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―記念文倉庫―
9●
「新入生の様子はどうですか」
と小十郎は食事の事には触れずに、この時期特有の話題を切り出した。
「ああ、例年の通りだよ。ゆとり世代とか何とか世間はラベリングしたがるけれど、みんな子供っぽくて、自分に正直で、大人になりたがっている」
半兵衛のこの台詞は若々しさに対する賛辞ではない。むしろ侮蔑だ。親の教育がどうあれ、他世代と余り関わらずに生活する小中高を経て来た彼らは、皆一様に"子供っぽくて、自分に正直で、大人になりたがっている"。
それは自然な事だが、半兵衛はそうした当たり前で平均的な人間を余り好かない。
彼が興味があるのは、破格の、常識破りの経験と、そこから来る知恵の全てだった。
例えば、小十郎のように。
「その笑顔で言われちゃ、女生徒が黄色い声で騒いで煩いでしょうに…」
皮肉の言葉と笑顔を困ったもののように変えて、小十郎は何事もなく応じた。
それに対して、如何にも躾の行き届いた様子でパスタを口に運んでいた助教授がちらと男を見やって来た。
「今、僕らが同じテーブルに着いて顔付き合わせて食事している所を、ちらちら盗み見ている女性徒がどれくらいいるか、知ってるかい?」
「さあ…?司書官が教授と親しいのがそんなに珍しいんですかね」
「違うよ。僕と片倉くん、君とのセンセーショナルな噂に夢中なんだ」
「…センセーショナル?」
恍ける男に対して、半兵衛は薄い微笑を貼付けたまま口元を拭った。
「つまり、男同士デキてるって事だよ」
その台詞に小十郎は笑顔を凍り付かせて固まった。
「……それはそれは…」と言う台詞でお茶を濁したのは暫く経ってからだ。
思わず周囲を見回したい衝動を抑えて食事を再開させる。
「女の子は面白いね。ゲイでもないのに男同士がくっつくのを想像して楽しめるんだから。"素敵な人の隣にいるのが自分じゃない"事を楽しむ」
「……未知の生物ですな、そこまで行くと」
「そうなの?」
意外そうな一言に小十郎は再び視線を上げた。
「君のそれ、手作り弁当だよね?」
「―――…」
視線を下ろせばそこには今朝、政樹が男の為に作ってくれた弁当がある。
学食堂で弁当を食べる事は珍しくない。
女子生徒の多くが自分や母親が作ったものを持って来るのが当たり前だったし、既婚の教授も細君に持たされれば同僚と共にそれを持って学食堂へやって来る。それをわざわざ指摘される筋合いはない。
「勿論、自分で作ってますよ。ここのメニューは物足りない事があるんで」
「それにしては手が込んでる。片倉くんて料理得意だっけ?」
確かに、政樹が作ってくれるようになるまでは、適当な惣菜と白飯を放り込む事が殆どだった。今の弁当には煮物や揚げ物、コールスローサラダまで付いていて、白飯もちゃんとした海苔弁だ。
「…最近、体型が気になり始めまして」
そんな見え透いた言い訳に、半兵衛は思わず吹き出していた。
周りの視線が気になり始めていた小十郎は、弱り切った表情でそんな麗しい助教授をじっとりとした目付きで見つめるだけだ。
「ごめんごめん…君のプライベートに立ち入るつもりはないよ。ただでも、最近、君がとても幸福せそうに見えるって言う女生徒がいたりしてね。カマ掛けてみただけ…」
「………」
「女の子はそう言う所、驚く程鋭いからね」
「―――気を付けます」
従順にそう返す男を尚も見つめて、半兵衛はテーブルに頬杖を突いた。
「いいヒトなんだ?」
「ええ…まあ……」
「君は普段から察するより情が浅いような気がしてたけど、そうでもないんだね」
