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―記念文倉庫―
12
朝一の電車に乗って幾つかの駅を通り過ぎ、小十郎が自宅マンションに帰宅した時、思った通りそこには"政樹"の姿はなかった。
その代わり、小十郎の図書館で借り出して来た福沢諭吉の稀覯本全集が数冊、ベッドの上に置きっ放しになっていて、その内の1冊はファイルを挟んだ形で広げられたままだ。
勉強をしながら男の帰りを待っていた青年が、じっとしていられなくなって大学を訪れた。その昨晩の様子が手に取るように分かった。
戸惑いに視線が揺れる。
予想通りとは言え、彼に与えた部屋が自分が今朝出て来た時のまま放ったらかしにされている様に、未だそれを受け入れられていない自分を自覚したようだ。
静けさがやけに耳についた。
この時間なら既に起き出して、男の弁当を作る為に彼が台所に立っている気配はなく、毎朝入れてくれるコーヒーメーカーも沈黙を守り続けていた。
彼に買い与えたロードバイクが一台なくなっているのに気付いたが、それはここには戻って来ないだろう、と当然のように考えた。
男が行動を起こしたのは、当面の問題を片付ける目的の為だ。
感傷に浸る間もなくシャワーを浴び、髭を当たって、冷蔵庫の中に残っていたもので適当に朝食を作り、それを食べながら朝刊に目を通した。
徹夜で作業をした為に少々熱っぽい頭をふらつかせながら、7時には何時も通りマンションを出た。
呆気なく戻って来た"彼のいない日々"。
特に大した事ではない。そんな時の方が男の人生の大半を占めていたのだから。

赤と黒のとんがったデザインが特徴的なジョルジオ・アルマーニのスーツを着込んで、孫一が六本木のオフィスにふらりと立ち寄ったのは昼過ぎの事だ。
生暖かく湿った強風に煽られた髪を撫で付け撫で付けエレベータを下りると、廊下の突き当たり、オフィス入り口の扉の前に座り込む政宗の姿を見つけた。
今の時間なら大学ではないかと思い、彼に近付きながらショルダーバッグの中の携帯を確認するが、取り立てて彼から連絡があった形跡はない。
目の前で立ち止まっても政宗は顔を上げなかった。
訝しく思ってしゃがみ込み、その横顔を覗き込んでみたら、青年は静かな寝息を立てて居眠りをしていた。
「おい、こんな所で何をしている、政宗」
その肩を揺さぶりつつ、そう声を掛ければ、ようやく目を覚ました青年がのろのろと顔を上げた。その、荒み切った顔貌。そして寝起き以外の理由で真っ赤に腫れた左の唯一の眼差し。
原因をおおよそ察して、ほつれた黒髪に手を乗せてくしゃくしゃと掻き混ぜてやった。
「とにかく中入れ。顔を洗わないとな、酷い有様だぞ」
そう言って腕を取り、立ち上がる幼馴染みに引かれて政宗も鼻をすすりつつ立った。

白いオフィスの素っ気ない白い壁に、昼間だと言うのに黄昏のような光が窓から差し込んでいた。
強風は雨雲を呼び、初夏の温かい雨を招いたようだ。外の薄暗さとは打って変わって、明るい応接室にはダージリンの高貴な香りが満ちて、そこだけは親密な空気が流れる。
孫一はスーツのジャケットを脱いで、糊の効いた白シャツだけでソファに腰を下ろし、ティーカップを眺め続ける5つ年下の幼馴染みを見つめた。紅茶の他に、即席で作ったサンドイッチも白い皿に慎ましげに用意されていたが、政宗は手を付けようとはしなかった。
「…何があった」と孫一はコーヒーに満たされたカップを取り上げながら尋ねた。
それに対して青年は、言葉を失ったように力なく首を二度三度降る。溢れる言葉のどれを口にしていいのか分からない、と言った有様だ。
そうしてやがて、力なく言った。
「…あいつの大学に佐助が…来てた…」
「佐助?」
「なあ孫一、これもコン・ゲームの1つなんだろ?俺に内緒でお前とあいつが何か仕掛けただけなんだろ?」
