[携帯モード] [URL送信]

―記念文倉庫―

「悪かったって…。でもお前もこのまま夕方まで寝てちゃ、明日学校行くのに支障が出るだろう?」
笑いを納めた男はそれでも、目を細めたまま政樹の片手を取って両手に包んだ。
「なるべく早く帰って来るから、旨い夕飯用意してくれよ」
そう言われれば、政樹もその手を優しく揉まれるに任せるしかない。
「…何が食いたい?」
「お前の好きなもので良い」
「………わかった」
その返事に小十郎は、青年の額に、正確には視力を失った右目の上に唇を押し当てて来た。指に指を絡め、左手で政樹の耳の下を捉えながら。
ちゅっちゅ、と軽いリップ音を立てる唇の愛撫は、顔中を満遍なく巡り、そしてそれは当然のように政樹の唇を覆った。慣れた風に、乾き切った青年のそれを吸い、舐り、舌を挿し入れて来る。
着替え途中だった男が出掛ける用件を忘れてこんな事をしているのではない、と言うのは政樹も知っている。愛した恋人の、未だに戸惑い勝ちに返すキスを堪能し、胸の裡を満たす事を、小十郎は付き合って8ヶ月以上が経つ今になっても止めないのだ。
息苦しくなった政樹が、合わせた唇の間で零す吐息をも惜しんで、やがて解放した彼は、すっかり上気した青年の顔貌に見入り目を細める。
それは愛しい人を視線でめでている、と言ったそのもので。
やがて男は溜め息と共に、言った。
「ホントに…信じられねえ…」
彼は夢見るようにそう言うのだ。
世間に同性愛者だと隠して来たた小十郎が、こうして商売ではない普通の青年と恋人同士になり、同棲までして、その想いの限り愛情を注げる事が信じられない、と言って。
彼の想いは枯れる、と言う事がないようだった。
それに応えるには、と政樹は息を呑んで考える。
男の左頬に、その傷跡に手を添えて軽く唇を押し当てた。彼が少年の頃、とある人物に付けられたと言うそれを政樹が慰めると、彼は酷く喜んだ。
この時もそうだ。
ゆるりと両腕を動かして、自分より細い青年の身体を緩く抱き寄せる。その温かさに、夢ではない現実に心底安心しているようだった。
「行って来る」
そうやって、これ以上ない程優しい声音で耳元に告げて手を離した。
小十郎が、書斎を兼ねた寝室を出て行った後、政樹は毛布を抱き寄せ、体を丸めて項垂れた。

