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―記念文倉庫―

『小十郎様!!水は…水は湧かした方がいいっすか?!』
『小十郎様っ、神丹ありました神丹!300年以上前のものですがっ!!!』
『小十郎様っっ!人間は風邪引いた時に生卵飲むとかで、鶏を山ほどかっ攫って来やしたーっ!!!!!』
次々やって来ては大騒ぎする小鬼たちを、男はひと睨みで黙らせた。どれもこれも素っ頓狂な台詞を呑んで、素っ頓狂な表情で固まる。そんな己が手下どもから視線を外し、小十郎は地に突いた己の膝元を見下ろした。
そこには、明らかに具合を悪くして苦しむ竜の子が力なく横たわっていた。
体の下に編まれたシロツメクサの褥は、柔らかく子竜の体を受け止めていた。鬼小十郎の座像、その足下に穿たれた洞窟は温かく、外界の騒ぎから完全に隔てられた安逸の空間だった。
それでも、子竜が細く短い息を継ぎ、時折苦しげに身を捩らせるのを止める事は出来なかった。
小十郎は伸ばした左手で、子竜が掻きむしろうとするその右目を覆った。
爛れた皮膚―――竜神の場合は七色に輝く鱗が剥がれ、そこから剥き身の肉が覗いている形だ。患部は初めて見掛けた時よりも明らかに広がっていた。放っておけばこの右目を侵した病は更に全身に広がると言う。
二十四宿の1つ、"医"ですらもその原因や治療法を見つけられなかったのだ。小鬼たちが必死に考えて必死に持って来たものらに何の意味も見出せなかった。その必死の気持ちは有難いが。
「騒ぐな…。出来たら白檀や伽羅の香を焚いて静かにしていろ」
静かに言い差す主の言に、小鬼たちはがっくり肩を落とし口を噤むばかりだ。
香木など、この蔵王山にはごろごろ転がっていて彼らがおやつ程度に摘むような代物だった。そんなもので良いのかと、彼らには納得行かないのだ。
「早く行け」
僅かに優しげな声音に押されて、それでも小鬼たちはすごすごと踵を返した。
その後ろ姿がよちよちと力なく歩いて座像の下の洞窟から姿を消すと、小十郎は改めて自分の手の下の子竜を覗き込んだ。
ふと、その無事な方の左目が見開かれているのに気付く。
「……少しは楽になったか?」
そっと覗き込みながら問うて来る男の顔を、竜の子の唯一の瞳が頼りなく揺れながら見返した。熱や苦しみに魘されながら、今目に映っているものが何なのかも分かっていないのかも知れない。
しかし、2、3度瞬きした後に苦しさに息を吐き出した梵天丸は言った。
『お前の手から神気が流れ込む…こんないやし方、知らなかった…』
「…あいつらが病に罹った時はこいつで直ぐ良くなるんだがな」
『ずっと楽だ…。お前は、ふしぎな奴だな…』
感じ入るようにそう告げて、子竜は眠りに落ちたようだ。男はそのまま、爛れた竜の右目に手を押し当てて様子を見守っていた。
小鬼たちの報告から、最上家の人間たちが今朝、次々と船を出港させたのを聞き知っている。それに合わせるような病状の悪化だ。男に多少の力を子竜に分け与える事は出来ても、苦しむ蛇体を治癒する術はない。
このまま自分の手元で竜神の子供を"神隠れ"させたらどうなるのか。そうした保身のための心配も少なからずあったが、それでは例えば竜神の息子の人質説、と言う己の推測が根底から覆される。
であるなら、竜神の長輝宗は何か別の考えがあるのだろうか。
―――考えたって始まらねえな…。
溜め息と共に身じろぎする、その気配にも子竜は目を覚まさなかった。

