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―記念文倉庫―

『月鬼と日竜と地底の天神』

世界は箱庭だった。
円形の大地の上に、鬼どもの棲む蔵王山が天の雲を突く程に聳え立ち、大地の周囲を竜神一族が十重二十重(とえはたえ)に取り囲む雲海が広がり、そして大地は天神がその頭上で支えていると言う。
世界は箱庭だったが、そこに雑多な感情と人の営みがあった。


それは、月のない夜だった。
空には二十四宿の内6つの星宿が浮かび、その間を金糸銀糸の雲片が音もなく流れ行く。そして、空をほぼ二分するように屹立する蔵王山は、太い筆を束ねて大地に突き立てたような威容を誇り、沈黙の闇の中に沈んでいた。
大地の端々に住む人々の夜の灯火は、それに比べて如何にもか細い。吹けば飛ぶような、と言うが、乙女の溜め息にすら吹き消されそうな程、頼りなかった。
だからか、その時突如光り輝いたものは暴力的なまでに荒々しく世界を照らし出した。
その光輝を受け取ったのは蔵王山の麓、人間がそこに迷い込んだ後行きて帰った者など皆無と語り種される、鬼の住処がある辺りだ。
光輝は一瞬の走る稲妻の如しだった。それが消え去った後に残されたのは、質量さえ感じさせる金糸の雲片が漂う様だ。
原始の森の隆起する土の隙間や、のたうち回る木の根の下から、何だ何だと顔を出した小鬼どもが金色の雲を見上げた。
"これ"が夜に見られる事など未だかつてなかったのに。
そして、その金雲が一条の光を差し伸べて照らすヒメザサの上には、何やらもそもそと蠢く小さな生き物が。
小鬼どもはそれへ恐る恐ると言った風に歩み寄って行った。
そこへ降る、地を揺るがすような轟音が言った。
『私はちょっと天神の所へ行って来るから、息子の世話を頼んだ』
雷鳴よりも凄まじい音で、至極いい加減な内容の言葉を告げる金雲の中の"なにもの"か。
"それ"は、小鬼たちが堪らず両手で耳を塞いで脳味噌を掻き乱す大音声をやり過ごす傍らで、シャラシャラと金糸を渦巻かせつつ飛び去ってしまった。
小鬼たちはぽおっとしながら空を見上げるしかない。
だが、そこには既に金糸一本の名残も残されてはいなかった。

小鬼は人間で言う所の10歳前後の子供くらいの大きさで、それが取り囲んだ小さな生き物は、よたよた地を這う大蜥蜴程のものだった。
いや、それは蜥蜴などではない。
夜の闇の中では分かりずらいが、七色に輝く鱗を持ち、黒い鬣を棚引かせ、小さいながらも瑞雲の蒼を纏い付かせた―――竜神だった。
小鬼たちの内それの見張りに残ったものを除いて、数匹がましらのような身軽さで原生林の奥へと駆け出して行った。
森は、巨大な山毛欅の林を筆頭に、大杉や山桜、楓や椿などの樹木が乱立し、人の手が入る事を頑なに拒んでいた。そこを、闇をものともしないスピードで駆け抜けた小鬼たちが、道なき急斜面を登り切った所に"それ"はあった。
苔むす岩肌が突如、巨大な壁となって聳え立つ。
直立するそこは、蔵王山の筆を束ねたような山容の根本となる所だ。そんな急斜面にうねくる幹を這わせ、しがみつくハイマツや苔を振り払って、剥き出しにされた岩盤の表面を削りに削って掘り起こされた、桁違いのサイズの座像があった。
人間たちに鬼小十郎、と呼ばれ畏れられる、この森と山の主だった。
『…あンの金ピカ野郎…』と、何処からともなく低く唸る獣のような声が漂う。
『夜中に現れたってだけで掟破りのクセに、この上息子を捨てて行きやがったのか…?』
小鬼たちが見上げる鬼の座像は当然ぴくりとも動かない。だが、何処かで何かが身じろぎするような気配が起こって、それに招き寄せられるように周囲の木々が風に揺すられ、いたくさやいだ。
木の葉が舞い散り舞い上がり、それが鋭いナイフのように視界を塞ぐものだから、小鬼たちは三本指の掌で己が両目を思わず覆った。
風が止み、静けさが立ち戻ってその手をそろそろ下げると、座像の前に1人の偉丈夫が立っていた。
座像は、半跏思惟の姿勢で物憂げ顔を伏せ、首を傾げている。額に2本の立派な角を生やし、厳つい表情は密かな哲学を思い浮かべていると言うより苦悩のそれで、わざわざ頬傷まで再現されてある。そして、その直前に立つ男は、小気味良いぐらいにしゃんとした姿勢に獰猛な気配を秘めて佇みながら、その面影は座像と瓜二つだった。
『…捨ててく…って言うより、面倒ゴト押し付けて行きやがったんでさあ…』
主の強面をおどおどと見上げながら小鬼が言い差すのに、一見普通の人間であるかのような男は、射殺すような眼差しを投げやった。
それに貫かれた小鬼はぎゅっと口を噤む。
自分の手下に八つ当たりしても仕方ない、とでも思ったか、男は小さな溜め息1つ吐くと、小鬼たちが掻き分けて来た薮の中へとざっと踏み込んで行った。

