―記念文倉庫― 9 水底のような蒼白い空間に、薔薇色の朝日が差し込んで来る。 潮が引くように闇は去り、エッジの効いたビルやマンションが濃い影に縁取られた。微かに波打つ東京湾の波頭は朝日を浴びてキラキラと輝く。 地上40階はまるきり別世界だ。 天上界からちっぽけな人間の営みを眺めるこの優越感。本物の天上界と違うのは、眺める側もちっぽけな人間だと言う事だ。 徹は朝日に染まる街から目を離し、傍らのベッドに視線を降ろした。そこには疲れ切って眠りこける男がいて、広いベッドの縁に青年が腰掛けたのにも気付かない。 ―――どうなるんだろうな…。 と思わないでもない。 始まったばかりで終わりを思うのは、彼の何時もの癖だ。 学校も社会も先が見えていて、ゲームみたいにいつでも乗り換えられるのが人生だ、と世の中のメディアは子供たちに教えている。 それがなくても、男は自分の向こう側に別の誰かを見ている。その事に、いつか自分が耐え切れなくなる時が来るのではないだろうか。 でも、それでも良かった。 真昼の月のように、それは確かに胸の中息づいているから。 エピローグ 野上が目を覚ました時に、傍らに突っ伏して眠っている徹を見つけて一瞬ぎょっとなった。だが、すぐに甘やかな苦笑と溜め息に取って代わられる。 青年を起こさないよう静かにベッドを抜け出し、顔を洗うと例の白い仕事部屋へと向かった。 昼前後にプリプリントが出来て編集部が校正している筈だ。時計は午後1時を回っている。野上は自分の担当者に電話を掛けた。 『あっ、お疲れさまです先生。今、編集部の人間たちに手伝ってもらって読み合わせしている真っ最中です』 「ああ、お疲れさまです。…どうですか、校正の方は?」 『今の所、誤字脱字はありません。多分あと10%くらいの残りも問題はないと思いますよ。急がせてしまったのに正確な仕事で僕たちも助かっています』 「……ほう」 『何です?』 「いえ。―――それではよろしくお願い致します」 『しばらくお休みになって下さい、年末年始もなく働いてらっしゃったんですから。次まで間がありますし』 「ありがとう」 電話を切った野上は改めて徹のタイピングが正確なのを思い知った。 ―――さすがに、"昔から何でも巧くこなして来た方だ"。 冬休みが終わって新学期が始まってから、徹は野上のマンションに転がり込んで来た。 野上は返事をした覚えがなかったが、徹にしてみれば拒絶されたのでなければ了承したのと一緒だった。 特に大きな荷物を運び込むでもなく、学校に通いながら着替えや身の回りのものなどをちょっとずつ持ち込んだ。 野上に「ご両親には何て説明したんだ」と聞かれて、徹はきょとんとした顔をした。それからああ、と思い至って破顔する。 「友達の家に世話になるって。前にも何度かそうやって彼女ん所とかに転がり込んだ事があるから、安心しろよ」 「…俺じゃなくて、ご両親が心配するだろうが」 野上の気遣いに徹はちょっと肩を竦めてみせた。 「俺、男だからな。両親はしょうがないって思ってるみたいだぜ。それにちょくちょく帰るって」 「そう言う問題じゃ…」 「何時か家は出てくつもりだ。それが少し早くなったってだけだろ。別にあんたと結婚する訳でもないし」 「…っ!!お前なあ…!」 一頻り野上の反応を楽しんだ徹は、ふいと顔を反らした。 「まだやりたい事とか見つかんねえんだけど、それだけは決めてた」 「…刹那的だな」 徹はソファの上から床に座り込む野上を見下ろした。彼は床に新聞を広げてそれを捲っていた。その紙が立てる音だけがリビングに響く。 「人の人生なんて、あっと言う間だろ」 その、余りに老長けた台詞に、思わず野上は振り向いた。 「この体だって仮住まいだ。生まれ変わりがあるのかどうか俺は知らないけど、ただ流れて行くだけだなんて思いたくもねえ」 「………」 「生まれた以上、有り難く人生を楽しませてもらうさ」 「―――そうか…」 野上はそれだけを返し、再び新聞に視線を落とした。 記憶がない、それが決して彼の弱点になってない事が密かに嬉しかった。最初の頃こそ400年前のあの時代を思い出して欲しいと思っていたが、一人の人間として向き合ってみれば、失われた過去はそのままで良いと思えて来た。 そうだ、それでこそ我が主、一生をこの方に尽くすと思い定めて忠誠と愛を誓った人だ。 再び出会えた事は奇跡、片方に記憶がなく片方にはあると言う状態は運命の皮肉。 たぶん、彼が自分の立場だったらそれすらも楽しんでいた筈だ。 あっけらかんと。 ―――こんな風に。 新聞の上に屈めていた野上の背に、熱い体がのしかかって来た。 「明日、学校だろ」 振り返りもせずに野上はそれだけを言った。 「野上さん、俺と結婚したい?」 「ほざいてろ」 こんな風に、ぞんざいな言葉遣いで彼の耳を聾する事も現代ならではの話ではないか。 「想いだけじゃ人は永遠には繋がらないもんな。俺は何時か、ここも出てくぜ。だからいる間に楽しんでおけよ」 「…何言って…」 顔を上げた所へ、伸び上がって来た徹の口付けを受けた。 本当に、この方と来たら昔から奔放で。 野上は背中の上から青年を引き摺り降ろし、自分の膝の上に乗せた。 男の首っ玉に縋り付いた徹は、寝間着の中に忍び込む男の手に徐々に息を上げて行く。 「覚悟は良いか?」 その耳朶を震わせて、男は言った。 「いい…、いいから、早く…」 うわ言のように囁く徹の後頭部を抑えて、何もかもを封じ込めてしまうようなキスをした。 きっと、朝方には後悔して文句を言うに決まってる。 つくづく、自分はこの方に毒されていると思う。 思っていながら、歓喜にうねるその身体を抱く手を止められなかった。 あの人は、 真昼の月のようにこの青年の中に息づいている。 20101205 Special thanks! [*前へ][次へ#] [戻る] |