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―記念文倉庫―

人の身を受肉した小十郎に空は飛べない。
かと言って、蔵王山にある"本体"を動かすのは天の刻に逆らう事になるので、さすがの鬼小十郎にも御し難かった。だから、風のように空中を飛ぶ子竜を追うには森の木々を伝って行くしかなかったが、彼には多くの手下どもがいた。
樹上を行く小十郎に従って、無事だった小鬼たちが地面を身軽に駆けて行くのを感覚の端で捉えた。それへ軽く手を振ってその目的地を指示する。俊敏に応じた小鬼たちが散り、主人の意図を汲んだのを見て取ると、男は樹上を移動しながらその背に負っていたものを抜き放った。
―――梵天、たぁ大それた名を与えられたもんだ。
"梵"とは"宇宙を支配する原理"の事だ。天神が元は梵天明神と呼ばれ、讃えられていたのは遥か昔の話だ。今、天神はこの大地の下でそれを支えて、那由他の未来まで瞑想に耽っていて、元いた天を今は竜神に引き渡している。そう、鬼小十郎にとって天にある竜神一族は頭の上がらない存在だった。
―――だが、俺も地上を預かる身だ。その秩序を乱されるのを黙って見過ごす訳にゃいかねえんだよ。
凄まじいスピードで追い縋る男の目が、子竜のシルエットを夜空に捉えた。
地下へ潜った天神の代わりに、今度は地下に棲んでいた鬼どもが地上に迎えられ、そこの監督を任されている。
何故―――と言う問いはこの際無意味だ。天神や竜神も、そして鬼である小十郎自身も与り知らぬ程昔から、このシフトは確実に行なわれていた、それだけだ。
今は、無秩序に空を駆る無謀な子竜を引き止めなければならない。
その大きな力を秘めた小さな竜が、2つの山の間に出来た谷間に差し掛かった。それの眼前へ、山腹から飛び出して来た豆粒が飛び掛かる。
小鬼どもはそうして飛び掛かりながら、全身から木の芽を生やし、瞬く間に寄り集まって空中に巨大な網を作り出した。
それへ突っ込み掛けた子竜が身を捩らせ避けようとする。
そこが狙い目だった。
小十郎は、足下の木の枝を一際大きく蹴りやって宙へと跳躍すると、手にした剣を大きく振り下ろした。

ザゥン、

放った衝撃波には雷光が絡まっていた。
それが眼にも止まらぬスピードで空を奔り、子竜をがっちり捉えたのを見る。
雷に打たれ力を失った梵天丸は、そのまま真っ直ぐ地上へと落下して行った。
落下した先を見届けるまでもない。
小鬼たちが作り出した木の芽の網が優しくそれを受け止め、無事に大地に下ろしている筈だ。
小十郎は木々の間の地面に降り立つと、そちらへと駆けた。

