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―記念文倉庫―

夜が明け、鬼小十郎が月を担いで蔵王山に戻って来た。
人界の昼は再び雪が降り始めた。眩しく力強い陽射しは不在のまま、真っ暗闇の中を音もなくしんしんと降り積もる。闇と雪の暴力が、人間と動物たちと作物などの植物らを打ちのめした。
時刻で言えば正午頃、鬼小十郎の座像の足下にその百姓屋は完成した。
緊張の面持ちで小鬼たちが見守る中、男に抱え上げられた梵天丸は、その玄関を潜った。
切り出したばかりの建材の芳しい香り。
掘り返したばかりの土の瑞々しさ。
まるでママゴトのように設えられた土間と上がり框と、その向こうに佇む素朴な囲炉裏の生活感。ご丁寧に自在鉤には鉄製の鍋が掛けられ、そこで形ばかりに水が焚かれている。焼べられているのは白檀の薪だ。それの上げる煙が、越屋根と呼ばれる天窓から吐き出されて行った。
それらを一方ならぬ感心を抱きながら眺めていた男が、土間から上がり框に片足を掛けた時、子竜が呟いた。
『そのきたない草履のままは、ダメだ…』
「………」
男は一先ず抱いていた子竜を板間に横たわらせると、言われた通り草履を素早く取り去った。
再び蛇体を抱え上げた時に梵天丸が小さく呻く。
右目を侵蝕した病巣は今、その顔面の右側を殆ど覆い尽くしており、口を開けさせたところ口腔内にも醜い腫瘍を作り出していた。それは喉の奥にまで続いているようで、時折息を詰まらせ、血混じりの膿を吐き出す。
今も、項垂れた子竜の口の端から溢れたそれを、男は着物の袖で拭ってやった。
彼らの後から百姓屋に入って来た小鬼らが、シロツメクサで編んだ褥をせっせと運んで来て囲炉裏の傍らに敷いた。シロツメクサの他に神々が好む香草も織り込んであるそれに、小十郎はそっと竜の子供を寝かせてやった。
梵天丸は薄っすらと左目を開いて、目の前でちろちろ炎を上げる炉を見やった。
『梵天丸様、これ、百姓の子供が遊ぶって言う独楽とかデンデン太鼓とか言うのです…』
そう遠慮がちに告げた小鬼の1匹が、子竜の鼻先に細々したものをコロコロ転がせば、まだ動かす事の出来るちんまりとした左腕を伸ばしてその1つを摘まみ上げた。
独楽とは言っても様々な形があり、大きさがあった。色とりどりに彩られ、作り立てのそれは、艶々しい木の実のようにも見えた。
デンデン太鼓の他に、ダルマ落としや双六や小さな笛などもある。竹とんぼや水鉄砲、羽子板など、外で遊ぶような玩具もあった。人間の子供たちから聞きかじって来たそれらの玩具を、小鬼たちは夜の間に調べ回って再現してくれたのだ。
その中でも梵天丸の目に留まったのは、ギヤマン(ガラス)で出来ている"おはじき"だ。中に色の付いた繊細な幕が踊り、美しい事この上ない。
『あ…それは……』とちょっと慌てたのは、傍らで様子を見守っていた文七郎だった。
そのまま口を噤むのを小十郎が何だ、と言うように見やると、小鬼は口ごもりながらもごもごと白状した。
『ギヤマンを加工する方法が分からなかったんで…その…近所の村から…』
「盗んで来たのか?」
『すっ!すいやせんっっ、ついっ!!』
小十郎は溜め息を吐いた。本来なら戻して来いと言う所だが、今回はこの子竜が要望したものだ。見逃してやるか、と思い直した。だが、
『返してこい…』と言ったのは、他ならぬ梵天丸自身だった。
『へ、へいっっ!!!』
慌てた文七郎がそのキラキラしいギヤマンの粒を拾い上げ、百姓屋を飛び出して行った。
それを横目で見送った子竜は、代わりに小さな独楽の1つを鋭い爪先で摘まみ上げた。目の前まで持って行ってしげしげと眺めやる。
『…小十郎、これはどうやって"遊ぶ"んだ…?』
"遊ぶ"と言う概念自体が人間とは全く異なる竜神の子供が、至極もっともな質問を放つ。男は別の独楽を1つ手に取って、指先ででくるり、と回して見せた。

