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―記念文倉庫―

徹は自分の事は一先ず置いといて、と息を吐き出した。
「今夜中って言ってたな…」
「あ?」
時計を見やれば午前9時半、今日と言う日は残り15時間を切っている。
「俺に出来る事は?」
「邪魔しねえで、帰れ」
思わずカッとなった。
徹は男の胸倉を掴んで引き寄せた。
「…今まで何日かかって、何割進んだ?正直に白状しろよ」
「―――…」
野上は目を見開いて青年の顔を見つめた。
怒気が吹き付けて来る。それでも的確な質問をして来る彼に対して苦笑が我知らず浮かんだ。
「4日でほぼ5割だ」つい本当の事を応えていた。
「半分だあ?!それでどうやって今夜中に終わらせるんだよ?!」
「この手の仕事はいつもこんなもんだ。平均した進捗速度がある訳じゃないしな。心配しねえで帰れ、俺はこれでもプロだ」
「………」この頑固者、と胸中で男を罵った。
野上のトレーナーを掴んだ右手に更に力を籠めた。引き寄せたのは彼ではなく、自分の体の方だ。野上の肩に胸元を押し付けて、更に首を伸ばして男の耳に息と共に一言吹き込んでやった。
「手伝わせろ、小十郎」
ガタッ
椅子を鳴らして男が徹の肩を突き飛ばした。
その目の周りが羞恥に赤く染まっているのを、溜飲を下げながら徹は眺めやった。
「野上さんの泣き所、発見★」
「…て、め―――!」
「いいから、何かないのかよ?こうしてる時間がもったいないだろ」
「―――…」
野上は盛大な溜め息を吐き出した。
「…原稿はタイプして、編集部にメールする」
「何で最初からパソコンに打ち込まねえんだよ?」
「話が出て来ない」
「そんなもんか…?ま、いいや。終わってる半分よこせ」
「出来んのか?」
「デジタル世代を舐めんじゃねえ」
徹は、デスクの上にあったノートパソコンを取り上げると、部屋の隅のリクライニング・チェアに腰を下ろした。マシンを起動してスペックやソフトのバージョンをざっと調べる。
「早く原稿」
顔も上げずに言い放つのへ、仕方なく野上は手にしたのとは別の紙束を放った。
「なんつー扱い…」床に落ちたそれを拾い上げて徹は呟く。
「あ、そうだ。何か食うもの用意して来る。キッチン使って良いか?」
「飯なら作るぞ」
部屋の扉へさっさと向かいかけた青年は、勢い良く振り向いてビシッと男に指先を突きつけた。
「あんたは原稿とっとと書く」
そう言うと、返事も聞かずに出て行ってしまった。
「………」

徹が15分程で用意して来たのは大量のサンドイッチだった。
キャベツやバター、ハムにチーズなどはともかくスクランブルエッグや、ボイルしたチキンに焼き肉のタレで味付けしたものがまだ熱々でパンに挟まれているのを見て、野上は思わず固まった。
「料理、得意なのか…」
「あ?ああ…両親、共働きだからな。よく妹の分と合わせて作ってるよ」
「―――妹…」
二人は背を向けたままボソボソと話した。そのどちらの片手にもサンドイッチが摘まれている。飲み物は温めたミルクだ。山のようにあったそれが、見る間になくなって行く。
最後の一つを胃の中に納めた徹は、ウェットティッシュで口と手を拭くと「よし!」と気合いを入れた。
ノートパソコンのキーボードが鳴る音がし始めてから、徹は口を噤んだ。暫く経ってから野上はこっそりと背後を振り向く。
傍らの書架台に原稿をセットした徹は、それを見つめつつ手を動かしていた。手元を全く見ない、見事なブラインドタッチだった。

「今、メールに添付して送信しました。…ああ、はい…はい。そうですね、昼前後。分かりました、お願いします」
編集部への連絡を終わらせて野上は電話を切った。
どうやら雑誌の印刷には間に合ったようだ。それを見ていた徹はリクライニング・チェアの上で大きく伸びをした。
「…終わった〜、お疲れ」
膝に手を置き、そう言って微笑む青年を野上は苦笑で見やった。
「世話かけたな。だがまだ終わった訳じゃねえ。このあとデザイナーがレイアウトを組んで、それを編集が文字校する。最後に俺がチェックしてOKだったら初めて印刷に出されるんだ」
「ああ、書いたらすぐ本が出来る訳じゃないもんな」
それで先程、深夜にも関わらずバイク便を呼んで手書きの原稿を渡したのか、と徹は納得した。編集部ではそれで文字校をするのだろう。
「でも、もう寝ても大丈夫なんだろ?風呂入って休めよ」
「―――そうだな」
緊張が解けたせいか、確かに抗い難い眠気を感じる。野上は指先で目頭を揉んだ。
「済まねえな…、二日も外泊させちまった。せっかくの冬休みだろうに」
「いんや?俺は楽しかったぜ、…それに」
「―――それに?」
「野上さん、普段は右利きなのに途中から左手で書いてたな。元々左利きだったんだろ?」
「ああ―――」
どうやら無意識に持ち替えていたようだ。それだけ原稿に集中していた証拠だ。徹が彼の手元を見ていたのにも気付かないくらいに。
「両親が古いタイプの人間だったんだ、左利きはみっともないってな。それで強制的に右利きにされた。―――お陰で時たま右と左が分からなくなる」
「マジで?ありがた迷惑だな〜」
少し声を出して笑った、それに欠伸が混じる。ぼちぼち寝ようかと思った所へ、徹が不意に声を掛けて来た。
「なあ」
「何だ」
「俺、ここで暮らして良い?」
「はあ?!」
改めて見やった先で徹は窓の外を眺めていた。リビングから見える景色とは違って、近くの高層マンションを幾つか視界に納める事が出来る。その窓の明かりが漆黒の壁面にダイヤのような輝きを穿っていた。
「帰りの電車の心配しなくて済む。家に外泊の連絡入れる必要もなくなるし…」
「おい、ちょっと待て」
「…迷惑か?」
「そうじゃなくて…、お前まだ高校生だろうが」
「逆に聞くけど、それ本気で気にしてるのか?」
「―――――」
黙り込む野上。
その彼を振り向いて、立ち上がった徹は自分と野上のカップを持って戸口まで歩いた。そして、野上の目を見て彼は言った。
「野上さんが決める事だ。俺は俺の意志を言った、後はあんたに任せる。―――返事は後でいいから、早く寝ろ」
微かな余韻を残して青年は部屋を出て行った。
残された野上は、デスクの上に置いた拳を握りしめたままだ。

物事がどう転ぼうと、覚悟の出来ていた徹はむしろすっきりしていた。この後何が起ころうと、どうなろうと受け入れる準備はできている。
男の心が何処にあろうとも。

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あきゅろす。
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