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―記念文倉庫―

野上との出会いは4ヶ月前に遡る。
その大きな本屋でとある作家のサイン会があった。新作の出版記念で彼は全国の書店を回っていたのだ。
徹―――斎原徹は生まれてこの方教科書以外の本など読んだ事がなかったが、作家の名前が気になった。書店のショーウィンドウに貼り出され、目に飛び込んで来たそれ。
何となく一回は行き過ぎてから、戻って自動ドアを潜った。
サイン会は3階の催し物スペースで行われており、そこを人々の群れが黒々と埋めていた。徹はその奥にいるであろう作家の姿を求めて背伸びをしたり、飛び上がったりしたが見える筈がなかった。並ばないと無理のようだ。
ここで何時もの彼なら興味が失せてとっとと立ち去る所だ。
落ちた視線の先に新刊の山が積まれていなかったら。
徹は、それを一冊手に取って数分後には列に並んでいた。

徐々にその作家に近付いて行って「ずっと前からファンでした!」だの「お会い出来て嬉しいです〜」だの言う女たちの黄色い声が聞こえて来た。
その人々の林の間から、にこやかに応えている作家の姿が垣間見えた。まだ二十代後半か三十代前半と思しき男は、漆黒の髪をオールバックにして、上品そうなシャツとジャケットを羽織っている。声は聞こえなかったが、きっと苦みばしった良い声なんだろうと思わせる良い男振りだ。
ファンでも何でもない、ましてや彼の過去の作品を読んだ事もない徹は、男の前に黙って本を差し出した。
それを受け取った彼が徹の顔を認めた時、板に付いた愛想笑いが消えるのを見た。ファンじゃないのに並んだのがバレたか?と一瞬ひやりとしたが、彼は慣れた手つきで本の扉紙に彼のペンネームをすらすらと書いた―――「小十郎」と。
名字のないそれが男の執筆名だった。
ほう、と訳のわからない溜め息と共に返された本を受け取る。その場で思わず見入っていると次の客に背で押されてしまった。
本を慌てて鞄に押し込んで、そそくさとその場を離れる。
家に帰ってベッドに横たわりながら本をぺらぺらやっていると、中に挟まれていた紙が顔の上に落ちて来た。その出版社の他の新刊案内と一枚の―――名刺だった。
本名の野上幾久の隣に小十郎と書かれたそれには、自宅と思われる住所や電話番号、携帯の番号とメールアドレスまで載っていた。
―――何時の間に…。
そう思って、何度も名刺をひっくり返してみる。
「………?」
ベッドに起き上がって胡座をかきつつ、つくづくその小さな紙切れを見つめた。
「さて徹クン、ここで問題です」
声に出して言ってみた。
「これはどういう意味でしょうか?その1、俺を誘ってる。その2、誰か他の奴(女)と間違えて入れちまった。その3、何かの弾みで紛れ込んだ…」
そうしてからぷ、と吹き出す。
どちらにしろ下卑た思いつきには違いなかった。サイン会で見た好青年そうなあの男は、裏に回ればこんな風にしてファンを食い物にしているのだ、と思った。
―――しかし、
幾ら何でもこの名刺はマズいだろう。
遊びなら携帯No.だけが書かれたメモ止まりにする筈だ。寄りに拠って身元が全部載ってる名刺を見も知らぬ相手にホイホイ渡すとは考え難い。この名刺は仕事で知り合った人物と、ちゃんとした挨拶と共に交わすような真面目なものだ。編集部の人間や、作家同士や、その関連で。
それがこうしてこの本に入っていたと言うのは、どういう意味だろう。そこにはきっとまともな理由がある筈だ。
考えろ、どんな意味だ?
徹はむやみに名刺をひっくり返し続けた。そしてその名前を見つめる。
―――野上幾久…小十郎…。
本屋に貼り出されたポスターに本のタイトルとその名前があった。それが気になって、知りもしない作家のサイン待ちする列にふらりと並んだのだった。
―――小十郎、小十郎…?
その名を何度も心の中で呼んでみる。何故、この名前がひっかかったんだ。記憶にはない、その3文字。
―――こじゅうろう…。
何だか幼い響きだった。男らしくもあった。甘ったるい、物憂げなものもあった。
―――思い出せ。
とそう、名刺に言われているような気がした。
何を思い出せと言うのか、「思い出せ」微かな響きには真摯な眼差しを伴っているかのようだった。
「あ〜分かんねえ!全っ然思いつかねえ!!」
叫んでぼす、と再びベッドに横たわった。顔の上に翳した名刺に飽きもせず見入る。
しょうがねえ直接会って考えてみるか、と思って携帯のメアドに短い一文を送ったのがその夜の事で、次の週末には電話で話すのをすっ飛ばして街中で会っていた。

「面白いガキだと思った」
ちーす、はじめまして、と言う徹の挨拶に返されたのがこの台詞だ。
「読んでねえのはすぐ分かった。他のファンなら読む用とサイン用、最低二冊は購入するがお前は一冊きりだ。しかも片手で本も開かず差し出しやがった」
ずいぶんサイン会の時とは違うイメージで言い放って、野上は口元を歪ませた。
「冷やかしか?」
問われて徹は困ったように笑った。
「名前が、気になって」
「………」
「小十郎、なんて何か格好良くね?しかも響きは何か可愛いし、今時珍しいし」
路上に椅子とテーブルを並べたカフェテラスに座って二人は取り敢えず温かいものを頼んだ。11月の寒空にわざわざ外を選んだこの野上と言う男は、確かに屋内にいるより外の方が何となく似合っていた。
そして、野上はテーブルに肘を突いて顎に手をやったまま斜に徹を眺めやる。
「お褒めに預かり光栄です」と心にもない事を口の端を歪めたまま嘯いた。

「イマドキの高校生がどんな生活をしてるか、教えてくれ」
そう野上に請われるままに徹はだらだらと自分や、自分の周りの高校生たちの話を紡いだ。
流行っているゲーム、携帯の機種に対する拘りやお気に入りのアプリ、ネット世界の話題、芸能人の動向やスポーツの勝ち負け。恋愛のいざこざや仲間内での問題。
バーチャルの世界を自由に泳ぎ回る一方で、リアルの世界では自分がどうしたいのか、どう生きて行くのか全く見えていない。見えていない事に不安すら覚えない。無気力で、刹那的で、それでいて優しさや思い遣りに飢えていて、ふわふわと頼りない若者たちの物語。
その中で徹はアメフトやラグビーの話になるとやたらと熱く語った。
「好きなのか?あんなマイナーなスポーツが」
ちょっと不思議そうに問われると、徹はがばとばかりに身を乗り出した。
「だってよ、自分の陣地を獲った獲られたなんて燃えるじゃん!しかもごっつい体がかち合うあの迫力!!寝んのも忘れて大声で応援しちまうよ、そいでもって次の日ガッコは遅刻な、これ常識」
生き生きと早口に捲し立てる青年を見つめて、野上は皮肉のない穏やかな笑みを浮かべる。
「そういや野上さん、ガタイ良いよな。ラグビーやらせたら強そうじゃん」
「お前はもう少し肉を付けるこったな」
暗に軟弱、と言われた気がして徹は唇を尖らせた。
「腹減ったな、飯食ってくか?」
それをものともしない大人の余裕で野上は軽く言い放つと、席を立った。

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