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―記念文倉庫―

『何用で参った、鬼の眷属どもよ』
静かだが、雷鳴のような声に問われて、文七郎たちは文字通り震え上がった。
『鬼小十郎の差し金か』
『鬼神が竜神の領域を侵すとは敵意あり、と見て良いか』
『かつてのように八つ裂きにしてやろうか』
三柱の竜神が次々に威圧的な言葉を投げやって来るのに、震えっ放しの小鬼は剥き出しの牙をぐっと噛みしめた。
『小十郎様は関係ねえ!けど俺たちは輝宗様と天神様にお会いしなきゃなんねえんだ!!地上の有様はお前らだって知ってんだろ?!』
負け犬の遠吠えの如く声を張り上げたのは、佐馬助だった。
叫び声が、雲海を満たす静寂に吸い込まれて行く。
静かだった。
小鬼どもを覗き込んだ三柱の竜神はピクリともしない。
返事も寄越さない。
ただ、感情を窺わせない一抱え以上ありそうな黒曜石の瞳が、微動だにせず凝視する。
『…あ、あの、お前らとか言ってすみません…』とさすがに萎れた佐馬助は言う。
『ただ…ホラ、輝宗様が小十郎様に預けてった梵天丸様の容態も、お悪いんですよ…』
『そうですよ、だから俺らも心配で…』
沈黙を畏れて小鬼らは次々に言い募った。
それにすら竜神らは顔色目色を変えない―――と思えば、間近にあった頭がすう、と音も立てず遠離って行って、それは冷やかに見下ろして来る。
ゆらり、と絹糸の雲海が揺れた。

『鬼が竜の領域を侵す事、許すべからず』

非道く静かな宣言が最後通牒だった。訳が分からないまま固まり、抱き合った小鬼らは己の運命を悟っただろう。
彼らが何か言うより早く、黄昏の世界を刹那蒼白く染め抜く雷光が翻った。
耳を聾する轟音は一拍遅れて転がり落ちるように轟いた。


