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―記念文倉庫―

部屋に戻って、それぞれが寛いだ。
夜になっても窓が閉じられる事はないし、玄関に鍵が掛けられる事もない。熱帯のジャングルに囲まれたシンプルなテラスで葉鳴りに耳を澄ませば、夜中だと言うのに甲高い何かの鳴き声が遠く聞こえる。姿は見えないのに、生き物の気配がそこここで蠢いていた。
「俺らと変わんないぐらいの奴だったよね、今の現地人」
「ラサ、だ」
成実の言葉を小十郎は訂正した。
「昼は漁師やって、夜は行商かあ…若いのに大変だな、ラサ君」
「ビーチで遊び惚ける気も失せただろ」ケータイを弄りながら政宗が混ぜっ返す。
彼と成実はテラス先の籐椅子に向かい合って座っていた。その成実が椅子から身を乗り出して喚く。
「俺だってきちんと働いたんだぞ、だから休みを取ったんじゃんか!」
「…わかったわかった…」
ふと思いついて政宗は小十郎と綱元を振り返った。
「タイって言やムエタイだろ。それ見れる所ないのか?」
「ありますよ、確か夜8時頃開演だったと思います」と綱元。
「体験とかは?」
「それも出来ると思います。明日、ジワン氏に聞いてみましょう」
ムエタイとはいかにも2人らしかった。その話が出て、成実の機嫌も直ったようだ。政宗と一緒になってムエタイ談義に花を咲かせている。
綱元はプーケットタウン周辺の地図を広げて麻布のソファに座り込んだ。明日の予定を組み立てる為にあっちこっちと地図を指で追い、手帳に何事かをメモして行く。
一方小十郎は各々の荷物から着替えを取り出して、風呂へ行く準備をした。それからタオルやTシャツなど、その日の汗で汚れたものを預かり受けて裏庭へと出る。そこで簡単な洗濯が出来るとジワンに聞いていたのだ。
「お母さーん」と成実が巫山戯て呼んでいたが、そんなのはまるっと無視した。
洗濯物を裏庭に干して部屋に戻ると、綱元と成実の姿がなかった。テラスの籐椅子に座り込んで、携帯を弄っていた政宗がちらりと小十郎を見た。
「ボストンてさ」
風呂に行かないのかと問い掛けようとした出鼻を挫かれた。
「どんな街だ?」
携帯画面を見ながら問われるのに小十郎は言葉に詰まった。青年の傍らに立って俯いた横顔を見下ろす。
Tシャツを脱ぎ捨てた上半身は伸びやかに育って、若々しい張りを漲らせている。日に焼けると赤く晴れてしまうだけなので、肌は白いままだ。その滑らかな肌の上を黒髪が滑って政宗が振り向いた。
「だんまりかよ」
「…古い街です。アメリカの、開拓時代の面影を残している…」
「そこでどんな生活してたのか聞いちゃ駄目か?」
「面白い話は何もありませんよ。短い期間でしたし…」
「お前の両親が海外に住んでたなんて話、聞いた事ないけどな?」
「…一人で行きましたんで…」
小十郎の昏い声に、政宗は携帯を放り出して苛立しげに椅子から立ち上がった。そうして、叱られた子供みたいに顔を顰めて突っ立っている小十郎を下から覗き込んでやる。
「別に責めてる訳じゃねえんだよ。ただ、親父に拾われる前にお前が何してたのか知りたいってだけで。そんな顔されたら…何かあったんだって勘ぐっちまうじゃねえか」
「―――…」
弱り切った表情で小十郎は視線を反らした。
トン、と政宗の拳が男の胸に押し当てられた。
「何があった」
囁くような声に、拳を当てられた胸が疼く。
「申し訳ありません、話す事は…出来ません―――」
そう応えるしかなかった。嘘を吐く事は出来ない、都合の悪い事だけを伏せて話すなんて芸当はそもそも不可能だ。
小十郎の実直故の不器用な処し方だった。
だが、それは最悪のパターンを呼んだようだ。小十郎の返答を聞いた政宗の顔貌から表情が消えた。
小十郎はぎくりと心臓を凍らせた。
―――傷付けて、しまった…?
「そ、か―――そうだよな。誰でも一つや二つ言えない過去があってもおかしくはないよな」
自分に言い聞かせるように呟いて、政宗は拳を降ろした。俯き加減で長い前髪の向こうにその表情を隠したまま、微かに頭を左右に振る。
「でも今は、大丈夫なんだよな?」
「…大丈夫も何も…もう昔の事ですから」
「ならいい」
言い捨て、政宗はさっさと小十郎から離れた。行き掛けに着替えを手にして部屋を出て行く。
小十郎はその後ろ姿を見つめながら、何故彼があんな表情をしなければならなかったのかを考える。
好奇心から始まった追求が薄暗い壁に突き当たった時、政宗はがっかりしたのだろうか。バツの悪い思いを抱いたのだろうか。それとも、長年一緒に過ごして来て何でも知っている身近だった人間が、実は遠い遠い、誰よりも遠い所にいると分かってしまったのか。
―――だからって…あの表情はなしだ…。
小十郎は己の頭を抱えて掻きむしった。