「いや…知らんな。佐助は何だってターゲットに近付いたんだ?」
疑問を呈して片眉を上げる幼馴染みを見やっていた政宗が、ソファーの背凭れに上身を投げ打ちながら深々と溜め息を吐いた。
昨夜から一体何度目の溜め息だろう。この胸に澱のように降り積もるものはそんな事じゃ一向に軽くなりなどしないのに。
「あいつの腕に縋って…泣いてるみたいだった…。あいつも、佐助の言葉に耳を傾けてるみたいで、振り払おうともしてなかった…」
「…何だ、ミイラ取りがミイラになったのか?佐助の奴…」
「………」
もう1つ、溜め息。
応接室の窓を、降り出した雨滴がポツリポツリと叩いた。
「―――全く…計画が台無しではないか」
そう言ってコーヒーを一口二口啜った孫一の手が止まった。
背凭れに身を預けた政宗が顔を仰退けた拍子に、その左頬を涙が切ったのが見えたからだ。
「政宗…」
それ以上の呼び掛けを拒否するように、青年は両手で顔を覆った。涙を拭うのに邪魔な医療用眼帯を放り捨て、次から次へと溢れ出て来るそれを、何度も袖で拭き取る。だが、それは止め処もなく流れて来た。
「…………」
密かな泣き声と、ビル街を洗う雨音とが一室を満たした。
その様子を眺め続けていた孫一がカップをテーブルに戻した。
「コン・ゲームは終わりだ、政宗。お前は暫く私の家に来い。誰とも会いたくないのなら、このオフィスにいても構わん」
「だって……っ」
覆った掌の下で吐き捨てた唇が震えた。
それを噛みしめ噛みしめ、激昂しそうな感情を何とか宥めようとする。
「あの部屋に…気に入ってたスニーカーも服も置きっ放し、なんだ…。使い慣れた食器だって…。洗剤、何処にあるか、あいつ、分かるかな…。コーヒー豆、高架下の専門店で買ってたの、あいつ知らねえし…。歯磨き、柔らかめじゃないとちゃんと歯磨かねえんだ…。買ったままで下ろしてない靴下がしまってある場所だって、教えてない…っ」
「政宗、お前」
「何もかも、やりっ放しなんだよ、俺の半身と一緒に…っ」
最後に吐き捨て、政宗は身体を丸めて踞った。
そうやって、声を殺して泣く青年の側ににじり寄り、孫一は嗚咽に波打つ背をゆっくりと撫でてやった。手遅れだったか、と言う思いに、人知れず唇を噛む。
「…もうあの男の事は忘れろ。復讐など捨てて、お前はお前自身の幸福せを探すんだ、政宗」
「復讐……」
「これ以上、お前が苦しむ事はない」
孫一の言葉でやっとそれを思い出したかのように、政宗は彼女を顧みた。尚も説得しようとする幼馴染みの声を無視してわなわなと唇を震えさせ、泣き腫らした唯一の左目を見開く。閉じられたままの右目の瞼は癒着して睫毛を揺らめかせるだけだった。
「…あいつは…、親父の会社を潰した…。俺の右目だって…親父の息子だからって、大勢の顧客に迷惑を掛けたからって、何処の大病院も手術を断って、結局失明しちまった…。母さんも過労で倒れて、今もう実家に戻っちまって…。あいつ俺から色んなもの奪いやがって、その上…」
聞くに堪えない怨嗟の呻きに似た台詞を無感動に呟き続け、そして口を開けっ放しにしたまま言葉を切った。孫一はそんな幼馴染みの痛々しい様を見つめながら、頬を濡らすものを指先で拭ってやった。
「その上?」と、穏やかに声を落とす。
「…その上、お前はあの男を本当に愛してしまった?」
硬直していた肩が揺れ、見開かれた左目が更に大きく剥き出される。
「自覚がないのか?愚かなカラスが…お前のそれは愛以外の何ものでもない」
「…でも…だって……」
「非道い男だぞ、片倉小十郎と言う奴は。ああ…それが分かっていながら惹かれてしまったんだな。それで、そうする?」
「どう…するって……」
「洗いざらいぶちまけて、あの男に愛してると言って縋るか?それとも、今のその想いを引き摺ったまま離れて行くか?…お前の性格なら私は良く知っている。何か行動を起こさねば気が済むまい、愚かだと笑われようと」