人界の夜の森は温かかった。
昼日中、天を駆る陽光の名残が大地に含まれ、それが森と言う温室を作り出していた。
夜陰に紛れる躑躅の香り、木蓮の囁き、シロツメクサの揺らぎ―――間もなく人里は稲穂の新芽で見渡す限り緑の絨毯を作り出すだろう。
地に落ちた竜は、小鬼たちの作り出した木の芽のベッドの上で苦しげに身をもがいていた。唯一竜神を斬る事の出来る剣だ。だが手加減はした筈だ。傍らまで歩み寄って来た男を、小生意気な竜の子供は片目で睨み上げて来た。
男の口から深い溜息が漏れる。
「人里はもう直ぐ側だ。案内ぐれえしてやれるが、先ずはそのエーテル(神体)からアルケー(物体)に形を変えろ。…でないと、見ろ…」
言葉を切って顔を上げた小十郎に従って、子竜も目だけを動かして辺りの山毛欅林の樹冠を見上げた。
そこでは風もないのに木の葉が騒めき、動く筈のないその幹がゆっくり、ゆっくりと右に左にと身体を揺らしている。まるで生き物のように。更には辺りに生えた雑草までもいたくさやいで、超高速カメラで捉えた映像のように次々と新芽を萌え立たせ、異常な増殖を始めている。
『…そなたは、いつもその姿で人界をあるきまわっているのか?』
酷い警戒心剥き出しの左目が、男の上に戻されてそう尋ねて来た。
「…たまに山を下りる時には、な…」
『蔵王山に封じられた、鬼…』
「………」
子竜の何気ない一言に、男の表情は微動だにしなかった。
それを数呼吸見つめて、竜の子供はその短いむっちりとした前脚と後ろ脚を突っ張らせた。
木の芽のベッドが、それ自体が生き物のように騒めく。
周囲を取り囲んでいる小鬼たちが、黒い顔面の中でギョロ目を更に大きく見開き、更に身を乗り出してそれを凝視した。
男は表情のない瞳で、仄白く輝く竜のエーテルを見つめている。
七色の鱗も、黒い鬣も、蒼い瑞雲も、柔らかな光の中に消えて行って、代わりにシルエットを見せたのは、綺羅びやかな直垂をしっかり身に纏った如何にも身分ありげな少年だった。
年の頃は6つ、7つ、と言った所か。竜の姿の時の鬣が緑の黒髪となって、上品な蒼の組紐で高い位置に括られている。苦労と言う苦労をした事のなさそうな肌理の細かい白い頬に、花弁のような唇。
そこまではまあ、良い。光輝に満ちた竜族の王、輝宗の跡取り息子としての形は想像通りだったと言っても過言ではない。だが、その右目は。
目の周囲を青黒く腫れた痘痕が覆い、瞼そのものは中の眼球が押し上げているかのように膨れ上がっている。
そうか、と男は気付いた。
竜の姿であった時にこの子竜は、意図的にその顔面の左側しか男に見せていなかった。その理由がこれか。
無遠慮にその様を眺めていたら、少年は右目を隠しつつ顔を反らした。
神の姿に病の痕や怪我が残るなど。いや、神でなくとも他の者と"違う"と言うのは、良くも悪くも注目を浴び、要らぬ雑言に惑わされやすいものだ。
木の芽のベッドの上に突っ立つ少年を、好奇心一杯に取り囲む己が手下どもに、男は無言のまま目線で命令を下した。数匹の小鬼が立ち木の向こうに消え、暫く待って戻って来た時には百姓童が纏っていそうな粗末な四方袴の誂えと草履、藁紐などを携えていた。
「梵にそのようなものを着ろというのか?すえたイヤなにおいがするぞ」
そうやって喚く子供に問答無用に群がる小鬼たち。
まるでちょっとした喧嘩の様相だが、エーテルからアルケーに受肉した子供はやはりただの子供だった。小鬼たちに木の芽のベッドに引き倒されて、無理やり着替えさせられた。
その途中から、子供独特の笑い声を立てるようになったのは、悪戯好きの小鬼が梵天丸の脇をくすぐったり、道化のようにおどけて見せたからだ。
着替えが終わった頃にはすっかり息が上がり、笑い疲れてぐったりした様子だった。
最後に残ったサラシは、小鬼から小十郎に渡された。
それを持って跪いた眼前で、両脚を行儀悪く投げ出してひいひい笑いを堪えていた少年がふと、その笑顔を引っ込めた。見開かれた唯一の左目だけで睨みつけてくる。
男はサラシを手に、それを平然と受け止めた。
「下界見物がしてえってんなら付き合ってやる。今夜は新月だからな。その後、きっちり事情は聞かせてもらうぞ。輝宗様は天神の所へ行くと仰っていた。だが、夜が明ければ戻って来る筈だ。その時にはお前もちゃんと竜神たちの元へ帰す」
「……父上は帰って来ない」
「何だと?」
「………」
子供は再び黙りを決め込んでしまった。
「―――…」
男もそれ以上の無駄な質問を止め、手にしたサラシを子供の右目が隠れるように巻き付けてやった。梵天丸はそれを大人しく受け入れた。唯一の左目の瞼を閉ざして、頭の後ろでサラシが括られるのに身を任せている。
そのまろい瞼。長い睫毛、淡い血の色に色付いた滑らかな頬。
神のそれは元の姿がグロテスクな割りに、竜の手にした宝珠の如く美しい。まるでリアリティを感じない作り物の人形のような美しさだ。
男はそうしたものと無縁の世界で幾年月、数え続けるのも忘れるぐらい過ごして来たものだから物珍しい気持ちでそれを見ていた。