1つ2つ尾根を越えて下って行った所で、そこでは深夜の森の中だと言うのに大変な騒ぎになっていた。
七色の鱗を仄かに蒼白く輝かせて、少し浮かんでぐるぐる飛び回る小さな竜を、数匹の小鬼があれやこれや捕まえようと追い掛け回しているのだ。そのむちっとした手足にぶら下がったり、透けて見える尾ひれに掴まって反対に振り回されたり。果ては、その背に乗り上がった数匹の小鬼が団子状に固まって、その重さで潰してやろうとしたり―――。
「静まれ!!!!」
男の怒声一喝にぴたり、と子供たちの動きが止まった。
憤然とした表情も露わに、のしのしと下生えを掻き分け歩み寄って来るその姿は、粗末な山男のなりではあったが、背後にめらりと燃え上がる蒼白い炎が見えるようでもあった。
実際、呆然とつぶらな瞳を片方覗かせる小さな竜の子には、人間のような肉体に納まり切れていない超自然的なものの気配が確かに見えていた筈だ。男の怒気に当てられて動けなくなっているのが、その証拠だった。
「…お前は…輝宗様の息子、だな?」
男は、自分の胸辺りに浮かんでいた子竜の左側の角を掴みながらそう尋ねた。先ほど放った怒声と打って変わって静かな、湖沼の面のような静かな声だったが、小さな竜はふるり、と鱗に覆われた身体を震わせた。
己の角を他人に触れさせた事などなかったが、その感触によって相手が"格上"である事を悟ったかのように。
『梵天丸だ…』
長い髭を揺らしつつ、子竜はそう答えた。
その左目を覗き込んでいた男の両目が細まる。
「…俺は昔からこの辺で鬼小十郎って呼ばれてるもんだ…。で、手前の親父は一体何だってお前をここに置いてった?」
『―――…』
直ぐには返事はなかった。
言えない事情があるのか、と思いかけた時男は、右手の中の子竜の角が僅かに震えているのに気付いた。
「………」何かを言い掛け口を開く。
『父上は梵がいらなくなったのだ!』
男の発言を遮って半ば叫びのように言い放たれた子竜の台詞に、小十郎は言葉を呑み込んだ。
更に問い質そうとする前に、ざっと子竜は体をうねらせて男の手を振り払った。男の目の前を、その太腿くらいの太さの蛇体がしなやかに翻る。
それは滑らかに波打ち、林立する立ち木の間を器用に縫って山下目掛けて飛び退ってしまった。
小十郎は口中に舌打ちを一つ打ってその後を追った。
「お前ら先回りして森の出口を塞げ。あの勢いじゃ人里に飛び出しかねねえ」
『へい、承知いたしやした!小十郎様!!』
その場に集まっていた小鬼たちが一斉に頭を下げ(その頭には1本2本3本と様々な形の小さな角が生えている)、脱兎の如く飛び跳ねつつ去って行った。
それを横目で確認した男も、軽く地を蹴り直立する杉のごく細い枝の1つにその身を乗せた。
枝は音1つ立てず、男の体重を受けて撓りもしない。
それを蹴り、次の枝へと移る。
次から次へ。
竜の気配は探らずとも手に取るように分かった。
小十郎の眼には、山場や崖、密集した原生林に右往左往しつつも山を下って行くその神気が"見えて"いる。
―――ちっこいなりに、さすが竜神って事か。

