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―記念文倉庫―
13
ポタ、タ、
と温かい雫が小十郎の頬に、瞼の上に柔らかく降り注いだ。
そして青年は言う。
「…な、小十郎、俺あんたから聞いてない」
「……何を?」
「愛してるって」
「―――…」
「言えよ」
男が唇を開き、息を吸い込んだのを見て取って、政宗はそれを己の唇で覆った。
「言って―――嘘でもいいから…」
だが彼は、それをただ黙って受けるだけで言葉はなく。
「言えってば…っ」
強請りながらその応えは聞きたくない、と言うように、嗚咽を殺しながら繰り返される口付け。

別れる為に、ただそれだけの為に、男の胸に身を投げやって来た政宗を、小十郎はそれまでにない穏やかさで抱いた。
舞台を降りた役者たちが、そのカーテンの裾の影で抱擁し合うように静かに、ひっそりと。
そしてカーテンは閉ざされる。

波打つそこに描かれた夜景。

真っ赤に頬を染めて乱れた息を繰り返し、汗と精液とでその白い肌をてらてらと光らせる青年を自分の下に組み敷きながら、小十郎は言った。
「月が奇麗だ…」
唐突とさえ言えるその台詞の意味を掴みかねて、政宗は額に貼り付く前髪を掻き上げようとして―――手を止めた。
そして顧みた先で、男は早くも差し込み始めた暁光の蒼白い光の中、穏やかな眼差しを落として来る。その瞳の奥に懊悩と愛しさを隠しつつ。
それを見つめて政宗の唯一の左目が揺れながら見開かれる。
まさか、と思った。
「…いや…、嘘だ……」と思わず口を突いて出た。
けれど男は、微かに頷いた。
「月が、とても奇麗だった…お前と見る月は」
政宗は何か言い返そうとその唇を二度三度震わせた。
「こんな風になるとは思わなかった。夢みたいだ…けれど、これも罰かな…」
密かに囁きで告げる男は、く、と唇を噛んで両目を閉じた。月が奇麗だと、そう感嘆の言葉を漏らすのとは逆に苦しげに。
政宗は、歯を食い縛って震える彼の頬、その傷に指先を添えた。
そして言う。
「夢なら…夢なら醒めないで欲しい…」
そうして、涙に溺れながら交わされる口付け。
降りしきり、流れ落ちるシャワーよりも穏やかに、途切れる事なく。


