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―記念文倉庫―

マカム湾に到着すると、既に一仕事終えて来たらしい政宗たちが小さな手漕ぎ船から降り立った所だった。
マカム湾の一角は干潟の周囲をジャングルが囲んでいる。その中に小さな民家や漁業組合らしい素っ気ない建物がポツリポツリと垣間見えるだけだ。長閑で素朴な地元民の本物の暮らしを目の当たりにすることが出来る光景だった。
「あっ、小十郎!!何か色々獲れたぞ!」
鼻の頭に汗の玉を結んで、成実が声を張り上げた。
車を干潟の片隅に置いて、小十郎は上着を肩に引っ掛けたままそちらへ歩み寄っていた。船底には漁網が丸められていて、その脇の大きなバケツに黒々と魚たちが蠢いてる。
「熱帯だってのに随分地味な魚ばかりだな」
「何だよ、熱帯魚なんて食えないだろ」
「その意気だ」
小船は二艘あって、もう一艘からは政宗と綱元が降りて来た。「そちらは、どうです?」
小十郎に声をかけられると綱元が白い歯を見せて笑った。
「大物狙いと行きたかったんだがな、内海じゃそれは無理らしい」
「フライにすると旨いんだってよ」と政宗が脇から口を挟んだ。
確かに、フライにしてとろりとした甘辛い餡を掛けて食べたらタイ米に合いそうだった。
「食えりゃいいだろ。第一、そんなデカイもの獲ってどうすんだ。あのホテルの冷蔵庫に入り切らねえだろうが」
「そりゃ、そうですね」
小十郎は苦笑して頷いた。
「もう一回出るそうだ、小十郎お前代われ」
「どうしたんです、綱元さん」
「いや、まあ―――」
綱元が言い濁した後を政宗が続けた。
「年を感じたんだってよ」
「政宗様…」と言って綱元は多少慌てた素振りを見せた。
彼も40を幾つか越えた。さすがに揺れる船上で水を大量に含んだ投網を引き上げるのは難儀と見える。シャツをぐっしょり濡らす程の汗に、日に焼けた顔が困ったように笑んだ。
「そんな訳で俺は車で休む。意外に成実の奴がやりやがる」
そう言い残して、綱元は彼らに背を向けた。
小十郎は空を見上げた。
雨の気配一つない青空はあっけらかんと晴れ渡っていた。太陽の光がこれでもか、と言うように降り注いでいて物の影を濃くする。午前中でこの日差しと暑さでは、気温のピークとなる昼下がりはどうなってしまうのか。
その小十郎の心中を読んだかのように政宗がポツリと言った。
「もう一回漁に出て、あとはシエスタ(昼寝)だそうだ。夕方にも出るが、それはあまり期待しない方が良いって」
「成る程、さもありなん、ですな」
ふと、小十郎の眼がランニングを着た政宗の剥き出しの肩先に落ちる。それへ手を乗せると日に焼けてしまったらしい火照りが感じられた。
「政宗様、Tシャツは着ていた方が―――」
言い掛けた所へ、手を振り払われた。
「………」
「や…ちょっとお前の手が冷た過ぎて、びっくりした…」
まだ怒っているのか、と小十郎は眉尻を下げた。
捕った魚を籠に入れて海水に浸して来た漁師の男が戻って来た。彼らはタイ語で何事か言葉を交わし合い、各々の網の具合を調べたりする。直ぐに船を出すものと思っていたが、そんな風にして彼らも休憩を取っているようだった。
「岬の先、外洋まで出ればいかにもって熱帯魚がいるそうだ。そこまで出ても良いが、もっと早い時間じゃねえと人間が蒸し焼きになっちまうってよ」
「やはり、8時過ぎでは遅かったですか」
「3時4時だそうだ」
何気なく言葉を交わしていながら、政宗が変に小十郎に気を遣っているような重い空気が流れる。自分の過去を知りたいと言う青年の欲求に戸惑いを隠せない。小十郎にとっては終わった事であり、それを知ったからと言って何が変わるとも思えなかった。輝宗が亡くなった事によって、葬り去ったものでもある。

やがて、船が出て遠浅の沖を目指した。
何処もかしこも呑み込まれそうに青い海だった。天も青くまろく頭上を覆っている。地球の丸さを肌で感じる不思議な感覚だった。陸上よりも日差しが強く、海の照り返しで視界が狭くなる。
政宗は片目を細めて一心不乱とも言える体で船の行く先を見守っていた。
―――ここは…青が強過ぎる。