それは、

くるくる回る、よろりとぶれて、程なく床に転がった。
更に別の独楽も取り上げた。紐を巻き付けて打ち放つタイプのものだ。それも慣れた手付きで素早く、器用に、男は回した。
独楽は奇麗に回転して立ち上がった。
確かに先程のものより長く勢いよく回転していたが、やがては自重に負けて傾くと、やはり呆気なくそこらに転がって止まってしまった。
他にも、寸胴なもの、丸っこいものと幾つもあるそれを、囲炉裏端の板間で男は次々と回して見せた。いずれにせよ独楽はその回転を止め、倒れてしまうものだ。
それを梵天丸は随分長い事眺め続けていた。
手を伸ばしもせず、瞬きもせず。
『…これは?これはどうやって遊ぶ?』と次に手に取ったのは竹とんぼだ。
それも、男は足の部分を両手に挟んで擦り合わせる事で巧く飛ばして見せた。皆が見守る中で竹とんぼは高い天井の太い梁まですうっと飛び上がって、狭い百姓屋の板壁に突き当たって落ちた。
それを、小鬼の1匹、佐馬助が拾って戻って来る。男はもう一度飛ばした。
飛ばしては落ちる。そんな事を、子竜が他のものに目移りするまで何度か繰り返した。
デンデン太鼓やダルマ落としも、男が子竜の目の前で実演して見せた。
その数々を面白がっているのかどうか、小十郎も小鬼たちも全く計りかねた。ただ、時折苦しげに身を捩る幼い竜の子の身体を拭い、その目元に溜まった目脂や口から溢れた膿を、拭い去ってやる事しか出来なかった。
やがてその内、疲れたらしい子竜は『ここでねる…』と小さく呟いて目を閉じた。
はふ、と吐き出した息は炎に煽られたように苦しげで。
近くの村にギヤマンのおはじきを戻して来た文七郎が、百姓屋に飛び込んで来た時、思わず不安を抱いてしまった程にそこは静かだった。
『小十郎様…』
情けない声を掛けて来た小鬼を顧みた男は、片手を振って皆に下がるよう指示した。それでも下がり難い気配を隠しようもない己が手下らに、小十郎は言った。
「俺がここにいる間はずっとこうしていてやるから大丈夫だ」
そう言う男の左手は、眠りに就いた梵天丸の右目の上に覆い被されていた。そうする事で具合の良くなった事のある小鬼たちは安心すると共に、それでも一向に快方の兆しが見えない子竜の様子をやはり心配した。

すごすごと百姓屋を出て行った後に小鬼どもは何やら寄り集まって相談事を、始める。


屋内に居残って手下どもの気配が遠離って行くのを何となく追っていた小十郎は、ふと、囲炉裏で揺らめく炎に目を落とした。
この病状の進み具合から見ると、腫瘍が全身に回るのも後数日と言った所だろう。最上軍が蔵王山の北側を回って船形山を越える頃合いと合致する。それから―――。
それから、どんな事が起こると言うのか。
船形山は最上家と茂庭家の領土の境でもある。そこで戦が火蓋を切るのは間違いない。両家の領地を巡って北で小競り合いが暫く続いている内に、今度は大地の南側を回った最上家の船団が仙台の玄関口、仙台湾に到着する。そこで、茂庭家の斥候に気付かれ、海戦が始まったとしたら、二箇所を同時に攻め込まれた茂庭はどう動くのか。
死が死を呼ぶ戦の嵐。
それに輪をかける真昼の間だけの天災。
―――そんな事してる場合じゃねえだろうが……。
自分が長年見守って来た人間たちの余りの愚かさに、我知らず舌打ちが漏れた。


