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―記念文倉庫―
10
子竜が眠りに就いて、小鬼たちも出払った後の静寂の中、小十郎は僅かに流れた涙を拭った。
何故、そんなものが流れたのか、彼自身その理由に思い至る事がなかった。自分の中に燻る怒りと餓えの正体に気付かないのと同じように。
ただ、子竜の語る人間の解釈が、その無意味さが、愚かさが、息が苦しくなる程に切なくて心を切り刻んだ。
意図するまでもなく、胸の熱さが涙となって溢れた。
―――ああ…俺、は…?
訳の分からない切なさは、苦しくはあったが何処か甘く熱く、

―――愛おしかった。

数日後の夜、茂庭・最上、両領地の国境である船形山山腹で、即刻戦火が火蓋を切った。
これまでの人間たちの戦では、両陣営がそれぞれの土地に陣を張った後、最低10日前後は睨み合い、斥候を出し合って様子見をする事から始まった。それがなかったのは、最上軍の総力戦とも言える強気の姿勢故だった。
先鋒の300を動かし、茂庭軍の主力部隊の前を駆け過ぎる。挑発するように、二度三度、行ったり来たり。挙げ句に歓声を上げながら左翼部隊の目と鼻の先まで接近すれば、ついに茂庭軍も両翼を動かした。
最上の歩兵300を挟み込むように、それでも用心深くじりじりと進ませる。
それをそうと見た最上軍は、本陣から騎馬隊500騎を2個進軍させて一気に茂庭軍の両翼背後へ回り込ませた。
これにより、茂庭軍も左右の軍勢を攻勢に転じて動かさざるを得なかった。
そうして、冷たい雨が降りしきる真夜中の山間で、篝火を頼りに前代未聞の戦は始まった。
日が暮れたら、両軍どのような形勢であろうと引き上げるのがこれまでの習いなのだ。夜の闇の中での斬り合いが、どれ程無謀であるか人間たちも弁えていた筈だ。だが、昼間の非常識なレベルの天災の前では、例え多少雨が降っていようと穏やかな夜は、もはや人間にとっての唯一の活動の刻となっていた。
手にする松明も工夫を凝らしたものだ。鉄で造形された漏斗型の囲いの中に火芯を括りつけ、その口を針金製の網で蓋をして、雨や風によって早々消えない携帯型の行灯を造った。今で言う所の懐中電灯のようなものだ。
それは提灯と違って、ちょっとやそっとの衝撃で潰れる事もなかったので、足軽が胸からぶら下げたり、騎馬の首に括りつけたりなどして何とか視界を確保した。
そして、吹き流しを背に背負った伝令が陣太鼓を叩いて叩きまくって、自軍の動きを大将に伝え、大将はそれを茂庭や最上などの側近に早馬を走らせて報せた。
暗中模索の大混戦、と言った様相だった。
ポロポロと、死なずとも良い命が散って行く。ポロポロと、雨に塗れた土砂の上に潰えた兵どもの屍が転がった。ポロポロと、夏間近な季節に相応しい、温かい雨が涙のように降りしきった―――。
どうして人間は。
そうまで思って、小十郎は続く言葉が浮かばなかった。
蔵王山の南側を月を背負って練り歩く男には、戦模様は遠く、木々と山々と雨の狭間に垣間見られるだけだった。だが、消え行く生命の炎は手に取るように分かった。
ポロポロと櫛の歯が落ちて行くように、ポロポロと椿の花が形を崩さず雪の上で散華するように、ポロポロと。
回る独楽の軸足をわざと折る必要はあるのか?
デンデン太鼓の紐を切り、竹とんぼの羽根を片方裂いてしまう、その目的は一体何だ?