暫くして、足音を忍ばせつつ小鬼らが戻って来た。その手に手に白檀や伽羅の他に麝香の塊などをそれぞれ抱えていて、それを手早く石を組んで作った炉に焼べて香煙を立たせて行く。
その手慣れた様子を黙って眺めていた小十郎がふと、洞窟の外に見える真新しい角材を視野に入れた。
「おい、手前ら」と思わず声を掛けていた。
『へい、何でしょう?!』
『何か他に出来る事が?!!!』
声を荒げる小鬼らを目線で黙らせ、洞窟の外を顎で指し示してやる。
「ここでシケたツラ突き合わせてる暇があったら、こいつの為に百姓屋を完成させてやれ。それで元気づくだろう」
『おおっ…!』
叫ぼうとした1匹を他の2匹が力尽くで潰して黙らせた。
小鬼たちの中でも梵天丸と特に仲の良い佐馬助、文七郎、孫兵衛の3匹だ。それが、梵天丸の為に出来る事を示唆されて、沸き立つ気持ちを抑えつつ瞳を輝かせた。
『それじゃ、さっそく…!』
なるべく声を潜めて佐馬助がそう言うと、彼らはぴょこんと頭を下げて外に飛び出した。仲間たちを呼び寄せ、小十郎が書き付けた図面を見ながらわいのわいのと相談を始める。
ふと、中の1匹がはっと気付いて洞窟の中から睨みつけて来る主人を顧みた。彼らはひそひそと申し合わせ、なるべく眠る子竜から離れて騒がないように、静かに手順を決め始めたようだ。
それを見届けた男は、意識のない子竜を再び顧みた。
アルケーである人間の体で触れる竜の身体は、強堅な手触りを伝えて来た。この世のもののいずれでも有り得ない七色に輝く鱗、長い髭と黒い鬣、そしてその身に纏わり付いて常に流れ蠢く蒼白い瑞雲。
喩えようもなく美しい存在だ。
完璧で欠けた所がない。
それを蝕む病とは一体どれ程の罪業を秘めているのか。
そこまで考えた男は、何気に黒い鬣を撫でていた左手をぴたりと止めた。
―――まさか?
思い至った己の考えに1人男は愕然とした。

昨日の雪をすっかり溶かし切ってしまう豪雨が降り続いた。
これは雪解けの水と相まって川の水を氾濫させ、田畑だけでなく低地にあった村や町を水浸しにしてしまった。
巨大な雹、豪雪に続いて、風雨に見舞われた為に、人間たちの間では今年の作物はほぼ全滅だ、と呟き交わされていた。
それでも備蓄がある分には未だ良い。仙台にしろ山形にしろ、それぞれの領地で各地域を治める小頭領らが、天災や戦に備えてそれぞれの倉に米や日持ちする食糧を蓄えている。だがそれも今は危うい。
何となれば、未だかつてない大戦が間近に控えているのだ。
最上川の河口の町から出航した船団とは別に、雨が止んだ夜になって今度は陸路を取った最上軍が蔵王山の北側、船形山を大きく回り込む形で進軍を始めた。
南からは雲海を経ての海上から、北からは最上領のほぼ全家臣団が茂庭領の本拠地仙台を背後から襲う形で、挟撃せんと謀る。
土地と人間とを蹂躙する大戦で、今度は貴重な働き手である若い男が失われるだろう。それが愚かな事だとは思い至らない。もし分かっていたとしても、この大地全てを制覇した後に得られる(と予測される)利潤と栄誉の他には眼中にないのだ。

その事に気付く前。
梵天丸は小十郎に抱え上げられ、着々と出来上がって行く百姓屋を見せてもらっていた。
小鬼たちの脚力と腕力は、見た目の小粒さからは想像出来ぬくらいのものだ。左官屋や鳶職など目ではないくらいの身軽さで木材を軽々と運び、柱を立て、棟を築き、梁を巡らせる。
夜明け間近になる頃には外見はほぼ完成していた。あとは内装の細々したものや建て具を誂えれば完成、と言った所で夜が来て、小十郎は月を担いで立ち上がった。
残された梵天丸の傍らには、作業を休んで小鬼たちが代わる代わる付いて、香木を欠かさず焚いた。
小十郎は蔵王山の南側を辿るルートを歩きながら、遠く進軍する最上軍を山の端に、あるいは奥深い森の狭間に捉えていた。
彼らが蔵王山の北側を進軍するのを選んだのは、陸と海との挟撃を踏まえての事だったろうが、夜の行軍で鬼小十郎と鉢合わせしたくないと言う思いもあったのだろう。
まあ、例え月を運ぶ途中で人間の軍に出会したとしても、小十郎に何が出来る訳でもない。夜空を月が滞る訳には行かないのだ。

