[携帯モード] [URL送信]

―記念文倉庫―
5●
何時もは女を抱く側なのに、その時は自然と野上に全てを委ねた。
男同士の行為が分からなかったのもある。だが何よりも、餓えた狼のように徹の体を求める野上の仕草に翻弄された、と言うのが正解だろう。ほとんど力尽くで熱を高められ、強張った体を蕩けさせられ、逆に求めたくなるような疼きに理性を掻き消された。
それでいながら、野上の行為は乱暴と言うものとは程遠く、むしろお姫様扱いだと言う考えが灼けた快楽の中、泡沫のように浮かんで消えた。
遊びなら、と野上は言った。
この行為は彼にとって遊びでしかないのだと思い知らせる台詞だった。じゃあ、何でそんなに壊れ物でも扱うみたいなやり方なんだよ、と行き場のない憤りが徹の胸を潰しそうになる。我知らず瞬きから溢れた涙が、眦を伝って零れ落ちて行く。
それを野上は幼な子にするようなキスで吸い取ってしまった。
「…ん、ぅ…っ」
必死に声を殺していると、雄心を握り込んだ男の手がグチグチと音を立てて亀頭をこねくり回した。
「ひ、ぁ…っ!」
裏返った声を放ち、突っ張らせた足が床に置いてあったモンステラの鉢植えを蹴っ飛ばして倒してしまったのを見る。
「…ちょ、鉢植え、が…ぁ、んっ!」
「構うな」
土をカーペットに零して横たわるモンステラが枯れてしまわないのか気になりながら、男の手が全身を弄る感覚に次第に我を忘れて行った。