雨の六本木を邪魔臭い傘を差しつつ渡り歩いて、人の多さに辟易しつつ高層ビル内にあるカフェテラスに入った。
前回と同じく連れがいる事を店員に継げ、例の典雅なシルエットを見せる女の姿を探した。なかなか見つからないと思ったら、内庭に向かって開かれたオープンテラスの座席にその横顔を見つけた。だが、4人掛けのそのテーブルには彼女1人だけではなく、何処かで見た面影を持った壮年の紳士の姿もあった。
思わず、それをそうと認めた時点で踵を返そうとしてしまった。
それよりも早く小十郎の視線に気付いたらしい女が振り向いて、何気ない眼差しを投げやって来た。それは、相席している人物と小十郎の上とを一往復した後、男の元に戻って来て静かに細められた。
仕方なく、濡れた傘を畳みながら店内を歩き、表のテラス席へ出た。
頭上に張り出したテント製の庇の上に打ち付ける雨音が、砂嵐のように聴覚を満たした。
雑賀さやかと同席していたのは、十数年振りに相見える伊達輝宗だった。
彼が見返して来るのを小十郎も立ったまま見つめた。
十数年、いや正確には18年前の会社自主廃業の折りに対面したきりの男は、明らかにそれだけの歳月を感じさせるものをその身に降り積もらせていた。
あの頃は未だ20代前半で、若々しく野心溢れる青年だった。漆黒の黒髪を何時もきっちり纏めて、日本の老舗のスーツをこよなく愛し、一分の隙もなく着こなしていた。その黒革の靴が埃に塗れる事もなく、移動には運転手付きの黒塗りの車を使用していた。
溢れる自信と未来への期待に満ちていて、己が繁栄の行く末を信じて疑わなかった。
「…座りたまえ、小十郎くん」とその紳士が煙草で割れたらしい低い声で言った。
「もう子供ではないので名前では呼ばないで頂きたい」
男が可愛げもなくそう言い返しつつ空いていた席の1つに腰を下ろすと、さやかが店員を呼んでエスプレッソ・ダブルを頼んだ。
その店員が立ち去って注文の品を持って来るまで、彼ら3人は無言。その代わりに一枚の背景画像のように雨音と眼下を通り過ぎ行く車の音が、彼らの隙間を埋めた。
隔てられた18年の歳月は、埋められるだろうか。
「私が知っている事を輝宗氏に全て話した。代わりに18年前、実際に何があったのかも聞いた。今度はあなたの話が聞きたい」
そのノイズに被せるように、女は静かに言った。
カップを取り上げた小十郎は、それを口に付ける前にさやかを顧みて小首を傾げる。
「あんたが知ってる事…?」
さやかは皮肉に口の端を歪めて、バラ色のルージュを引いた唇をわざと、"女らしく"動かした。
「私はあなたと接触して政宗の事を教えたけど、もともと政宗に協力して今回あなたをターゲットとしたコン・ゲームを企画したのも私。そう言う事よ」
「さやか……手前…」と男は眉を怒らせた。
「政宗に内緒で佐助を動かしたのも手前の差し金か?」
いきり立つ小十郎を顧みた女は澄ませた顔を瞬時に厳しいものに変えて、突然、その襟首を掴んで引き寄せた。
間近で男の瞳を覗き込む麗しい鼻筋に深い皺が刻まれていた。そのまま、歯を剥き出して咬み付きそうな勢いだったのが、ふと、その手を離す。
胸中に秘めた憤りの全てを納めて、さやかは、化けの皮を剥がした女は席に座り直した。
そして、言う。
「お前たちの関係を破壊する必要があったのだ」
「―――」
悪びれもせず言い放つ女を前に、さしもの小十郎も言葉を失った。
そんな男の顔を冷淡に眺めやったさやかは、しかし、軽い溜め息を吐いた。
「それにしても…売り言葉に買い言葉でポーカーゲームの賭け金に"会社"を賭けるとは…呆れてものも言えんな、輝宗氏……」
この彼女の痛恨の一言には、いい年をした輝宗が項垂れるばかりだ。言い訳の1つも思い浮かばない。
代わりに男が1つ種明かしをしてくれた。
「……形だけと言う話で手形や証書を出させたんだ。後はゲームに熱くなるよう飲み物に薬を入れた」
「薬だと…?」と今度は輝宗が色めき立った。
「俺が用意した酒ですよ。カードを切りながら次々と空けてくれましたよね?前後不覚になったあなたから手形を奪うのは簡単でした」
目も合わせずしれとしてそう言い放つ小十郎を、口を開けたまま睨みつけていた輝宗がやがて意気消沈したように肩を落とし、眼を反らした。
「……まあそれで、姿を消したお前に罪をなすり付けて事実に蓋をした、そんな輝宗氏の行動にも納得行ったがな。…今はこうして自分の所行を悔いて、全てを吐露してくれた」
「…仕方ないだろう…。その為に政宗が復讐などと…その上、片倉くん、君と」
言葉は最後まで吐き出されなかった。ギリ、と奥歯を噛みしめ、テーブルの下で両の拳を握り締める。
さやかから聞いた小十郎との付き合いや同棲などの話には、怒りで血圧が上がって目眩がしそうだった。昔の栄華を一晩で失い苦節18年、成人した一人息子の政宗だけが唯一未来への希望だった。それを、目の前の男は土足で踏みにじった。
けれどそれは、己の失態が発端だったのだ。
「―――」
そうして、歯噛みする元紳士を、小十郎は横目で流し見た。
「…とても愛らしかったですよ、政宗は。そっち系の野郎どもが放っとかないんじゃないですかね」
「何だと…っ、貴様!」
思わず椅子を蹴倒して掴み掛かりそうになった輝宗を、さやかが素早く押し止めた。溢れかかった輝宗のブレンドコーヒーが、徐々に落ち着いて行く。
さやかの冷静な眼差しに無言で嗜められて、輝宗も渋々席に落ち着いた。
「ふん…そう言うお前が第一に魅せられた口ではないのか?」
このさやかの挑発に、男は首を傾げつつ見返した。そして呆れたように言い返す。
「さやか…お前も女子大生みたいな事言うな…」と。
「何だと?」
「どうせ竹中に匂わせた同性愛者云々を信じたんだろう?俺はそんなもんには興味ねえ」
「………」
「そりゃ、ちっとは"勉強"したがな、それらしく見せる為に」
嘘を吐くな、とは言い切れなかった。この男は己の本心をずっと隠して生きて来た。
嘘偽りで自身の身の回りを固め、本心で、心から、何かを求めた事がなかった。偽りの笑顔、偽りの親切心、誰にでも優しくて、誠実で勤勉で真面目で無欲に見せかけて。
何処にも本心はなかった。
「そもそも…」とさやかは話題と己の頭を切り替えつつ、言った。
「片倉、お前は何故、薬まで使って輝宗氏を嵌めた?ゲームの貸しがあるとも言っていたな。伊達証券を潰した上で最後の賭け金を頂いてないとは、どう言う事だ」
「…………」
小十郎は聞こえない振りでエスプレッソを啜った。
「おい、片倉…」
「悪いが、それを話すつもりはねえ」
きっぱりと言い放ってやれば、さすがのさやかも憤然とした溜め息を吐く。
「話がそれだけだったら俺は帰る。…さやか、俺を騙した手口に免じてあんたに貰った前金は後で返しておく。全く、女ってのは怖えな…」
そうして、傘を持ってさっさと立ち去って行く男を引き止める事は、残された2人に出来る筈がなかった。

