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―記念文倉庫―
10●
「なあ…今がいい…。今だけじゃねえ、何時だってお前が欲しいんだ」
「…昼間っからヤラしい事考えてんのかよ」
卑猥な言葉のやり取りの内に、政樹は、押し当てられたものに指を這わした。
男が大きく息を吐き出し、そして吸った。
「昼間っから、お前の可愛い泣き顔想い描いてる…」
再び吐き出す息に乗せられたそれは、言葉よりももっと淫靡なもので満たされて政樹の中に落ちて来る。
「想い描きながら、そっと指でなぞって…」
政樹の手首から離れた男の左手が上がって政樹の唇に触れた。
その硬くて、温かくて、優しい指先。
それが、青年の唇の上を幾度も滑った。
「もっと…って言う、お前の声に欲情してる…」
ざわり、と政樹の中に落ちて来たものが騒めき立った。
青年の右手の中で、早くもそれは硬く熱くそそり立っている。唇をなぞる指先のように。そしてそれ以上の凶暴さで。
「……こんなにお前にのめり込むなんざ…お笑い種だな…」
「んだよ、それ…っ」
喚こうとした唇は、それより早く男に塞がれていた。同時に廊下の壁に背を押し付けられ、コンクリート打ちっ放しの冷んやりした感覚に、思わず背が強張った。小十郎の腰のものは直接政樹の下腹部にぐいぐいと押し当てられ、政樹は自分を全身で抱き込む男の背に縋るより他なかった。
「なあ…欲しいって言えよ…」と小十郎がキスの隙間で囁きかける。
「して欲しいって」
言って直ぐに唇を塞ぎ、舌を挿し入れて来る。
そうしては歯茎や口蓋や舌の裏側など、政樹が感じる所を遠慮容赦なく舐った。
これでは答えたくとも応えられない。その不服を現すかのように政樹は男のジャケットの裾をたくし上げ、そのシャツを引っぱり出した。春色の淡いオレンジのチェック柄だ。これも今朝、政樹が男の為にコーディネートしてやったものだ。
シャツを掻き分け、丸められた素肌の背に両手を這わせる。力一杯抱き寄せながら、その逞しさに何もかも忘れてしまいそうになる。
すると、男はその場で政樹のGパンのベルトに手を掛けた。
青年が抵抗しないと見るや、素早くその前を寛げ引き摺り下ろし、ずり落ちかけた下着の中に両手を突っ込んだ。彼の掌は前ではなく後ろに回り、尻の割れ目を押し広げ、迷う事なくその窄んだ蕾に指先をねじ入れて来た。
「…っあ、や…っ」
拒否の言葉は男の舌に絡め取られ、一気に体中の血が沸騰したようだ。
「…っこじゅ…ろ…っ、した、い…したい…っ」
何やってんだ俺は、そう言う皮肉屋の自分の声を聞きながら、舐られる唇から溢れ出る言葉はそんな稚いものばかりだった。心は、理性は、情念は、何処にあるのか知らない。
ただ、口惜しさに似たものが青年に涙を浮かばせて、壊れたレコードみたいに、したいしたい、と言葉と思考が一色に染まる。
そうなれば、小十郎に否やはない。
足から力が抜け始めていた政樹を壁に向けさせて跪かせると、前を握り込みながら後孔への愛撫を、それはねっちりとしつこく施してやった。腰をうねらせ、冷たいコンクリに頬を寄せたその背にのしかかりながら、尽きる事のない卑猥な言葉を被せて行く。
こんな風にして、体中に見えない傷を付け合って、こんな事に意味があるのか。
こんな風に五感を満たし、そこから溢れるものを手を拱いてただ黙って見ているだけが、2人の間にある全てのものなのか―――。
今は、全ての疑問と答の見えない迷路を棚上げにして、背後から貫かれた政樹は、喉が干涸び声が枯れるまで男の欲望を受け止めた。

それは1時間と満たない間の行為だったが、濃密さで言えば過去最高のものだったと言って良かった。
廊下の床をはしたない粘液で汚した後に、ぐったりした政樹の体を浄めた小十郎が彼を彼自身の部屋に連れて行った時、1時を回っていなかった。
横抱きに抱え上げた青年の身体を、ベッドに横たえた小十郎が、不意にそこに放られていた茶封筒に気付いた。何気なく男がそれを取り上げたのを見た政樹は気怠げに身を起こした。
「それ…話そうと思ってたんだ…」とごく自然に呟いた自分に心中、息を呑む。
「両親の都合でアメリカに移住する事になっちまった…何となく親にはあんたの事バレてたみてえ。絶対、一緒に来いって」
茶封筒の中から出て来た英語のみで書かれたパンフレットや冊子の数々。それを、男は黙って眺め続けた。
酔いも冷めて、熱く体と体を打つけ合った後特有の、疲労と色香を纏った彼の横顔。政樹はそれから視線を反らした。
「あっちで、あんたの事話して理解してもらおうと思ってる。親を切り捨てたくは…ねえんだ……」
佐助が筋立てた通り、そこで涙の1つでも見せて男の関心を買う。
その演技はごく自然に政樹の内側から溢れ出した。激しい情事の後だと言うのもあっただろう。そうに違いない。
言葉を切ってベッドの上で嗚咽を殺す青年を、傍らに腰掛けた小十郎がそっと抱き寄せた。放られた大学案内のパンフレットなどには見向きもしない。
「いつ、行くんだ?」とそれだけを問い掛ける。
「…ひと月後…9月の新学期が始まる前にあっちの生活に慣れとけって…」
「―――…」
「なあ…」
男の抱き寄せる腕に身を任せながら、政樹は呟いて一度口を閉じる。
「待っててくれるか?」
問えば、応えるように男の腕に力が籠り。
「待ってる」
温かい言葉が降って来た。
―――ああ…。
これは夢だ。
四方を区切られた舞台を整え、その上に立ち位置を決めた役者を乗せて、定められた台本通りに、監督の指図通りに、"それらしく"動き回る夢。
だから、役者の1人として巧く立ち回らなければならない。
そう、これ以上ない程完璧な舞台ではないか。