そんな無意味な焦燥に駆られる。金色の日差しと深い紺色の海のあわいで、政宗の後ろ姿はシルエットとなっていた。
その政宗の視線の先、更に沖合にぽつねんと浮かぶ小さな船があった。乗っているのは少女が一人。誰かを待つように水平線を見つめている。それが、ふらりと立ち上がった。
水面に踊る黄金の光の粒が少女を包んだ。
白っぽいスカートの裾が広がり、たなびく。
少女が自ら飛び込んだのか、バランスを崩したのかは分からない。だが小さな水しぶきが上がり、それが納まる前に政宗は海水へ身を躍らせていた。
「政宗様!!」
小十郎も上着を投げ捨て、飛び込む。
船上に残った地元の漁師が一体何事かと船縁に身を乗り出す先で、政宗と小十郎は抜き手を切って泳いだ。
内海は見た目に穏やかだったが海流は重く、不気味な程に強い意志を持って定められた流れを刻む。
政宗は潜水して目標を定めた。
海の水はそこはかとなく温く、昏い碧色に輝いていた。
少女の乗っていた船の傍らに顔を出したのは、政宗でも小十郎でもなかった。ジワンの宿に魚介類を売りに来ていたラサだ。船上に妹の姿がないのを見るや、手にした銛や獲った魚を入れた網を船上に放り投げ再び海中に沈む。
少女は海中で、くるりくるりと長い髪やスカートの裾を揺らしながら漂っていた。その表情は眠るようで、苦悶はない。
何かに抱かれ、神の御許に還って行く者のような満たされた表情だった。
政宗はそれへ腕を伸ばした。
纏わり付く少女のワンピースが邪魔になって上手く抱えられない。
するりするりと逃げて行く。
細くて健康的に焼けた腕を引っ張った。
決して死は安らぎではない、その事を証すようにきつく掴んだ。
ラサが2人を見つけた。
人魚のように身軽に泳ぎ切って妹のもう一方の腕を取る。
無音の水中で政宗はラサと視線を合わせた。
ラサの漆黒の瞳に戸惑いが流れる。政宗はそれに向かって顎をしゃくって見せた、水上へ。
2人に腕を取られて意識のないカロンは、戯れに遊ぶ子供のように上昇を始めた。小十郎はそれを見て、先に水面に浮かび上がり兄妹の船に体を乗り上げた。
「政宗様!」
水面に顔を出した彼に向かって呼び掛ける。
青年が2人、たゆたう少女を引いて船へと近付いて来た。
小十郎は船上から少女の脇を抱え上げ、一気に引き上げた。船底に横たえ口元に耳をやる。息をしていない。体を横にして口の中に指を突っ込み、水を吐き出させる。それでも意識を取り戻さない。
小十郎は少女の鼻を摘んで人工呼吸を施した。
それを船縁に縋った政宗とラサが見守る。激しい息が納まらないラサは隣の政宗を見た。政宗は少女の濡れた横顔を怒ったように凝視していた。
その小さな胸の膨らみがひとりでに動き出すまで、ずっと見つめていた。

干潟に船を上げ、レンタカーから取り出したバスタオルでカロンを包み、魔法瓶に入れた茶を飲ませた。
この騒ぎに他の漁師たちが集まって、ラサとあれこれと言葉を交わしている。タイ語はさっぱりなので政宗たちはそれを背に聞くだけだ。
太陽は中天を回ろうとしていて、気温も一気に35度を上回ろうとしていた。なのにカロンは微かに震えていた。まるでこの世は寒過ぎる、と言うように。
他の漁師たちがラサの肩を叩きつつ立ち去って、辺りは静かになった。
「Thank you for having you help a my younger sister.(妹を助けて下さって有り難うございました)」
そう奇麗な英語で告げたのはラサだった。
真摯な表情に漆黒の瞳と、それとは対照的に白い眼のコントラストが、思い詰めたような印象を与える。
「Is your younger sister suicidal?(お前の妹は自殺願望でもあるのか?)」
不躾とも言える質問を政宗は言い放った。ラサは本当に困ったと言うように視線を泳がせて、やがて俯くカロンの横顔を見やった。
「Such a thing…. But she waits on for them.(そんなものは…、ただ彼らを待ち続けているだけで)」
「Them?」
「She waits for our parents.(両親を)」