小十郎が月を担いで蔵王山に戻った時、鬼の領域である森の中を漂う血の匂いに気付いた。
動物や人間のものではない。
エーテルの流す血。
山の麓の座像を離れ、アルケーの姿で森を走った。
その男の脳裏を第一に過ったのは、瀕死の子竜がまた何か無茶をして何処かで動けなくなっているのではないか、と言う事だった。
しかし、小鬼どもの何時もの溜まり場である沢の湧き水の傍らで見つけたのは、やはり漆黒の小鬼どもが寄り集まって何やら騒めいている様子だった。
「おい、手前ら…?」
この血の匂いは何だ、と続くその台詞が途切れた。
小鬼どもの真ん中で、地べたに踞っている3匹の有様に息を呑む。
通常の火などでは火傷させる事も出来ない筈のその黒い皮膚が焼け爛れ、血に塗れてぬらぬらと輝いているのに、視界が揺れる程の衝撃を感じた。
「…今日、雲海で竜神のイカヅチが落ちた…。手前ら―――」
何の為に彼らが雲海へ行ったのか、それは問うまでもなかった。
叱責するのは後だった。男は他の小鬼らに湿布になる植物や薬になる虫などを取りに行かせ、殆ど死んでいるのではないかと言うぐらいぐったりした3匹の体に掌を重ねた。
確かに、天神の所へ去った竜神の後を追って雲海を越えるしか、あの子竜の病をどうにかする手立てはないのではないかと思われた。ただ、それですら、星宿の"医"が匙を投げた病状だ。竜神輝宗もなす術なし、と見極めて最後の頼みの綱として天神を尋ねたのだろうと言う推測が出来る。
そちらの方が、神々の戦を想定するより余程納得行く。
―――なら、こいつらの努力と思いは無駄だったと言うのか。
そうではない、と思いたかった。
そうではないのだとしたら、某か、誰かしらが、彼らの努力と思いを掬い上げるべきではないのか。
そうした煩悶に身の内を焦がしていると、小鬼らが申し付けたものを集めて戻って来た。それを、男は躊躇いもせずに口に含み噛み砕いた。神が醸す事で、地上のものが神にも影響を与える事の出来る飲食物や薬になる。ただそれも、地上で暮らす鬼だけに限っての事だろうが。
手早く治療を済ませ、小鬼らの身体に満遍なく小十郎が触れた事で徐々に落ち着いて来たようだ。彼らの硬く閉ざされていた瞼が開き、己が主の姿を捉えた。
『…あ、う…小十…ろうさま…』
『す…すんま、せ…』
『こ、じゅ…ろ、様…っ』
「いいから休め。寝床には蓮華の葉の織物を他の奴らに用意させるから」
優しい気遣いの言葉に、身も心もボロボロの3匹は静かに嗚咽を漏らした。力のない己が情けなさ過ぎて、そんな己らの心情を汲んでくれている主の心根が嬉しくて、泣けて仕方なかった。
落ち着いて、泣き出す気力と体力が戻ったのを見届けて、小十郎は立ち上がった。彼ら3匹の小鬼は鬼小十郎の座像の下、そこに穿たれた洞窟に運び入れるよう他の小鬼どもに言いつけ、蓮華の葉の織物も取り急ぎ造らせた。
その後で、子竜の眠る百姓屋の戸口を潜る。
男の懐には夜、山の端を練り歩いた際に拾って来た金糸の霊気が忍ばせてある。地上に近付くにつれそれは希薄になって行ったが、この蔵王山の麓なら未だ消えずに残っている。
だが、土間に踏み込んだ途端、その事も頭の中から吹っ飛んだ。
シロツメクサの褥は汚れる度に小鬼らが新しいものを造って取り替えていたが、その上に子竜の姿はなく、囲炉裏から離れた部屋の隅に丸まって震えていたのだ。
小十郎は草履を脱ぐのももどかしく、そのままズカズカと乗り上がって駆け寄った。触れた掌に蛇体から伝わる体温が熱い。
「…梵天丸様!」
何処かへ飛び去らんとする意識を呼び戻すように、男は低く静かに、だが必死の思いで呼び掛けた。
その、色艶を失った鱗を撫で、何度も呼び掛けた。
醜い腫瘍が増々広がりを見せる中、唯一まともに動く左目と左前脚がぴくりと動いて、子竜は目を見開いた。
生きていたか、と男は安堵の溜め息を吐いた。
『…誰かが、竜のイカヅチにうたれたのか…?』
やはりその気配に気付いていたか、と男は子竜には気付かれぬようひっそりと息を呑んだ。だが、用意してあった言葉はスラスラと口を突いて出る。
「気紛れに渡り鳥が侵入したのを撃ち落としたらしい」
そうした事は普段からたまにあった。梵天丸も納得したらしく、再び目を閉ざす。
小鬼の血の匂いなど、己自身の体に纏わり付く病臭のせいで嗅ぎ分ける事など出来ないだろう。実際、子竜はその事には触れなかった。
「どうした?囲炉裏の側は熱かったか?」
