筋の痛みを堪えて政宗はどうにか小十郎の方を振り向いた。何か物思いに耽っていた小十郎が慌ててローションボトルを手に取った。
「…ボストンでの事と何か関係があるのか?」
「いえ―――」
「なあ、小十郎」
ふう、と息を吐きつつ政宗は眼を閉じた。
「お前にどんな過去があろうと今の俺たちにはあんま関係ねえのは分かってるつもりだ。でもよ、ラサの妹みたいに変な感じに残ってると今が辛いんじゃねえのか?ラサの奴は待つ事に決めたそうだが、俺はそんなの性に合わねえ。残ってるもんがあれば全部吐き出しちまえよ」
「政宗様」
「お前も俺の話、聞いてくれたろ。同じ事だ」
「辛い事は何も…小十郎は今とても幸せですから」
「―――…っ」
襟足を掻き上げられ、項を男の掌がするすると這った。ローションが滲みる痛みと、胸元に競り上がって来る息苦しいものに政宗は喉を詰まらせた。
やがて、男の手が離れて行って政宗ははあ、と大きく息を吐いた。
「これでしばらく様子を見ましょう。夜まで大人しくしていて下さい」
背中に低い声を残して、小十郎はカーテンを押し退けて出て行ってしまった。
政宗は小さく舌打ち一つ、零す。

生まれながらの悪などいない、生まれながらの善も。
基信からの小遣いでボストンのダウンタウンに借りたスタジオに住み始めて間もなく、誰かに追われてヴィンセントが飛び込んで来た。
打撲と、銃撃されたらしい血の痕が服を濡らしていた。窓の外を見ると警察官が2人、この建物に入って来る所だった。
小十郎はボクシング用の包帯とテーピングをヴィンセントの膝の上に投げやって、部屋の扉を開いた。薄暗い廊下に転々と血痕が続いていて明らかに目的の人物がこの部屋に入ったのだと分かってしまう。
小十郎はヴィンセントをバスルームに追い立てると、テーブルを蹴倒し雑誌ラックを投げ捨て、ついでに窓ガラスを割った。
騒ぎに駆け付けた警官に、小十郎は慌てた様子で不審人物がここで暴れて窓の外へ飛び出して行ったと告げた。小十郎の部屋は2階だったため警官は信じたようだ。彼らは血相変えて部屋から出て行った。
バスルームに戻ると、ヴィンセントは余人を近寄らせない獣の目つきで小十郎を睨みつけて来た。
男と一緒に放り込んだ包帯とテーピングを黙って拾い上げる小十郎に向かって、ヴィンセントは唸るように言った「強盗して来た」と。
「人も殺した」
男を振り向いて小十郎はテーピングを手に立ち尽くした。
そんな事だろうと思った。
この時、自分が取るべき「正しい」行動を小十郎は承知していた。だがそれをしなかったのはそもそも自分の存在が正しいのか否か、自信がなかったからだ。正当性を主張するなら、当たり前のように日本で暮らしていて当たり前のように親の期待に応えている筈だ。
「今はあんたが死にそうだ」
だから手当をすると、だから警察からも庇うと言うような言い草に、ヴィンセントは鼻で笑った。
「同情かよ」
「…分からない」
真剣な顔の少年にそう言い返され、却ってヴィンセントが奇妙な表情を刻んだ。そうしてから訳が分からない、と言った風に顔を左右に振る。
「手前は、バカだ」
されるがままの男に応急処置を施した後、動けないヴィンセントをバスルームに置きっ放しにしてその夜は休んだ。
次の日の朝ヴィンセントの姿はなく、元に戻されたテーブルの上に20ドル紙幣が何枚か置かれていた。
割ったガラスの代償だとでも言うつもりだったか。

