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―記念文倉庫―
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大学司書官の仕事は、カウンターでの貸し借りの受付や本の整理などの他に、書籍・新聞・雑誌・CDなどの最低限必要なものや、講義の内容如何によって要望されるであろう種類の、資料の選択や購入などもある。
受付や整理などは生徒の手伝いでも賄えるが、教授らと相談して専門分野の書籍を探し出したり検索するとなると、やはり高度な専門知識が必要となるので、小十郎でなければ行なえない。
あるいは、図書館で2ヶ月に1度は行なわれるイベント(読書会、上映会、講演会など)の計画・立案・設置などにおいても、主催者である教授や生徒の相談役として補佐を務めるのも司書官の仕事だ。
小十郎は通常の勤務時間(つまり図書館の開館時間である午前9時から午後8時まで)をそのような業務に追われ、それが始まる前と終わった後を半兵衛に指示された討論用の草稿を作り上げる為の資料作りの時間に充てた。
当然、自分の部屋でゆっくりする時間は削られ、ただ寝に帰るだけの日々が繰り返された。
それでも、最初の一週間ぐらいは政樹が何か言いたげなのを飲み込んで、ただ穏やかに自分を送り迎えする様を楽しむ余裕があった。
「楽しむ」と言うのも不謹慎な言葉かとは思うが、例えば嫉妬する恋人の拗ねた様を見てみたい、と言った類いの心理と似ていると言えば似ている。何より、男は自分を騙そうとしている青年を騙し返しているのだから。
それが2週間経ち、3週目に入る頃になっても、拗ねた素振り1つ見せず、少しは構えなどと我が侭の1つ言わず、自分の部屋へ下がって行く後ろ姿を見送るようになって、ふと不安を覚えた。
―――こう言う時、恋人の俺を困らせなきゃ詐欺にならねえんじゃねえのか?
恋人の振りをして、それらしい事をしなくなって、それで安堵してしまっているのか。後もう10日余りでこの茶番が終わるとあって、演技するのに疲れ果てたか―――。
ともあれ、あの世間知らずの若者に男の味を覚えさえて骨抜きにして、もう女なんか見向きも出来なくさせる事に失敗したのか、と己の拙さに臍を噛む思いがした。