悪戯に失われて行く生命が穢れとなる。

生まれる事も死ぬ事も、人間にとって遠ざけておきたいものだった。人は回り続ける事を願う。その始まりと終わりを否定し、見ないようにすれば、永遠が手に入れられると思っている。
そのような幻想で、生を生きる。
だがいずれにせよ人は生まれるし、やがて死ぬ。その両方の穢れは人よりもむしろ、神々を悩ませるものだ。
神に人間のような誕生も死去もない。
ただ神在れ、神去る。
何処かしらエーテルの源が塊となって渦巻く所から来て、そこへ去る。それだけだ。そのような神々が人の死に、誕生に、触れ続けると―――病になる。
そうだ、
何故、梵天丸なのかは分からないが、あの醜悪な病の発生源は生け贄に始まる数多くの人間の死だと、今の小十郎は確信している。
月など担いで、我関せずの体で山の端をのしのし歩き続けてないで、今直ぐ、あの愚か者どもを一喝して吹き飛ばしてやりたい。
そうした思いに歯を食い縛り、拳を握り締めるが、それを実行するには至らなかった。
男が月を放り出せば夜もまた、天災が大地を襲う。戦をそれで中断させる事は出来るだろうが、戦に拘っていない女子供年寄りまでもがそれに巻き込まれる。
そして、それを一度放棄した後に、鬼小十郎が再び月を担ぐ事が出来るかどうかは―――定かではなかった。

鬼小十郎が月を担いで蔵王山に戻れば、空は荒まく雲に覆われ、積乱雲と言うより世界創世の頃のようなスーパーセルを生み出し、各所で巨大な竜巻を発生させた。
竜神のいない昼間、その災害は日に日に悪化しているように思われた。
その空模様を遠くに眺めながら男は、手桶に一杯の水を持って百姓屋の戸口を潜ろうとしていた。子竜の膿で爛れた身体を浄める為の水と手拭いだ。
人間たちの戦が始まってから、梵天丸は意識を失ったままで苦痛に身悶え呻くばかりだ。その事が地上の荒廃と共に男の胸をジリジリと焦がす。
その時、薮を掻き分け、鬼神の座像の元の百姓屋の傍らに、小鬼たちが現れた。それを振り向いた小十郎の眉根が寄せられる。
「おい…人間をここに連れて来んなって……」
言い掛けた言葉が切れた。
小鬼たちが抱えて来た人間の顔に見覚えがあったからだ。
『小十郎様…』と竜神の雷檄による怪我から全快した佐馬助が、語尾を震わせた。
彼ら3匹の小鬼が、鬼の領域である蔵王山に敢えて連れて来たのは、過日、梵天丸が吹雪の中から救い出した人間の兄弟の1人だった。ぐったりしているのは、粗末な一重のあちこちが泥と血に塗れているからだと見て取れる。
「ともかく、中へ」
子供の容態が急を要すると見て、小十郎は小鬼共々人間を百姓屋の中に招いた。

「竜神さま…ごめんなさい…ごめん…なさ、い…」
兄の方だと見られる子供は、服を脱がされ身体を浄められながらそんな譫言を何度も繰り返した。
目に見える擦り傷や切り傷は大した事がなかったが、骨折や内出血などが酷く、どうやら竜巻の被害にあって全身を強く打ち付けたようだった。
人間に、特にその生死に関わる施しをするのは鬼小十郎にとってはタブーだったが、男はそのまろい額に手を乗せて自らの神気を流し込むのを躊躇わなかった。
ぽっかりと、子供が目を見開いた。
「……あ…」と掠れた声が、ひび割れたその唇から漏れる。
「どうした?」
問い掛けながら自分を覗き込む男を、親の昔語りに聞いた鬼小十郎だと気付く事なく、子供は顔をしわくちゃにさせて泣き崩れた。
「おとうとが…せん吉が……」
それ以上言葉にならなかったが小十郎は少年の意図を呑んだ。
竜巻に巻き込まれて目の前で弟を失ったのだろう。梵天丸によって親戚のいる町に預けられて、ようやく人として帰る場所を得たのに、早々にそれをしも失った。
力ない声で泣きじゃくる子供の代わりに、小鬼の1匹が状況を説明した。
『地上があの有様でさぁ…。ちっと気になって様子を見に行ったんで。そうしたら全滅した町から離れた杉林の中に、飛ばされて来たみてえで…たった1人で』
『ひでえ有様っすよ…。俺たちが建てた避難小屋も方々がぶっ壊されてやした…』
『何だか…地上の人間たちを洗いざらい消しちまおうとしてるみてえだ…!』
「………」
3匹の鬼たちが次々と言い募るのを聞きながら、男は唇を噛んだ。
その彼らの目の前で、少年の嗚咽は徐々に力をなくして行った。例え男が神でも助けられる生命ではなかった。
そう言う事だ。
小十郎はその額から左手を離し、代わりに手拭いで涙に濡れた少年の顔を奇麗に拭ってやった。人間の身体から個体としての意識が抜け落ち、眠りよりも深く遠く、それが飛び去って行った気配を感じる。
沈黙の隙間を夜泣きに鳴く、山鳥の声が清かに渡った。
誰からともなく、溜め息が漏れる。
何気に男が振り向いた先、囲炉裏の炎の向こうに、何時の間にか唯一の左目を見開いた子竜の姿を捉えた。
『…………』
囲炉裏で焚かれているのは伽羅の香木。
自在鉤の先に引っ掛かる鍋で煮られているのは沈香の香木を削った欠片。
そして、ちろちろ揺れる炎を照り返す子竜の黒瞳が、不気味なまでに沈黙の闇を宿して凝っと人間の子供を見つめていた。
「…………っ」
思わず、男は子竜と人間の子供を見比べてしまった。
そして、子竜に向き直り、何かを言い掛けようと口を開いた刹那、