七色に輝く絹糸のような雲海を、人間の造った"天神の船"が行く。
人間の住む大地が暗闇であるのに対し、黄昏のような黄金色の光に満ちたそこを、船腹から飛び出した何十本もの櫂が掻き退けて進み行く。それを一昼夜、竜神たちは遠巻きに見守っていた。
船に乗り込んでいる最上や、その家臣らは正直生きた心地がしなかった。
竜神たちの沈黙と黒曜石の瞳は、地上に齎されている天災と相まって、とても友好的なものとは思われないからだ。今にも取って食われる、船を転覆させられ、底も知れない雲海に沈められる。そのような恐怖に凍り付きながら、そろそろと船を進ませていた。
人間が雲海を渡れるなら、と無謀な行動に出たのは小鬼たちだった。
船などどう造って良いのか分からなかったものだから、蔵王山の森で白石川の川下りに使っていたような大きな盥を新調すると、それを担いでえっちらおっちら、阿武隈川の河口まで出た。
彼らの主、鬼小十郎が夜になり月を担いで蔵王山を出て行った後だ。
留守を守り、梵天丸の枕元に侍って香木を焚き続ける者と、雲海に乗り出す者とに別れて計画を遂行した。残って鬼小十郎に叱られるのも怖いが、雲海で竜に出会すのも恐ろしい。それでも行かねばならない、と小鬼たちは思い定めていた。
『行くのは良いけどよぅ…佐馬〜、雲海の向こうにホントに辿り着けんのかよぅ?』
不安定な大盥の中でさっそく弱音を吐いたのは、孫兵衛だった。他の2匹よりコロコロ太っているので見分けやすい。
『行きたくねえなら手前だけで引き返せや、ボケ』
『地面の下に行くにゃ雲海越えなきゃ行ける訳ねえだろうが、アホ!』
佐馬助と文七郎に代わる代わる罵られた丸っこい小鬼は、黒い顔面の中で口を歪めた。人間だったら唇を尖らせている所だろうが、鬼のそれは上下の牙を剥き出しにしていて唇がない。だからやたらと不細工になった。
『行きたくねえ訳じゃねえけどよぅ…』
むしろ居残って鬼小十郎の雷を落とされる方が怖い、とは口が避けても言えない。
川の流れに乗って、小鬼たちがそんな会話を交わしながらざかざか水を掻き分けるのに従って、間もなく阿武隈の広大な川幅は、その先に雲海の仄かな灯りを覗かせた。
彼ら小鬼の乗った盥は川の水が雲海へ飲み込まれる境を越えた。
波音もしない静寂と黄昏の光がたゆたう雲海は、芳しい香りに満ちていた。
小鬼たちの緊張が高まる。
人間の船が陸地に添って雲海の際を行くのと違って、彼らの目的は大地を離れて真っ直ぐ雲海を横切って行くものだ。竜の巣の最中に突っ込む事になる。
その恐ろしさたるや。
彼らの主が竜神に破れた、と言う過去がある。そのような強力な神を相手に、卑小な小鬼は如何にも取るに足らない存在だったろう。
取るに足らないなら、ちょっと竜の巣を横切らせてもらう事ぐらい許してくれるだろう。そんな根拠のない甘い考えが彼らの雲海行きを決行させた。
だがそれは、ぞわりと空気が動いて雲海が割れた時に、儚い希望だと知った。
巨大な竜が金糸の雲をその身に纏わせながら、彼らの盥の前に鎌首を擡げた。揺れる雲海は小さな盥を大きく玩ぶ。
現れた竜神は一柱ではなく、その両脇に二柱、合わせて三柱だ。その威圧感に小鬼らは盥の中で互いの身体に抱きつき合って固まった。
見上げる程の巨大さだ。
七色の鱗は彼らの乗る盥よりも大きく、燃える炎を上げるような眼光は肌にチリチリと焼け付く程に鋭い。雲海から出ているのは前脚のある辺りまでだが、蔵王山の麓に座す鬼小十郎のエーテルよりも更に高い所に頭があった。雲海に隠れた胴体など、その何倍も、長い。
―――これはしくったか…。
3匹の小鬼の脳裏にそのような思いが過った。
その時、中央の一柱がすう、と頭を下ろして来た。
手が届きそうな程間近、片目で盥の中を覗き込む、その竜神の神気が熱波のように小鬼たちを襲った。




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