昨夜と違う屋台で夕食を済ませた政宗たちは、噴水サークルの前でラサ・カロン兄妹と待ち合わせた。そこからレンタカーでボクシング・スタジアムに向かう。
観光客も多かったが、やはりローカルな試合場だけあって圧倒的に現地人が多かった。ムエタイはタイ人にとっては神聖な国技であり、華々しいショーであり、また賭け事好きな彼らには贔屓の選手に金を賭けて熱狂的な声援を送る最大の娯楽でもあった。
試合は夜8時から始まり、9試合前後、11時半まで開催される。
最初は小学生くらいの少年たちだ。
お互い様子見で始まり、挑発や誘い技などで場を盛り上げる。後半になると小さな体が鞭のようにしなる技を鮮やかに繰り出し、汗を飛び散らせた。
観客たちが喝采を上げる。
ボクシングと違って膝や肘での攻撃もあって、それがジャンプなどと相まってまるで民族舞踏を思わせる華麗さだ。子供たちの試合でさえこうなのだから、後に控えた大人たちの試合たるや、迫力が段違いだった。
肉と肉、骨と骨とがかち合うビシバシと言う音がリアルに聞こえて来る。鍛え抜かれた体がふわりと宙に舞い、唸りを上げて蹴りが叩き込まれる。
これはタイ人でなくとも血沸き肉踊る興奮を呼び起こしてくれる。
観戦してる政宗や成実、綱元は勿論の事、地元民であるラサやカロンでさえも喉を枯らさんばかりに声を張り上げている。
小十郎も思わず握り締めた掌に汗をかいていた程だ。

試合の入れ換わりの最中に小十郎は席を立ってトイレに行った。ついでに何処かでドリンクが手に入らないか見て回るつもりだった。
そこへ、後からラサがやって来た。小十郎の顔を見るとにっこり笑って、かと思うといきなり胸を突き飛ばされた。たたらを踏んだ背中がトイレの個室のドアをぶち開け、それを追ってラサがドアに鍵を閉める。
「Do you do a very rough thing?(ずいぶん手荒な真似してくれるじゃねえか)」
「There don't be very the chance that can be just two of us.(2人きりになれるチャンスがなかなかなくてね)」再びにっこりと微笑んだラサが、その笑顔に似合わない薄暗い台詞を吐く。
「Is it your true character?(それが手前の本性か?)」
「You pretend ignorance in what? Is it you to have bought me?(何とぼけてんのさ、僕を買ったのはあんただろ?)」
「As for joking randomly….(ふざけんのもいい加減に)」
トイレの便器に小十郎を押し倒して、青年はその片膝の上に跨がった。そうして片手でスラックスの上から小十郎の股間のものに手を伸ばす。
「Even frustration is written in the face….(欲しいって顔に書いてある)」
そう嘯いてクスクス笑うオリエンタルな美貌は、正しく男娼のそれだった。
「Stop it….(やめろ)」
「Really?」
わざと驚いた顔をして、ラサは形を取りつつある男のそれを布地の上から強く掴んだ。
「Do you think really so?」
「………っ」
妹のカロンは知っているのか?知ったらどんなに衝撃を受けるか考えた事はあるのか。例え妹の為だと言っても、実の兄が体を売って金を稼いでいるなどと。
「You are stupid….(バカだね)」小十郎のそんな考えは見透かしている、と言うように青年はアルカイック・スマイルを浮かべる。
「A man is no use even if he promises virtue to anyone if he doesn't handle it.(誰かに貞操を誓っていても男は処理しなきゃダメなんだよ)」
個室の外に誰かがやって来て、ラサは口を噤んだ。
そして、小十郎の体に跨がったまま上体を倒して唇をその耳元に寄せる。
「I do the help(僕はその手伝いをするだけ)」
声もなく囁かれた言葉。
下半身で蠢き続ける青年の細い指先―――。
思い出されるのは今日、ローションを塗ってやった時の政宗の肌、その感触だ。呼吸する度に浮かび上がる肋骨の影や、苦しげに呻く横顔と強張る躯に。
そんな事が過去数え切れない程あって、この先も又数え切れないくらいあるだろう。それでも己の劣情を隠して来たのは。
―――恐ろしい…。
「All right」人の気配が消えて、ラサは呟いた。
「Because this is work. you don't need to feel a sense of guilt.(これは仕事なんだ。だから、あんたが罪悪感を感じる事はない)」
は、と小十郎は声もなく笑った。
「…You are good at saying.(上手い事言いやがる)」
男の様子が変わったのをラサは見入った瞳の中に見た。完全武装を終えた拳闘士の血の匂い、あるいは落ち行く日の最後の赤光。そして男はラサの髪を掴んで、引き寄せた耳元に息と共に吹き込んだ。
「Try it…. If it's a poor hand, I don't pay the money.(やってみろ、ヘタクソだったら金は払わねえ)」
刹那、気勢を削がれた青年はそれでもプロと言うべきか、例のにっこり笑顔で応えた。
「All right.」

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