「―――…」
「私は何時もここにいる―――行って来い」
「………」
言葉を返せず、やはり固まったままの幼馴染みに彼女は軽く笑いかけた。
「その前に、一回風呂へ入って寝ろ」
「まごいち…」
呆然と呟く幼馴染みを、孫一は躊躇いもせず自分の胸に抱き寄せた。それへ、政宗もそっと体を預ける。
バカみたいだ、そう己を嘲笑いながら彼が自分から奪えるものはもう何一つないのだと気付く。復讐―――、結局彼には適わなかったのだ、自分も、父も。
そうして少しく泣き続けた政宗を、孫一は近くのシティホテルまでタクシーで連れて行ってくれた。疲れきり、弱り切った心と体はその時、泥のような眠りを政宗に齎したが、無為な夢は運んで来なかった。
夢の舞台は崩れ去ったのだ。

その夜もやはり午前0時過ぎに自宅マンションに帰って来ると、小十郎はシャワーをざっと浴びるだけで書斎の傍らにあるベッドに沈んだ。
今この時、余暇がない程謀殺されると言うのは却って都合が良かった。
幾ら騙した上での付き合いだからと言って、やはり帰った自宅に灯りが灯っているのとそうでないのとでは気分が違う。
さて、"雑賀さやか"には何と言って仕事を断ろう。鼻で笑われ無能呼ばわりされそうだが、それは甘んじて受ける。とにかく、明日も4時起きで始発に乗って大学に行くのだから、もう考えるのはやめて、眠りの淵へさっさと落ちてしまおう―――。
するすると緊張していたものが解けて行くのと、濡れた髪がひんやりと冷たくなって行くのを感じながら意識を手放しかけた。
その時、
カチャリ、と寝室の戸を開けた音が響いた。
泥棒にしちゃやけに大胆だな、と思いつつベッドの上に仰臥したまま狸寝入りを決め込む。
さわさわと毛足の長いカーペットの上を渡り歩く気配は真っ直ぐベッドへと近付いて来るようだ。どのタイミングで襲い掛かってやろうかと耳だけに神経を集中させていると、その人物は不意にベッドに乗り上がって来た。
体が片側に傾く感覚に、思わず目を見開いていた。
その視界一杯に、その距離で見慣れた面が、書斎机からの灯りに薄暗く浮かび上がっていた。
見つめ合う事、暫時。
「……玄関に靴、なかったな…」とこの場には相応しくない事が口を突いて出た。
「寝込み襲ってやろうと思ってた」
この返しに、皮肉なのか、弱り切ったような微笑が浮かび上がる。
男はそのまま政宗の腰に腕を巻き付け、自分を跨がるようにして引き寄せてやった。その有無を言わさぬ力強さ。
「もう帰って来ないかと思ったぞ…。佐助とは、あの男とは何でもねえんだ…」
「これが終わったら出てく」
「………」
すう、と音を立てて男の顔貌から表情が消え失せた。
政宗は、彼の未だ濡れた髪がその額や頬に張り付いているのを片手で撫で付けながら、更に言う。
「もう会わない」
言葉とは裏腹に、青年は男の左の頬傷を愛しげに撫で、それに唇を寄せた。
「部屋に手紙置いてあるから、後で読んどけ。それで俺の事が全部分かる…俺は俺の心を取り戻しに来ただけ…」
「行くな」
言い掛けた政宗の顔を両手で掴んで、男が言った。
そうして、互いの瞳の奥を覗き込み合う。真実は、本心は、何処にあるのか、と。
けれど政宗にはこれ以上無理だった。事情を隠した上での男との生活など。ましてや、正体を明かした後に何が残ると言うのだろう。彼は父から自分から、何もかもを奪った大罪人ではないか。
そう思うと、笑えた。
ただの泣き笑いになった。
「愛してる」
そう言って男の手を解いた政宗は、自ら彼の唇に貪り付いた。
応えを返してくれない、少し肉厚のそれを吸い舐り、唇を割って舌を挿し入れる。
全て、彼が自分にしてくれた事だ。それをオウム返しのように男に施す事は、全て、青年が彼のものだと言う事を証している。


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