『………いや、寝てたら…いつのまにか…』
そうではないだろう。
体を蝕む苦痛に耐えかね、身悶えた果てに壁に突き当たったのだ。
「褥の上の方が柔らかいだろう、移動するぞ?」
『……ん…』
素直に頷く子竜を、小十郎は静かに抱え上げた。
『小十郎…草履…』と目敏くそれを見つけた子供に注意されて、思わず苦笑が漏れる。
「ああ…すまねえ。人間の家に上がるなんざ、慣れなくてな…」
『…むー…』
「わかったわかった、直ぐ脱ぐから」
子竜の体を元通り、シロツメクサを編んで造った褥に横たえた男は、その足で框に腰を下ろした。草履の藁紐をせっせと解く己の様にふと我に返れば、再び困ったような苦笑が口元に浮かぶのを禁じ得なかった。
『佐馬助たちは?』とその背に子竜は問い掛ける。
『今日、ずっと姿をみてない…どこいったんだ?』
仲の良いあの3匹の小鬼を気に掛ける梵天丸に、真実を告げられる筈もなかった。男は懐から希薄になった金糸を取り出しながら子竜の傍らに戻りつつ、答えた。
「下界の様子を見に行かせてる。今日は吹雪だ…大雨の後だからな、なかなか積もらないようだが、地面が凍って危険な事になってる…」
『………そうか、吹雪か…』
「道がぬかるみで塞がれてる。川が氾濫した後に降る冷たい雪と風とで凍え死ぬ人間も多い。―――だから、ここで百姓屋を建てた経験を生かして、何とか人間が避難できる場所を造らせてんだ」
これは事実だった。
人間の住む村落へ降りて行って、人間に見つかる事なく安全な場所に数件の家を立てて回る。そのように小十郎は己の手下らに命を下している。それでどれ程の人命が救えるか定かではないが、何もしないよりはマシだった。
『……小十郎…』
「―――何だ」
『梵が……もしも、だ…。梵が父上の代わりに太陽をはこぶことはできるだろうか…』
無理だ、と言う即答が喉まで出掛かったのを呑み込んだ。
竜神族の長たる地位を継いでいない以上に、この体だ。成竜となったらそれこそ山のように巨大な蛇体になるが、幼生の梵天丸は牛より小さい。そしてこれ程弱っていては。
そんな事は全て承知の上で、子竜は問うたのだ。
「…先ずは病を治してからだ…腹減ったろ?」
ありきたりで、あてのない台詞だと思いながら小十郎はそう言うより他なかった。
梵天丸は差し出された儚い金糸を気怠げに眺めた。食欲がないのはあから様だったが、男の言う事も尤もだった。
んあ、と口を開けた子竜に男は手にしたそれを放り込んだ。
金糸の霊気を呑み込むのも辛い。
喉にまで出来た腫瘍が呼吸を妨げている。咳をすれば膿と血の混じったものを吐き出し、その小さな胸がゴロゴロとイヤな音を立てる。体内でまで病巣がその猛威を振るっているのが見て取れた。
男は、はふはふと苦しげに溜め息を吐く子竜の鬣の上に手を置いた。手触りの良い艶々しかったそれが、今は縺れて酷い有様になっている。
この子竜は人間を怨むだろうか。
自分のように怒りと餓えに任せて人間を喰らう鬼になるだろうか。
―――怒り?
ふと、自分の中にかつてあったその残滓を、男は垣間見た気がした。
それは、何だ?
不確かなものを追って、己の内心に問い掛けていたら、
『……小十郎…』と言う子竜の声に現実に戻された。
『人間の玩具というのは、すぐにおわってしまうな…』
「ん、ああ…独楽も竹とんぼも単純なもんだからな」
『…生命はすぐ終わるものだ、って…こどものころから学んでいるのだろうか』
「……………」
『独楽なんて、あんな細い足でたって、すぐ倒れてしまうのがわかってるのに』
ふう、と溜め息を吐いた後に梵天丸は言葉を継いだ。
『くるくるまわしてやらないと立つこともできないのがわかってるのに…それでもまわして、何度もまわして―――どうした…?』
苦しげに言葉を紡いでいた子竜がふと、首を擡げて男を見上げた。
男が、小十郎が、何故か空いた方の手で顔を覆って嗚咽を漏らしていたからだ。
「―――何でもねえ…」と男は辛うじて震える声を圧して応えた。
『そうか…』
その事についてはそれ以上触れず、子竜は男の指先が鬣を梳き通す仕草を感じながら目を閉じた。やはり彼に触れていてもらうと体が楽になるらしい。やがて、心地良い寝息を立て始めた。

鬼小十郎、と呼ばれる男は過去、何か胸を切り裂かれる程辛い思いをした事があるのだと、そう思いながら。




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