基信の計らいでアメリカに渡った当初は、ケンブリッジ市のホームステイ先で暮らしていた。だが小十郎は13歳の子供心に自力で何とかしたいと、常日頃考えていた。自分の我が侭から家を出て、様々な人に迷惑を掛けた。両親は勿論の事、基信の他に喜多にも酷く心配を掛けた。自分で出来る事を証明して見せて、安心させてやりたかった。
だから、ケンブリッジ市内をロードワークしつつ自分で借りれるスタジオを探していたのだ。しかし、日本の基信から送られて来る小遣いで賄えるような部屋はなかった。そこで、チャールズ川を渡ってボストンにまで足を伸ばした。
古い町並み、17〜18世紀頃のニューイングランド時代の建築物が残るダウンタウンを流し走っていた極寒の冬に、街の片隅で小十郎はそれを見つけた。
雪がちらつく石畳、クリスマスと新年のイルミネーションを施した煉瓦の家々、その吹きだまりに踞る一人の若い男。
トレーナーもGパンも泥で薄汚れ、あちこち破れていて、喧嘩かリンチの痕も生々しく項垂れている。このまま放っておけば明日の朝には一つの凍死体が出来上がるだろう。
小十郎は走っていた足を止めてポケットから取り出したものを男の膝の上に置いた。男は何の反応も示さない。構わず小十郎は走り去った。
それは、一粒のキャンディだった。

次の日、朝5時に起き出して早速昨夜買い出した現地の食材で朝食を作った。
タイ米を鍋で焚いている最中、豚肉と野菜を香辛料で味付けしてグリーンカレーを作る。その他に巻貝を蒸し焼きにして魚醤や砂糖で煮込んだ。
「うわ〜、何か辛そうなんだか甘そうなんだか…」
手伝ってるのか邪魔してるのか分からない成実が、小十郎の手元を見ながら呟いた。小十郎は昨夜屋台で食べた味と、日本で少し読んで来たタイ料理の本からオリジナルで朝食を作ってみせた。
政宗はその隣で鶏肉をやはり香辛料やタマネギなどと一緒に炒めていた。それへ水を足し込んでスープを作る為にぐつぐつ煮込む。
一方、成実が作ったものと言えばサラダだ。野菜を洗って切って盛りつけるだけで完成する。
朝から豪勢な食事となった。
男が4人掛かりで貪り食えばあっという間になくなってしまったが。

腹ごなしが終わった所でホテルを出て、TukTukタクシーを捉まえるとプーケットタウンの南東にあるマカム湾に向かった。
現地人の間では漁村として知られていて、観光客がほとんどいない長閑な景観が広がっている。
小十郎は一人彼らを見送り、一度ホテルの部屋へ戻った。レンタカーを借りるため、プーケット国際空港に行ってからマカム湾で彼らと落ち合うのだ。
ジンワ氏も言っていたが、プーケットタウン内でレンタカーを借りる事は出来るが個人運営の所ばかりなので保険などに入っていない。やはり空港前の国営レンタカーが一番安全で信頼出来るだろう。
小十郎は裏庭の洗濯物を取り込んで荷物の中にしまった。
宿を出て行こうとした所で、仕事帰りらしい現地の青年・ラサとすれ違った。
その時、この島では余り馴染みのない香りが青年から漂い、思わず小十郎は振り向いた。
ムスク系の香り。
体臭のきつい白人男性、特に証券会社などのスマートなビジネスマンが好んで付けるものだった。
よく見るとラサの体躯はタイ人の若い男性の多くがそうであるように、ほっそりとして余計な肉がない代わり適度に筋肉が付いていて伸びやかだ。焼けた肌もシルクのようにきめ細やかで中性的な印象を与える。顔つきは子供のようでいて、オリエンタルの血の匂いも漂わせるエキゾチックな雰囲気を纏う。いわゆる、美少年と言う奴だ。
妹を迎えに来たのだろう、奥の管理人室でジンワと会話を交わす声が聞こえて来た。
小十郎は何やら分からぬやるせなさに押されて、細い溜め息を吐いた。

空港でパスポートの代わりに国際免許を発行してもらい、プーケットタウンを経由して小十郎はマカム湾に向かった。
今朝方、懐かしい夢を見た。
政宗に過去を問われて、忘れていたものが蘇ったのだろう。正直、本当に忘れていた。
ヴィンセントは何よりも刹那的な若者だった。だが、人間で生まれながらの悪はいない。
無論、生まれながらの善も―――。
小十郎はボストンのダウンタウンで引き続き、スタジオを探していた。
一昔前より犯罪件数が激減したとは言っても、やはりギャングの巣窟には違いない。ガラの悪い連中が、花に群がる蜜蜂のようにそこここにたむろしていた。小十郎も良い鴨だと思われたのだろう。自分と年頃はさほど変わらないだろう少年数人らに絡まれ、何処かに連れて行かれそうになった。
そこに現れたのが、ヴィンセントだった。
彼は小十郎たちより少しだけ年長者だった。ギャング歴もそれだけ長い。小十郎に絡んで来た連中を適当にのすと、彼らは逃げ去って行った。
―――生きてたのか。
小十郎はその事に気を取られていた。
怪我の痕も未だ癒え切らぬまま、唇を腫らした男は「借りは返した」だの、「ヒヨッ子が大手を振ってこの街を歩くな」とか、小十郎に言い差して来る。
小十郎がただ一言「ありがとう」と告げると、彼は応えもせず走り去って行った。


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