梵天丸、と名乗った子供と連れ立って、寝静まった里に降りて行った。
里の者が起き出す刻にはまだ間がある。当然人の営みは見られず、山の縁に身を寄せ合う百姓屋は沈黙の中で山の一部と化していた。
「祭りや市とやらはたってないのか」
「花見や紅葉狩りをする人間はいないのか」
「神酒を作る倉や、織機を操るおとめは見られないのか」
傍らを小走りに付いて歩く子竜がひっきりなしに喚く。
最初の頃こそいちいち返事を返していたが、途中からうんざりして来た男は返す言葉もなくしていた。
果てには、
「そなた歩くのがはやすぎる!みこしはないのか!」
などと詰られるに至って、このクソ生意気な子竜をそこらの壕に埋めてしまおうか、などと思ったりもした。
「…神が隠れてなくてどうすんだ手前…」
代わりに恫喝するように唸り返してやれば、少年は小さな唇を尖らせて膝小僧剥き出しの自分の足下に視線を落とした。
「だって…」と小声で呟き、続いて聞き取れないような声を漏らすが、どれも文句ばかりのようだ。
小十郎は盛大な溜め息を吐き、竜の子のその細っこい胴体に腕を回して持ち上げてやった。
荷物のように小脇に抱え上げられた方は、突然の事に動転したように言葉にならない悲鳴を上げた。更には手足をばたつかせて男の脇腹をこれでもかと叩き付けて来る。これでは己が人攫いのようではないか―――と男の倦怠もここに極まれり、だった。
更に文句を言い返してやろうかと息を吸い込んだ所で、小十郎は足を止めた。

夜明けが近い。

それはわかる。天に浮かんだ二十四宿の内6つの星宿がすっかり西へ移動して、そろそろ上る太陽に空を明け渡そうとしていた。田植えを終えた畑と畦と路端の雑木林の辺りを、そろそろ気の早い一番鳥がちろちろと鳴き交わしながら飛び立ち始めてもいる。
なのに、様子が変だった。
男の足下に小鬼が駆け寄って来た。
『人間たちが起き始めましたぜ、小十郎様』
「わかってる…」
素早く里を離れるべきだった。
だが、
「陽が昇って来ねえ…」
その一言に不吉の兆し全てが象徴されていたかのように、闇の中、ざっと風が吹き渡った。
生温い湿った風だ。雨の気配を濃厚に漂わせている。
見上げれば案の定、先程まで薄い絹糸のような雲片のみを纏い付かせていただけの夜空が、あっという間に分厚い暗雲に覆われてしまっていた。
風が吹き荒れ始めた。
陽は未だ昇らない。
薮を挟んだ向こうの百姓屋の中から、不安げな顔を覗かせる女の姿が見えた。代わりに、一番鳥がその姿を消していた。
闇に、白い雫がポツリポツリと散り始めた。
小十郎は自分の右腕の中に大人しくぶら下がっている小さな子供を顧みた。
先ほどこの少年は「父上は帰って来ない」と言った。
我が子を蔵王山の麓にポンと置いて行った時、あのいい加減な竜神は何と言ったか―――ちょっと天神の所へ行って来るから息子の世話を頼んだ。
そんな事があり得るのか?

陽は、昇らない。




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