ドン、

と言う衝撃が全身を叩いた。
ビシリ、と百姓屋全体が揺れ、小鬼らは身体が軽い為に部屋の壁に叩き付けられる程だった。
男は、ぽっかり穴の開いた天井から外へと飛び出していた。
蔵王山の急峻な崖を跳躍しつつ駆け上り、竜の子が飛び去って行った方角を眺めやる。
だがその姿は、雪を纏い付かせた漆黒の雲の隙間に忽ちの内に遠離り、呼び止める術はなかった。

子竜が飛び退った先は、一番最初にその狭い視界に飛び込んで来た雲海だった。
病の苦痛を吹っ飛ばす程の激情が舞い狂う意識の中、梵天丸は自分が成すべき事を知っていた。
須臾の間に雲海へと頭から突っ込んで、ズタボロの身体で雲海の中を泳ぎ回った。円を描いて、他の竜神らが何事かと近寄って来るのを弾き飛ばしつつ、狂ったように。
雲海は徐々に"切り取られて"行く。
太陽の誕生だ。
日々新たに太陽は造られ、日々日々新たに太陽は生み出され、空を駆けて後に雲海に還る。
竜神の長だけが可能とする太陽の神秘だった。
黄昏色に輝く雲海、希薄で捉え所がなく、常に流れうねるそれを切り取って、天へと持ち上げる。
今正に、梵天丸はそれを成した。
小さな身体に有り余る程の太陽を雲海の中から掬い上げ、上空数千キロへと舞い上がる。
およそ半月振りの朝日が、スーパーセルにまで育ち上がった暗雲を払い除けた。素早い動きのそれは、無秩序の秩序に対する敗北と、陽光そのものが持ち得る栄光を遥かに増長させた。それと同時に、雲海にのみ漂う筈の芳しい香りが、早朝特有の涼しげで爽やかな風に乗って地上を吹き渡った。
森の中の鳥たちが、新しい太陽の齎す明るさに驚いて梢から飛び立った。穴蔵や木の洞に身を縮こませて踞っていた動物たちも訳が分からないまま、そこから飛び出し逃げ惑った。

そして人間は―――、
雪や洪水で叩かれ、荒野となった大地に立ち尽くす。
雹や竜巻で倒壊した町の瓦礫の中で天を見上げる。

天理の過酷さに生きる気力も、生き伸びる術も見失い、呆然としたままで眩い陽射しと温かなその熱と、乾いた風にほう、と息を吐く。
悲惨を忘れた。
失った身内の顔を忘れた。
己の犯した罪を、忘れた。

しかし、

梵天丸は巨大な太陽を天の3分の1程運んだ所でバランスを崩した。
自分の体の何十倍も大きな太陽がその身を圧し始める。
崩壊は瞬く間だった。
ガリガリと、その病巣に冒された蛇体は刻まれ、止める間もなく四散して行った。目的だけを唯一掴んでいた意識が闇に呑まれるのはそれよりも早く、頭上に乗せた太陽が元の雲海となって、ただの無意味な断片と化した竜の子の欠片を呑み込んだ―――。

絹糸が解れ、崩れるように太陽は消えた。




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あきゅろす。
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