翌日の朝、テーブルに向かい合って朝食を摂る席で、小十郎は半兵衛から持ちかけられた大仕事について話して聞かせた。その為に日々帰りが遅くなり、土日も大学に出て資料を作成しなければならない。昨夜はそのキックオフと称した宴席だった事も。
それを聞いて表情を曇らせた政樹に、男は殆ど無理やりと言って良い笑顔を見せた。
「お前との時間は何を差し置いても作る。俺もお前に触れられないと枯れちまうからな」
そんな安請け合いの言葉を吐いて。
政樹はきゅっと唇を噛み締めるに留めた。

「こっちを待ってくれるって言ったじゃねえか」
とそう、喧嘩腰の口調で携帯に訴えかけたのは、政樹が都内にある大学に向かう途中だった。
JRの電車を待つホーム。学生や会社員らがたむろするそこで、階段下の物陰に隠れながらだ。
『君の事を彼にバラした訳じゃない。それに、搦め手で外堀を埋めておくに越した事はないと僕は思っている…君の計画がいつ終わるのか分からないんだし』
「………」
電話口の助教授の声は至って平静だ。それに理にも適っているものだった。
「…あとひと月で俺は姿を消す…」
政樹はそれを白状せざるを得なかった。すると、電話の向こうで半兵衛は軽快に笑ってみせた。
『そう、5月中旬には君はいなくなる訳だ。それなら6月のシンポジウムが開催される時に全て上手く行きそうだ。君は彼の心を奪って姿を消し、失意の片倉くんを僕は手に入れる』
「…それだったらあいつをずっと大学に縛っておく事もねえだろうが…」
電車が来た。アナウンスが到着を告げ、行く先を告げる。だが政樹はそれへ乗り込まなかった。
『そう言う訳には行かないよ。大事な国際会議だ。討論の内容はきっちり詰めてもらわなきゃ…。ああ、君たちの蜜月を邪魔して欲しくないって事かな?』
ここで若い助教授は意味ありげに、ふふふ、と笑った。
『8ヶ月も続いたんだろう?ちょっとはスパイスを効かせてやるつもりで僅かな逢瀬で燃え上がると良いよ。その方が平穏な日々をずるずる続けるより余程刺激があるんじゃない?』
スパイス―――佐助と同じような事を言いやがる…。
奇しくも、双方に降って湧いた事情が2人の関係を邪魔してジレンマを作り出していた。そのカタルシスが崩壊する瞬間、惹かれ合う2人は文字通り炎より激しく燃え上がるだろう。
理屈は分かる。いや、それが人の情と言うものだ。
乗客を乗せた列車が走り去って行った。
『ねえ、彼が君に会えなくてヤキモキする様子を楽しませてもらうよ。……政樹くん?』
耳から離した携帯から半兵衛の声が聞こえていたが、政樹はそれ所ではなかった。胸の裡で騒めくもの、それが辺りの通勤通学する人々の掻き起こす雑音を圧して耳を覆った。

朝、朝食を共にする事が週に1度か2度になって行った。
夜、夕食は大学で済ませて来た小十郎がマンションに帰宅すると、シャワーを浴びて直ぐにベッドに直行してしまう事も多くなって行った。
政樹が後ひと月で渡米する、と告げて既に2週間でまるきりのすれ違い生活になっていた。以前は大学の講義が午後からの政樹に付き合って、共にロードバイクで街を流し走っていた習慣も途絶えた。肌を重ね合わせるなどもっての他だ。
それでも時折、無言でキスを交わす。
小十郎は申し訳なさそうだ、そして疲れ切っていた。
政樹は、甘えた我が侭も口から出せなかった。
そんな事をしたら、正しく整えられた舞台を破壊しかねない、と思ったからだ。今はただ、健気に男を支え、男が自分に想い焦がれる様子を眺めていれば良い。それに最後は、男がマンションの部屋を空けがちなのを利用して彼の預金通帳を見つけ出し、それを彼と別れる時にこっそり持ち出せば良いだけの話だ。
あと2週間を切った。
それは時折、我が侭を言って年下の恋人の甘えを男に見せつけ、その心を揺さぶるのも効果的だったろう。頭では分かっている。
だが、それを切り出す勇気が政樹には持てなかった。
―――勇気?何だよそれ…台本の台詞を言うだけじゃねえか。
胸の中の騒めきと共に、青年は自分の心の動きに戸惑うばかりだった。
舞台の上で自分の台詞を忘れて呆然と立ち尽くす木偶のような役者。頭が真っ白になって、共演者の困惑の表情をそれと見ながらも、やり直しすら効かない最悪の舞台。
―――夢であれば、早く醒めて欲しい…。
そう願わずにはいられない程の張り詰めた空気が政樹の中を満たした。
期間限定だなんて嘘だ、あんたの仕事が落ち着くまで待ってるから、そんな苦しそうな顔をしないでくれ―――そうした奥底に燻る想いに蓋をしたまま、時間だけが過ぎ去って行った。


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