その後、しばらく野上とは会わないまま年末年始を迎えた。
両親の実家がある福島へ一緒になって帰省した折り、ふと思い浮かんだ事があった。記憶にはないが自分は何処かで野上に会っているのかも知れない、と言う考えだった。
それで本の中に名刺を紛れさせた。姿は年月と共に変わるが名前はそう容易く変えられない。本名を見て思い出す事を彼が期待していたのだとしたら。
あのサイン会で本名を明かす事の出来ない野上が唯一取れる行動が、本に名刺を挟んで渡す事だけだったとしたら。
兄弟の多い母には徹も覚えられない叔父や叔母が居たし、従兄弟に至っては知らない奴ばっかりだ。そんな風に記憶に埋もれてしまっているのかも…。そう思うと居ても立ってもいられなくなり、母親の姿を探した。
徹の母は他の嫁や自分の姉妹たちと一緒に台所に立ったまま、姦しくお喋りしていた。話が聞けるような状況ではなかった。
「あら徹、どうしたの?」
背を向けた我が子に気付いた母が軽く声を掛けて来た。それを「いや、何でも」と言って受け流し、台所からは退散する。
父の姿を探すと日本家屋の中の唯一の洋間で、他の叔父と一緒にテレビを眺めているのを見つけた。
―――親父が子供の付き合いなんか知ってるか?普通。
そう思いながら、とりあえず聞くだけ聞いた。
「なあ親父、俺ガキの頃10歳くらい年上の友達がいなかったか?」
「ああ?何だ急に」
父はテレビを見たまま、こちらを振り向きもしない。その背凭れに肘を突き一緒になってテレビを眺める。お笑い番組のようだったが、頭に入って来るものは何一つない。
「や、何か従兄弟が増えてる気がして」
「ん〜?お前、小さい頃は人見知りが激しかったろう。従兄弟とだって遊ばずに俺や恵美の影に隠れてたじゃないか」
「そうだっけ?」
「都合のいい頭だな、おい」
額を小突かれそうになって、反対に父の首にヘッドロックを掛けてやった。
「んじゃ、野上って知り合い、いる?長い付き合いで」
「野上?―――知らんなあ」
両親とは親子と言うより、仲の良い友達感覚だった。
昔懐かしい「厳格な父」「貞節な母」など崩壊して久しい。その父親の肩に両手を乗っけたまま、野上との事を告げたら二人はどんな顔をするだろうかと考えた。中途半端に性に対する概念が緩くなったこの時代なら、笑って見送ってくれそうな気がした。
だが、言えなかった。
洋間を出て、祖父母の屋敷をうろうろしていたら先の角から母・恵美が姿を見せた。
「ごめんね、さっきは」そう言って微笑んだ母はとても小柄だ。徹もあまり大きくはなかったが、それより頭一つ分低い。
「退屈だった?外に遊びに出てもいいのよ」
「親父の奴、こんな所まで来てテレビに夢中だ」
肩を並べて歩き出した息子の愚痴に、恵美は苦笑して見せた。
「仕事の事、忘れていられるから良純さんにはいい息抜きなのよ。…で、何か用があったんじゃないの?」
「ん―――」
父親にしたのと同じ質問をしてみた。返って来た返事も同じだった。
「でも何で?」と問い返して来たのはさすが母親と言うべきだった。
戸惑いながらも徹は廊下を見つめつつ応えた。
「…何となく、俺の事知ってるんじゃないかコイツって奴がいて…でも俺全然覚えてなくてさ。悪いなーと思って」
「10歳年上の、野上さん?」
「そ」
「あたしが知る限り、そんな人いなかったと思うわよ。…もしかしたら」
「もしかしたら?」
二人は裏庭が見える長い廊下の途中で立ち止まった。
「あなたがその人の知り合いにそっくりだった、とかなら考えられるんじゃない?」
「―――ああ、なる…」
「自分の事覚えてないのかって聞いて来たりしないんなら、そうよ。きっと」
「うん、それなら納得。すっきりした、ありがとう」
「どういたしまして。あ、所で、詩織を見かけなかった?」
「あいつならさっき年の近い連中と出てったぜ。何か、酉の市が立ってるとかで、地元のテレビ局が来てるらしいから行ってみようって」
「もう―――困った子ね…。遅くならない内に迎えに行ってくれる?」
「ああ…」と言って腕時計を見ると3時過ぎだった。
「あと1時間して戻って来なかったら迎えに行く」
「悪いわね」
「全然」
詩織は徹の妹だ。中学に上がったばかりで、男勝りで皆のリーダーになりたがる。そのくせ周りが見えてなくて驚く程おっちょこちょいだった。たまに憎ったらしくてぶん殴ってやりたくなる時もあるが、総じて放っておけない妹だった。
こんな平凡な高校生の過去に、あんな男が関わりがあったなんてそもそも考えられなかった。他人の空似、というのならそれはそれで良かった。
「ね、徹―――」
もう一度洋間に行ってテレビでも見てるか、と思って歩き出した背に母の声が投げ掛けられた。
「何?」
「…何かあったら必ず言ってね。あたしたちは何時だってあなたの味方なんだから」
表情には出さずに徹は息を呑んだ。
気付かれた、訳ではないだろう。だが、恐るべきは母親の勘だったろうか。そこはかとない揺らぎが彼女には見えたのかも知れなかった。
「分かってる…ありがとう」
照れ隠しに顔を反らしながらそう言って、母を残してその場を立ち去る。
野上の知り合いに自分が似ていると言う話なら、自分が思い出せないのは当たり前だ。自分は彼を知らないのだから。
しかし、やはり疑問は残る。ただの知り合いや友達に似ていたからってあんな事をするか、普通。むしろ「ただの知り合いや友達」なら尚更出来ない事―――。
そこまで思い至って、ふと野上の手がこの肌を這う感覚が鮮やかに蘇った。細胞の一つ一つがざわざわとざわめき出す。
ドクン
と、心臓を締め上げるような痛みが徹を襲った。
足が縺れて、倒れそうになった。
傍らの柱に取り縋って、周りに人の目がないか思わず確かめる。誰もいない薄暗い廊下で徹は長い長い溜め息を吐いた。
―――ああ…これってやっぱり…アレか。
何となく"それ"が何なのか、分かってしまった。

[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!