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―記念文倉庫―

いきなり降って湧いた幼な子の事は、特に秘される事はなかった。が、逆に知らしめる事もしなかった。
第一、過去から梵天丸がやって来た、などと言う荒唐無稽な事情を誰が信じるだろうか。恐らく、政宗自身と小十郎他、数人の近しい者だけがそれ事実を呑む事が出来るだろう。

その夜、しんしんと静かに降り出した雪に包まれた城中、その小十郎の部屋で梵天丸は、風呂上がりのほくほくの体を小十郎に委ねていた。
もう既に夢半ばの様子で、寝着に着替えさせられている梵天丸はなすがままだ。
「もう、よろしいですよ」と言ってやるとぽたり、と褥の上に腰を降ろした。
「…梵天丸様?」
「なんだ」
眠気故の不機嫌さで子供は応える。
「懐にあったあの鏡、あれはいかがなされたものでしょう?」
「…ああ、…虎哉にかりた」
「虎哉和尚…?」15年前の、だろう。
「何か謂れのあるものなのですか?」
梵天丸の着ていた着物を丁寧に折り畳み、桐の箱に収めた。返事がないので振り向くと梵天丸は座ったまま白河夜船とシャレ込んでいる。
思わず、締まりのない笑みに口元が歪むのを感じながら、小十郎は小さな体を抱え上げ、きちんと掛け綿入れの中に寝かせてやった。
あどけない寝顔はあまりにも無防備で。
長じてからは他人に滅多に寝姿を見せなくなった政宗とはまるきりかけ離れている。それも虎哉の教えに拠る所が大きい。
小十郎は一度仕舞った桐の箱から先程の「鏡」を取り出した。
紫紺の紐を首から下げて、着物の内に大事に秘められていたそれ。表面には優雅で複雑な文様が浮き彫りにされ、それを裏返すと―――――。
黒い鏡。
辛うじて見る者の姿を映すが、鏡としては全く意味をなさないそれは、黒曜石の輝きをもって美しく澄んでいた。研磨の跡すらない。一体どのような技術がこれを産んだのだろうか。
明日になったら虎哉を尋ねてみようと思う小十郎だった。

「…こじゅうろう」
襖を開けてその部屋から出て行こうとしたら、寝ているとばかり思っていた声が上がった。
「どうなされました、梵天丸様?」
「―――寒い…」
甘ったれた声を隠す事もない。
小十郎は隣の部屋に自分の褥を用意させていたが、子供の枕元に膝を突くと、鼻まで掛け綿入れを引き上げた梵天丸の瞳を覗き込んだ。
「小十郎も、お供いたしましょうか?」他人には聞かせられないくらい、甘い声だった。
「うん」
「ではこちらへ」
手を伸ばすと向こうからこの腕に縋り付いて来た。
この子が。
この美しい瞳がもう間もなく失われてしまうとは―――。そんな苦さが甘やかな幸福の中に忍び込んで来る。このまま、この子供を側に置いておけばあるいは、とは思わなくもない。
「こじゅろ…」とすっかり眠気に包まれた声で子供は呟く。
「こじゅろは政宗をすいておるのか?」
刹那、喉が詰まった。
何もないのに咽せて激しく咳き込んだ小十郎をちょっと不思議そうに見上げて、梵天丸は続けて言った。
「梵はすきになれぬ」
「―――――」そいういう意味か、と今更ながらに諒解した。
小十郎は自分の褥に子供を横たえた。
「自分自身を好きになるのは難しいものですからね。小十郎は勿論、政宗様の事が好きですよ」
「…わからぬ……」
梵天丸は最後にそう呟いて夢の国の住人と成った。
その寝顔を、小十郎は暫く見つめていた。
閉じられた瞼がひくひくと動いている。その瞼の下で眼球が頻りに動き回っているのが見て取れた。その丸い像。ぷっくりとした頬は風呂上がりの名残に血色良く赤らんで、ちょこんと乗っかった小鼻を包んでいる。ピンク色の唇はしどけなく解き開かれ、軽い寝息を立てていて―――。
それらに触れてももう子供は起きなかった。
「―――…」
物思いに浸りそうになる所を溜め息で振り払って、子供の隣に身を潜り込ませようとした。
その時。
「片倉様」
壁の向こうから微かな声に呼びかけられた。
小十郎は、子供の体にしっかりと綿入れを掛けてやると素早く部屋を出た。
闇に包まれた控えの間の物陰に、一人の黒ずくめの男がいた。
「どうした」
「唯川氏に謀反の動きあり」
「………っ!」
唯川、その名に体中が強張った。男はそれも気にせず報告を続ける。
「板谷峠に密かに兵を集め、翌早朝には出陣する模様です」
「数は」
「ざっと2000から2500。ただしその多くは農耕地を失った他国の農民や、扶持に溢れた野武士のようです」
「…?目的地は?」
「ここ米沢か、白石か、福島辺りかと。ただ、いずれともほぼ等距離ですので動き出すまでは何とも…」
「わかった、引き続き探れ」
「は―――」

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あきゅろす。
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