簡単にラサが説明した話によると、彼らの両親は数年前の大地震とそれの引き起こした津波によって行方不明になってしまったのだと言う。死体は見つからなかった。
だが、今彼らがいるこの海で漁に出ていた父と、プーケット湾のビーチにあったレストランで働いていた母が津波に巻き込まれたのは疑いようがない。その時2人はプーケットタウンの学校に行っていたので助かった。
災害の直後、政府は衛生上の問題から水に浮かんだ死体を早急に火葬に伏した。身元が分かる者も分からなかった者も。そのお陰で年中常夏のプーケットで死体が腐る事もなく、伝染病と言う二次災害を引き起こさずに済んだ。
だが、残された人々には災害の凄惨さと共に、埋め難い心の空白を作る事になってしまった。
死者との対面、そして別れ。そうした当たり前の儀式を行う事なくしては、生き残った人間は親しい人の死を受け入れられなかったのだ。
カロンのように「もしかしたら戻って来るかもしれない」、そんな儚い思いに取り憑かれて前へ進めなくなる。
兄の視線に気付いてカロンが顔を上げた。
水中で見せた死への恍惚のようなものは一欠片もない。明るい表情で兄に何事か言う。それから政宗や小十郎に対して頭を下げつつ詫びているようだ。
それは14、5歳の年相応のはにかみであり戸惑いであり、強がりでもあった。
「なあなあ」言葉の分からない成実が退屈したのか、場違いな声を上げる。
「こんなのが獲れた」
政宗たちの中心にぬっと突き出された右腕、そこに巻き付いて蠢くのは大きなタコだった。
カロンが一瞬身を引いて、そしてコロコロと笑った。
「あっ!いてててっ、こいつ噛み付いてる、いって!!ちょ、まさむー助けて!!!笑ってないでさっ、かたくー!!綱もっちゃん!!!」
慌ててタコを引き剥がしに掛かる成実を、2人の兄妹は笑っちゃ失礼だと思いつつ堪え切れずに笑った。
このKYが、と思いつつ政宗が座り込んだ成実に歩み寄ると、同じように助け舟を出していたラサと目が合った。
「…She wants to grow and doesn't think to want to die. But she still dream of the life that is some as the parents who have disappeared.(彼女は生きたがっている、死にたいなんて思ってない。ただ、両親と一緒の生活をまだ夢見てるだけなんだ)」
そう呟いて肩を竦めるラサには年に似合わないような諦観が染み付いていた。それから成実の腕にへばりついたタコを力任せに引き剥がしてやる。それを受け取って政宗は応えた。
「I can understand it. But a dream is only a dream.(それは分かる。だが夢は夢でしかない)」
「I wait for a younger sister to wake forever.(妹が目覚めるのを僕はいつまでも待ってるよ)」
「Is is so?(そうか)」
綱元が不意に政宗の手の上のタコを覗き込んだ。
「コイツも食えそうだな」と。
政宗は呆れた表情を隠しもせず日に焼けた黒い顔を顧みた。
「生きるには先ず食う事じゃありませんか、政宗様。ちなみにラサの腕前は大したものですよ」
あられもない笑顔を晒しつつ、綱元は右手に掴んだ網をずいと政宗の前に突き出した。ラサの船に積まれていたものだ。中には投網で政宗たちが獲った小魚とは比べようもない程の大きなハタやアイゴの仲間がゴロゴロ入っていた。
「え、何これすげえ!タイじゃねえ?!」と成実はラサの船から持ち上げるのがやっとと言う魚を抱えて叫んだ。
タイ故に鯛、とか日本人にしか分からない寒いギャグで一人ご満悦のようだ。
「Lhasa, May I leave our guide to you?(ラサ、君に俺たちのガイドを頼んでも良いか?)」
最後に、少し離れた所から小十郎が声を掛けて来た。
青年は大きな瞳を更に真ん丸にして、男を見返した。それから政宗を見て、成実や綱元を見る。カロンは不思議そうな表情を上げて兄を振り向いていた。


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