ヒジキと揚げ豆腐の煮物を口に放り込んだ小十郎は、口の中でそれを咀嚼しながら半兵衛を見やった。
「誰にでも優しい司書官さん…誰にでもって事は、特別と言うものが存在しない事だ」
「そうとは限らないでしょう。竹中さん、あなただって」
「ああ、僕もそうだよ。どうでも良い人間には適当に愛想を振りまいておいて、いざと言うとき自分の味方につける。その声は多いに越した事はないから…。でもやっぱり君と僕は似てるね。恐らく生涯ただ1人の人の為に生きる事に喜びを見出すタイプだ。そのヒトは、そう言う人なのかな?」
「………」
竹中の言う"生涯にただ一人の人"と言うのは、学長補佐、豊臣秀吉の事だろう、と言う事は言わずとも知れた。彼の為ならこの美麗な助教授はどんな汚い手でも使って見せる。
「…さあ、大事にしたいとは人並みには思いますが、竹中さんの言うような大袈裟なものかどうか…」
「大袈裟…確かにね。既婚者が妻子を置いて単身赴任、なんて良くある事だ」
何が言いたい、そんな言外の意を含めて小十郎は半兵衛の目を覗き込んだ。彼は、再びフォークを取り上げる素振りでその絡み合った視線を外し、口の端を歪めて言った。
「6月にイギリスで行なわれる地球サミットの一環として、経済学国際会議シンポジウムが開かれるのは君も知っているだろう?」
「ええ…学長補佐と竹中さん、あなた方が揃って出席される予定の」
「それの草稿を作るのを君に手伝ってもらいたいんだ」
「え―――」
「資料探し、ファイリング、統計、筋立てまで。司書官としての仕事の傍らだから大変だろうけど」
「いや…待って下さい。それは通常なら経済学部の学生の仕事じゃありませんか?」
慌てた小十郎が思わず箸を置いてテーブルに手を突くと、半兵衛はフォークに掬い取ったパスタをそのままにさっと視線を上げた。
「シンポジウムの答弁に君も参加する為だ。言っておくけどこれは学長も学長補佐も了承された事だからね。君は僕のアシスタント、と言う事だ」
これまで事ある毎に教授の椅子に着け、論文を発表しろ、何処そこの教授の所に顔を出せ、と言われ続けて来たが、これはかなり強引な話だった。なのにこの目の前の助教授は、歴とした女性ですら逃げ出すような艶やかな笑みをその面にはっきりと刻んで尚もこう言うのだ。
「別に良いだろう?教授になれって言ってるんじゃないんだから」
同じような事だ。いや、むしろタチが悪い。
各国の著名な経済学者が集まる場で、恐らく半兵衛は答弁の草稿を手伝わせた人物だと言って小十郎を紹介して回るつもりだ。その着眼点や、論証の展開を添えて。ある意味、片倉小十郎と言う無名の男の存在のお披露目式と言って良い。
そこで名と顔を知られ、論文の提出や教授の地位を求められては、小十郎が安穏と大学図書館の司書官に甘んじている事が難しくなる。
「―――…まさか、学長の指示に逆らったりしないよね?」
それは、この大学にいられなくなる事を意味していた。
小十郎は頷く他なかったろう。

その日政宗は、いや、政樹は、A4サイズの茶封筒を目の前のベッドの上に置いて、それと睨めっこしながら小十郎の帰りを待っていた。
唐突に孫一から呼び出され大学の午後の授業を抜け出し、行った先の六本木オフィスで渡されたものだ。封筒の中にはアメリカにある、とある日本人学校のパンフレットと移住先の町の案内(銀行、病院、政府機関の位置や利用方法、連絡先など)が入っている。それを手に、例の期間限定話を持ちかけるよう指示されたのだ。
政樹は訝しかった。
佐助の姿がその場にいなかったのが最大の理由だが、それには「彼は今日はちょっと都合が悪いので来れないが彼の指示でもある」と、孫一に告げられれば文句は言えない。