―――それもこれも全部あの野郎のせいだ…。
人気の絶えた図書館の大テーブルに、思う様広げられたグラフや数値計算表の数々を眺めやって、小十郎は暫し手を止めて口元を歪めた。
涼しげな面に穏やかな微笑を浮かべ、何事かある度に己を絡め取ろうと弁舌を振るって来る、経済学部助教授の竹中半兵衛。あれに目を付けられるような言動をした自分自身も迂闊だったが、やけに執心する半兵衛の眼力にも正直、舌を巻いていた。
―――大学教授なんざ冗談じゃねえ…。
少々、乱暴に手元の資料を机に叩き付けつつ整え、クリップで留めた。ノートに"資料13−4"と書き付け、メモを取るのと同時に資料に貼付けた付箋にも"資料13−4"と走り書く。
討論のテーマは"世界経済におけるアジアの今後"だとかで、必要となる資料はそれこそ膨大な量に上る。これを2ヶ月弱で揃えろと言うのだから無茶振りも良い所だ。当然、それをこなせると言う確固たる信念があっての事だろうが。
それにしたって、あの華麗な助教授どのに対する悪態は尽きる事がない。
大学図書館のデータベースとリンクしているノートパソコンと、すでに3冊目になる大学ノートを相棒に、大量の資料と格闘する事3時間半、そろそろ大学を出ないと終電も終わってしまうと言う頃になって、不意に戸締まりをした筈の入り口の方から物音がしたのに気付いた。
もしかして政樹が様子を見に来てくれたのか?と思いつき、慌てて席を立ってエントランスへの自動ドアを手で押し開いた。
コンクリ打ちっ放しの床に、モノトーンで揃えられた椅子とテーブルが設置されたエントランス空間は、巨大な一枚ガラスの連続だ。それが表の夜景(と言っても殆ど人気のないキャンパスの庭だ)をしんと映し出している。
鍵を掛けてあるガラスのスイングドアの向こうの人影は、その中に図書館内部の灯りから見て取れた。
「―――佐助…?」
見間違えようのない派手な色の髪と、初夏に相応しい白いパーカーとブルージーンズの青年が小十郎の姿を見つけて笑顔で手を振った。
あの夜に始まった茶番で情事の一歩手前まで行って逃がした鴨。そう言う設定だが、小十郎はさやかから聞いて彼が政樹と手を組んで自分を騙そうとしていたのを知っている。
今更何だ、新しい仕掛けでも用意して来やがったか?心中ではそう言う警戒を抱きながら、表向きにはただ驚いた風を装ってスイングドアを開けた。
「あー…コンバンハ、片倉さん…」
さすがにばつが悪そうに、佐助がそう言いながら片手をヒラヒラさせた。
「…どうしてまた、ここに」
負けじと小十郎も戸惑いを滲ませた声で問い返す。
「うーん、半兵衛さんに聞いて。片倉さんコキ使われてるってさ…。ちょっと会いに来たんだ、中入って良い?」
「ん…ああ―――」
佐助はあの最初の夜の時、竹中半兵衛の後輩で今は某有名大学の研究生、と言う触れ込みだった。学部は理数系だが、今でも半兵衛と付き合いがある便利な立ち位置だ。物珍しそうに図書館のエントランスへと入って来て、その中世の面持ちも持ち合わせたアーチの連続が連なる内部を見渡したりした。
「…で?何の用だ?」
少しばかり性急に問われた事でようやく男を振り返る。
「ん…、そんなに邪険にしないでよ…。俺様で良かったらお手伝いしようかと思ってさー。これでもグラフの数字読むの得意なんだから」
「経済の数値から意味を汲み取るにはそれなりの知識がないとな。申し出は有難いが夜も遅いから、帰れ」
「これでも人並みに経済の勉強してますよー。投資とかも興味あってやってるし」
「………」
引き下がろうとしない佐助を見下ろして、男は細い溜め息を吐いた。それを見て、さすがに佐助も表情を曇らせる。
「……嫌われちゃった、よね」
「悪いが本当に」
「ね、本当の事言うよ」と佐助は男の決定的な断りの台詞を打ち切った。
「あの時、頭に血が上って酷い事言っちゃったけど、俺本当はあんたに抱かれたいってずっと思ってた…。忘れられなかったよ、俺様とした事が。参っちゃうね…本当に、あんたって男…初めてだった」
「あのな…」
「作業は手伝う!マジでそこらの学生より役に立つから!だから…っ」
そうして、片腕に縋り付いて来る細っこい青年を、男はどう思ったのだろうか。
打算か計画か、迷いや戸惑いか、怒りか呆れか―――。
ともかく、佐助が小十郎の腕を両手で掴んで、そこにオレンジ色の鮮やかな髪を押し付けつつ肩を震わせている間が暫く続いた。
そこへ、何も知らない政樹が何気なく入って来て、丸い背もたれの並びの奥にそんな有様の2人を発見したのは、偶然と言うには余りに出来過ぎていた。
スイングドアが開閉される音に視線を上げた小十郎が、最初に彼の姿に気付いた。続いて振り向いた佐助が、何時か見たプライベートバーの店員だった若者を見つける。
「…ああ、そう」とその佐助が呟いた。
「そう言う…事、か……。片倉さん、ああ言うのが好み?」
そうして、爪を立てて掴んだ男の腕を辿って、戸惑いの表情を見せるその顔を食い入るようにして凝視する。それは般若のような微笑みで。
固まっていた政樹が弾かれたかのように踵を返した。
「政樹!!」
叫んで、後を追おうとした小十郎を佐助が全体重を掛けて阻止しに掛かる。
「行かせない…っ、後なんか追うな!」
その執念―――妄執、と言っても良い。それが騙しのテクニックとは思えず、もしや本気で、とまで考えた時、何も知らなかった政樹がこの場面を見て何を感じてしまったのかに思い至った。
―――コン・ゲームは失敗した。
舞台は破壊されたのだ。その時、彼らを繋ぐ蜘蛛の糸は切れるだろう。
「―――…」
小十郎は大きく息を吐きながら脱力した。
自分の方の計画も泡と消えた。もう、あのマンションに戻っても彼の姿は煙のように消えているだろう。男の心が少しでも余所見をしたなら、こんな貼りボテの茶番を続ける意味はない。
政樹も自分も。
―――また、俺は手に入れ損なったのか…。
失意の内に表情を消して、少々乱暴に佐助の腕を振り払った小十郎は、ゆっくりと図書館内部へと戻って行く。政樹を追うつもりがないのだと知って佐助はその後を追い、尚もそのシャツの袖を掴んだ。
「片倉さん…」
「帰れ―――」
「…でも」
「失せろ!」
低い恫喝に、赤毛の青年の全身が強張った。
その目の前で、男の背は入り組んだ本棚の間に消えて行き、何処かの扉がバタンと閉ざされた音だけを響かせた。

図書館を飛び出した政樹は―――いや、政宗は、手にしていた男の為の夜食をキャンパスの中の植木の上に投げ捨てた。
振り返れば、所々灯る灯りに浮かんだ庭木の間に、ガラス張りとコンクリ打ちっ放しで出来た図書館が垣間見る事が出来た。そこから青年を追って走り出て来る影はない。
政宗はそれから逃げるように駆け去り、校門前に駐輪してあったロードバイクに飛び乗るや夜道を走り抜けた。
スカイブルーのフルカーボンバイクは手元より腰の方が高く設定されているので、ペダルを踏み込めば小気味良い加速感を味わえる。今は、大学周辺の雑木林脇の国道を走る車影も殆ど見られない。そんな中、政宗の駆るそれは矢のように流れ去って行った。
こんな事は佐助の書いた筋書きにはなかった。予定が変更されたなんて事も聞いていない。最近、定期報告の為に六本木オフィスに行っても佐助は姿を見せなかった。チャラい男だと思ったがまさか本気で。
軽快な風に吹かれながら、そんな考えが脈絡もなくズラズラと頭の中を駆け巡った。
いやそうではない、と言う己の声に我に返る。
小十郎が自分以外の誰かに心を傾かせた―――その事実に体中が唐突に固まった。足が動かなくなった。
ロードバイクは惰性で車道を滑り、やがてゆるゆるとスピードを落として止まった。
小十郎が買ってくれたものだ。お気に入りのロードバイクをその場に乗り捨て、街灯に照らされた道をトボトボと歩き出す。
―――お前がいい。
そう、優しく静かに囁きかけたのは嘘だったのか。
佐助と両天秤に掛けていたのか。
自分とあんな事をしていた傍らで、もしかして佐助とも。
人を騙すとは、人の心を踏みにじるとは―――。
人を呪わば穴2つ。仕掛けた方も同じだけの報いを受けるのだ、と政宗はその事に突き当たって、深く、底知れない程深く、深淵の中に落ち込んで行く己を感じていた。


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