男の背を見送った後、さやかは自分のコーヒーカップを取り上げて、雨滴に煙る街並を顧みた。1人惨めな想いを噛みしめる萎れた壮年男など眼中にないように。
そして、彼女は独り言のように呟く。
「あの男が最終的に真実、欲していたのは政宗本人だと思ったのだが…」
冷めたコーヒーは味気ない。それを一口二口啜って更に言葉を零した。
「奴の考えは迂遠過ぎて分からん」
やがて、息を吐きつつ強張っていた肩から息を抜いた輝宗が、さやかと同じようにして雨の幕の向こうを透かし見た。灰色のビル、極彩色のパラソルの群れ、白茶けた空。
「一度、片倉くんと口論になった事がある…」
「口論?」
遠い記憶を探って目を細める壮年男の横顔を、さやかは振り向いた。
「生まれて間もない政宗を私立の有名保育園に入れて家庭教師を付け、勉強の為の玩具を買い与えてばかりいた私を見て、"ご子息の未来はご子息自身が決めるべきだ。あなたの都合の良い跡継ぎの型に嵌めるべきではない"…とな」
言い終えた男の口元には自嘲の笑み。
その時、たかだか13歳程の少年に諌められた己が頭に血が上り、酷く取り乱し激昂した事を恥ずかしさと共に思い出していた。
代々続いた伊達証券は親族経営の典型だった。東北をソースとした地方企業のカラーとしては何処も似たり寄ったりだと言って良い。優れた跡継ぎを仕立て上げる為、輝宗が政宗に英才教育を2、3歳の頃から始めた事も周囲は当然のように受け止めていた。
そんな中でただ一人、片倉小十郎だけが異を唱えた。
偉そうに、社長の座を狙っているのか。12、3歳の子供がちょっと神童などともてはやされたからと言って差し出た口を挟むな。そのように輝宗は応酬した覚えがある。諍いはそのただ一度きりだったと思う。その時に振り回したペーパーナイフが少年の頬を抉って、沸騰した頭が冷めた。
それ以後、小十郎は輝宗の教育方針に口出ししなかったものだから、納得したのかと思っていた。だが、少年は大人の横暴にそれ相応の鉄槌を下したのだ。
それは数多くの人間の人生を巻き込んで想像を絶するものになったが。
「…政宗を私の、会社の束縛から切り離したかったのかも知れん……」
多分、小十郎は赤ん坊の政宗に己の姿を見たのだろう、とさやかは思った。
片倉姓の実の父を早くに失ってから、輝宗の右腕と名高かった茂庭良直に引き取られ、何くれとなくその才能を伸ばそうとして教育された。茂庭が亡くなった後に引き取られた先では、やはり輝宗に賢しいその知能を期待され、ゆくゆくは伊達を支える一柱となるよう求められた。
子供に親は選べない。
その憤りと、今正に自分と同じ運命を辿ろうとしている幼い政宗が重なった。
「―――それで…」とさやかは溜め息と共に囁いた。
「復讐しにやって来た青年に惚れてしまうとは、ミイラ取りもここに極まれり、だ…」
「し、しかし彼は同性愛者ではないと…」
「どっちだって良い。もしそうでなくたって、あの政宗が恋に落ちる程あの男は政宗を"愛した"んだ」
「―――」
輝宗に返す言葉はない。
小十郎と自分の息子が本来、相思相愛だったとしても「はいそうですか」とあっさり認められないのが父親と言うものだ。
だが、

バン!

とテーブルが鳴り響いて、くたびれた男は目の前の女傑をビックリ眼で顧みた。
「ああ…面倒だな…」そう凶悪に呟いて、鋭利な眼差しで貫くように輝宗を見やる。
「何故、あの2人が踏み出せないか…分かってるだろう、輝宗氏?」
「…………」
「"あれ"でも、あなたに気兼ねしてるんだ、あの男は…」
「―――後悔、していると?」
「当たり前だ。会社なんかなくなれば良い、とは子供らしい発想だが、それを実際にやって退けた後にどんな波紋を周囲に広げたのか目の当たりにして、後悔しない筈がない。政宗も、両親の苦労を見て育って来た上で、その破滅を齎した男の所へ行ける筈がない…。そう言う事だ」
言うだけ言って、女はさっさと立ち上がり、伝票を持って立ち去ってしまった。
1人取り残された輝宗を、引っ切りなしの雨音が押し包んだ。
未だ四十路半ば、老け込むには早い筈が、壮年の男は若い頃の傲慢を悔い、降りしきる雨をその年月以上の重さとして肩に受け止めた。


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