その子竜が四半刻程で早くも森の切れ目に差し掛かった時、見えない壁に突き当たって弾かれた。
訳の分からない小さな竜は、見えない壁に添って上下に左右に動き回っては、壁を突き破ろうと試みた。だが一分の隙も穴もなく、まるで透明なガラスに森全体が覆われでもしたかのように、何処まで行ってもそれは途切れる事はなかった。
それが、神聖な森の出口各所に陣取って、道端の道祖神のように石化した小鬼らが作り出した結界だと知るのは、暫く後の事だ。
この人界の最中にある神域から抜け出して何処に行こうとしていたのか知らないが、杉林の上を意気消沈して漂う小さな竜は、ふと背後を振り向いた。
そこには、小鳥の一羽が羽根を休めただけでも折れてしまいそうな杉の木の頂上に、すらりと立って己を眺めやる1人の男の姿があった。
「…人里にその姿で降りて行けばどうなるか、分からない程お前は世間知らずか?」
神々が箱庭の秩序を司り、神と人と獣とが共に生きる世界だと言っても、その姿を人間が目の当たりにする事は滅多にない。禍と福とをその気紛れに齎す神の姿と存在は、文字通り人間にとって畏怖の対象以外の何ものでもなかった。
小さいながらもそれは分かっていたらしく、梵天丸と名乗った子竜はしゅん、と項垂れたまま二言とない。
「先ずは戻って話を聞かせろ。お前の親父はお前を捨てたとは一言も言い残しちゃいねえ」
『………』
「事の次第を説明する事も出来ねえのか?」
尚も問い詰める男を、項垂れていた子竜の左目が顧みた。そこには、何処かしら底冷えのする蒼白い光を讃え、男の質問を頑迷に跳ね退けようとする強い意志が垣間見られた。
男は何気なく片眉を上げて、その麗しい光彩に縁取られ縦に走る瞳孔を見つめるだけだ。
頑なに己の殻に閉じ篭ったままの子竜に、やがて溜め息を吐いたのはやはり男の方だった。
質問の方向を変えてみた。
「人里に興味があるのか?」
それには、子竜はのろのろと背後の夜の闇に沈む蔵王山の麓を振り向いた。深く幽けき森と山々は未だ延々と続くが、結界で塞がれたこことそちらとでは明らかに空気が違っていた。
"こちら"は侵すべからざる峻厳さが沈黙の闇と同居しており、"あちら"は生きとし生けるもの全ての生命の残酷が、奔放が、哀しみがあった。そしてそこに遠慮の二文字はない。
それから不意と目を反らした子竜がギロリ、と男を睨んだ。
『その方、梵を人界にあないいたせ』
「………は?」
『そなたはずっとここで暮らしていて詳しいのだろう。そのくらい"あさめし"前よな?』
「おいおいおい……」
本気で呆れ返り、額に手を当てる小十郎を尻目に、子竜は再び目に見えない壁にその体を張り付かせ、両手両足を這わせた。
何事か、と見守る男の目の前で竜の蛇体が蒼白く輝いた。
言葉もなく瞠目する蔵王山の主は、口をあんぐり開けたまま固まった。声を発するよりも早く、バリバリバリ、と子竜の身体を雷電が押し包んだ、次の瞬間、

ドォン…

大地を揺るがす咆哮が上がり、視界が眩い閃光で覆われる。
刹那、目を離した隙に結界は破られ、子竜の姿は"外"へ飛び出していた。
男は森の各所で己が手下どもの石像が破壊されたのを感じ取ると同時に、飛び退る蛇影を反射的に追って杉の梢を蹴った。
―――くっそ、小せえとは言え相手は竜、侮るな…。
そうした自責の嘯きを心中吐き捨てつつ。




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