気が遠くなる程長い間、鬼小十郎は蔵王山の麓に座像として縛り付けられていた。
蔵王山は山とは言っても、天を突く程の威容を誇り、立てた筆を束ねたような急峻で人も獣も近付けさせない鬼の住処だ。鳥や獣の声が時折上がる他は、小十郎の手下の小鬼どもが時に遊び、時に人間の真似事をして戦ごっごをする以外、動くものの姿もない。語らう友もない。
尤もその昔、人里に現れては人を襲い食うばかりであった頃も、今以上に孤独ではあったが。
今より幾代か前の竜神―――もう名も忘れてしまった―――に打ち負かされ、天神によって蔵王山に封じられる事になった時、言われたものだ。
『そこでよくよく考えてみるが良い、今まで己が喰らって来た者たちの事を。これから生まれ来る者たちの事を』
考えると言ったって、人間たちの何を知るものでもない。
ただ昼間、竜神が太陽を運んで天空を行くのを恨めしげに眺め、夜になれば新月の時以外は月を担いで大地を練り歩くだけだ。
どちらにせよ、拷問と同じようなものだ、と思った。
いや、思っていた、と言うべきか。
鬱々として、神経を逆立てる苛立ちは徐々に薄れ、岩と化したエーテルと共に心と頭を占拠していた血肉に対する餓えも枯渇し、何時しか空虚なものに満たされていた。
乾いた風が吹き渡る。
捕食者の摂理とは詰まる所、生への執着だ。
生きる為に食う、食う為に生きる。生と捕食とが密接に繋がり合って、切っても切れない関係である筈だった。
それが己にはなかった。
何の為に人間を喰らっていたのか、その問いに己が答えられない事に気付いて男は愕然となったものだ。
何の為に、
いや、それ以前に己はどうしてこの世に在るのか、それすら分からなかった。
何の為に、
夜、重苦しい月を担いで毎夜の如く歩く時に、寝静まる前の人間の姿をひっそりと垣間見ていた。
1人淋しく月を見上げる者、仲間と酒を酌み交わし持論を展開させては共感したり喧嘩したり、あるいは感涙に咽び泣いたりする者。あるいは仲睦まじく愛を囁き合う者たち。あるいは悪事を企て働く者たち―――。
何か目的があって生きているようには思えなかった。
いや、個々人では大義名分や理想などは抱いているのだろう。日々生きる糧を得るだけで精一杯だと言う者もいる。ただ、人間全てに共通する存在意義などあるように見えないのだ。
その時に気付いた。
意味などない、それを新たに書き連ねて行く事こそ人間たちの存在意義そのものだと言う事に。
それは、鬼神である小十郎も竜神も天神でさえも同じなのだ。
今1人エーテルを座像の中に眠らせ、陽の移ろいと共に木々がさやぐのを眺めたり、アルケーを森の中に遊ばせて動植物たちの微々とした変化に気付く度に、空虚だった己の中に少しずつ、少しずつ何かが積み重ねられて行くのを感じた。
月を担いで音もなく山の端を渡る時にそれは体の奥底で何かを呟くようになった。
月は相変わらず重い。いや、以前よりももっと重く感じられるようになった。しかしそれは苦痛と言うより、生命の重さを直接身体で感じるようなものであった。
―――何と言う重責を背負わされたのだろう。
その事に男は再び愕然となった。
微かな、それは本当に微かな熱いものを伴いながら。




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