「8ヶ月、十分な期間だ。それにそれ程あの男がお前を大事にしているのなら、これはむしろ好都合と言えるだろう。彼の心と金を盗んで姿を消す。その効果は絶大なんじゃないのか?」
そう言われてみれば、関係が僅かに冷め始めるのを待つより、今現在のように政樹にのめり込んでいる状況の方が心理的ショックは大きいだろう。
それは頭で分かっていながら政樹はやはり、釈然としないものを感じていた。
―――あと1ヶ月でこんな生活は終わる…。
当初の目的通り事が進み、最後も締め括る事が出来るなら、復讐を遂げた彼は快哉を叫ぶべきだった。
男の預金通帳や印鑑など、そんなものには興味はない。だが、この同棲生活が、いや惚れた晴れたの全てが茶番だったと思い知らせる為には金の存在は大きかった。数億の福沢諭吉を軽々しく右から左へ動かす男にしても、金には替えられないものがこの世にはあると気付かされるだろう。いや、気付くべきだ。
その最後の仕上げで、政樹は己が手で小十郎にトドメを刺す事になる。
―――全て、終わる。
本当に?と問い返す己の胸の裡の声を聞きながら、政樹はその茶封筒を見つめ続けていた。

マンションの扉がガタガタと鳴って、小十郎が帰って来たのは日付が変わる頃だった。普段なら8時9時には帰宅している筈なのに、連絡もなしにどうしたんだろう、と玄関まで出迎えに行けば、珍しく不機嫌そうな男から酒と煙草の匂いが漂って来た。
「…飲んで来たのかよ?」
「ああ…大学の先生方とちょっとな…」
政樹の問いに彼は言葉少なに答え、多少覚束ない足取りで書斎兼寝室へと1人ふらふら歩いて行ってしまった。それを青年が追う。
「夕飯は?」
「いらねえ」
「………」
付き合いで酒の席に着くなど滅多になかった。その上この機嫌の傾きっぷりだ。詰まらない社交辞令の応酬で疲れているのだろう、と政樹は察して、今夜は例の話を切り出すタイミングではないと判断した。
「風呂暖め直して来る」
そう言って、小十郎の寝室の前で踵を返した彼の手首を男が掴んだ。
「…………」
無言で振り返れば、アルコールのせいで少し充血した双眸で男が見つめて来る。薄暗い廊下の途中でそれは、少し哀しげにも見えて、政樹を戸惑わせた。
「酔っ払い」とそう、詰る口調で告げてやる。
すると、男のその目が細められて。
ぐい、
と手を引かれた。
あっと思った次の瞬間には、その腰に男の腕が絡み付き、取られた掌を男の股間に押し当てられていた。
「酔っ払っててもお前を抱けるぜ?」
その言葉通り、政樹の掌の下で男のものはむくむくと形を成して来た。そうしながら、腰に回った彼の手が青年のスプリングセーターを掻き退け、その中に侵入して来ては撫で回す。中はシャツなどなく、素肌だ。
あるいは、自分の肩に押し付けた青年の髪に鼻先を埋めて、そこにキスを繰り返し落としながら、深く息を吸い込み、また吐く。
「―――まだ、水曜だけど…」と政樹はなけなしの抵抗をしてみた。
だが、彼にはそんな事は分かり切っていて、その上でこうして求めて来ているのだ、と政樹にも分かっていた。
「今がいい」
囁きが耳の中に吹き込まれると、青年の身体の何処とも知れない場所がヒリリ、と痛んだ。
シャワーを1人で浴びる度、男の手の感触を、その声を、体を、消そうと努めて傷付けた皮膚のあちこちが痛むかのように。
―――消えろ、溺れろ、落ちろ。
その3つの単語にあらゆる意味を被せて、シャワーの水のように流れ落ちて排水溝から吐き出されて行ってしまえばいいのに。


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