春らしい装いに身を包んだ片倉小十郎は、強い陽射しに上着を脱いでそれを腕に引っ掛けJRに乗り込んだ。
東京の西の郊外から都心へ、電車を乗り継いで1時間。六本木にあるオフィス街で、1つの高層ビル内にあるカフェテラスに入った。
店員に先客がいる事を告げ、案内を断って1人歩く。
目的の先客は、天井から床までを一面ガラス張りにされた窓際に花霞の街中を背景として、一枚の絵のようなシルエットを見せてテーブルに着いていた。
彼女は、全て黒で統一されたジョルジオ・アルマーニのスカートスーツを纏い、細くて長い手足をスラリと自然に投げ出した姿勢で男を振り向いた。男が小十郎だと知ると、その細面の顔に掛けていた細いサングラスを取り去り、気怠げに目を細める。
彼女の向かいに腰を下ろした小十郎は、やって来た店員にエスプレッソのダブルを頼みつつ、腕に提げていたグレイのジャケットを隣の椅子に掛けた。
「上手くやっている?」とそれを眺めながら女が問うた。
「問題ない、全て上手く運んでいる」
「それにしてはずいぶん時間が掛かってるじゃない。もう8ヶ月よ?」
女の詰る声に、男は渋い苦笑を見せた。
その時、店員がきびきびした動作で銀カップに入れられたエスプレッソ・ダブルを運んで来て、2人はいっとき口を閉ざした。
その若い店員が立ち去ってから小十郎は銀カップを取り上げつつ、女への応えを口にした。
「伊達輝宗が生命より大事に育てて来た一人息子だぜ?そいつを不能にして、跡継ぎとして男として役立たずにしてやりたいって言ったのはあんたの方だ。10年以上待ったあんたなら、あと数ヶ月だって待てるだろう」
「………」
女は、自分の手元のブレンドコーヒーを取り上げ、一口口に含んだ。
「そんな事を言って、あちらの手管にあなたの方が絆されてるんじゃないのかしら?」
冷たげな両目を据えて、白亜のカップ越しに猜疑の視線を寄越す女に対して、小十郎は微かに声を立てて笑った。
「確かに、あんたがあいつの素性や目的を教えてくれなきゃ、罠に嵌ってたかもな」
「本当に、あの若者に心が移ってないと言えるの?」
「随分疑り深いな」
「当たり前よ、あなたが詐欺師を詐欺に掛けるクロサギだって事は私も掴んでいる」
女のこの脅し紛いの台詞に男は銀カップを唇に当てたまま、目だけを投げやった。
カチャリ、
それに臆する事なく、女は白亜のカップをソーサに戻して男のそれを真正面から見返す。
「私の信用は勝ち得ないと思いなさい」
そう言う女は、小十郎と"政樹"こと伊達政宗が付き合い始めて間もなく、小十郎の前に姿を現した。他ならぬ政樹の正体とその目的を男に密告する、と言う形で。
そもそも彼女は、政宗の父輝宗の証券会社と取引先の銀行家だったのが社長のミスの連座と言う形でもって何もかもを失った雑賀孫一の娘、さやかだと名乗った。小十郎が輝宗の養子に入っていた時、雑賀の名は聞いていたが娘がいたと言うのは初耳だった。
ただ、あそこは代々雑賀銀行を継承して行く頭取が、同じ「雑賀孫一」を名乗るものだと聞いていた。恐らくさやかにはその予定がなかったので、自分の目に止まらなかったのだろう、と男は思った。調べてみれば、さやかは先代孫一とは血の繋がりのない養女だった。
今現在、彼女はアパレル業界でブローカーを勤めていると言う。
その彼女が言う。
「あんな愚かな采配を振るった男が、再び息子を祭り上げて事業を興してみなさい。親子揃って同じ轍を踏みかねない。私は伊達に社会復帰など決してさせない。…あなたもその頬の傷、輝宗にやられたものでしょう?子供相手に大人げない事…。さっさとあの家を飛び出して正解だったじゃない。そうしては金融業の専門知識をベースにクロサギで大もうけ…。そうね、今更伊達家なんかどうなろうと知った事ではない、か?」
畳み掛けるような女の舌鋒に、カップ越しの男の双眸が細まる。それは相手を値踏みするようでいて、その上、己自身の本心を煙に巻いてしまうもののようだった。
「―――いや?」
そう呟き、一口二口啜ったエスプレッソのカップを下ろせば、男の口元にはこれ以上ない程酷薄な笑み。
「俺も輝宗さんから生命より大事なもんを奪ってやりてえとずっと思ってた所だ…」
それは深い、深い所から来る深淵の呟き。余りに深過ぎて、余りに暗過ぎて、それが怨恨なのか憎悪なのか哀愁なのかすら判別出来ない。
ただ、そう呟きながら小十郎はとても楽しそうに笑う。
笑いながら人さえ殺せそうだ。
「あなた―――あの男と一体何があったの?」
さやかは思わずそう尋ねずにはいられなかった。
伊達証券内部の重役クラスの中でだけ、片倉小十郎と言う当時13歳の少年が専属ディーラーを騙して自由売買で大損失を出させ、会社は破綻した事が知られている。当然、伊達証券の取引先であり輝宗とは友人でもあった先代雑賀孫一も知っていて、さやかもそれを聞いている。
だが、目の前の男の様子を見る限り、事実の裏に何かもう一枚絡んでいると思わざるを得ないものを感じたのだ。
それに対して男は酷薄な微笑をすっと引っ込め、おどけたように肩を竦めて見せた。
「何も?あの人にはゲームの貸しがあるってだけだ」
「…ゲーム?」
「ポーカー」
「………」
男の言葉をその額面通りに受け取って良いものやら、さやかの瞳に微かな戸惑いが走る。
「最後の賭け金を頂いてねえからな」
男は最後にそう言って、花霞に煙る無機質な街並を見やった。
―――それは、とても懐かしげに。

小十郎より先にカフェから出た"さやか"は道端でタクシーを拾うとそれに乗り込んだ。
男はこの後1つ用事を片付けてから帰るそうで、約束の時間までカフェに居残るつもりだ。恐らく、クロサギの仕事を1つポンと言って始末を付けて来るのだろう。
そんな彼には緊張感など微塵もない。これから友人と飲みにでも行くような感覚で、人を騙す現場に乗り込む。
さやかは車中で、そんな男が眼鏡を掛け文庫本を広げていた様を思い出して、眉間に皺を寄せた。
彼女は、幼馴染みで5つ年下の無謀な若者へと思いを馳せた。
彼には悪いが、彼女は彼女の思惑で動いていた。他ならぬ18年前、伊達証券が自主廃業するハメに陥った真相を探る事だ。それがひいては、過去に縛られ、コン・ゲームの駒の1つに身を投じた青年を救い出す事になる、と信じての事だ。こうしてターゲットである片倉小十郎本人に密かに接触を図ったのも、政宗の仕掛けた詐欺をバラしたのも、18年前の当事者の1人である男の真意を探る為だ。
―――だが。
本当の意味で青年は危険な立場にあるのかも知れない。そう強く感じずにはいられない今日の会談だった。
政宗は、家族を路頭に迷う寸前にまで陥れた男を憎んで復讐を胸に誓った。だが、彼自身は他人を騙し傷付ける事を本来、潔しとはしない真っ直ぐな若者なのだ。
これで騙していた筈が騙されていた、と知った時、彼がどれ程傷つくのか。
そのような結果になるのは孫一の本意ではなかった。
男は自分が潰した伊達家の幼い子供が自分を憎み、詐欺に掛けていると知った所で驚く素振りどころか、後悔や贖罪の言葉も漏らさなかった。更には、さやかが演じる、伊達輝宗を悪し様に罵り、その絶望を喜びとして息子の破滅を望む女に対して、拒絶する事なしに、むしろ望む所だと乗って来た。
あれではまるで、男の方が輝宗に何か酷い仕打ちをされたようではないか。
だとしたらやはり今、小十郎の掌中にある青年の身も心も危険に晒されている、と言っても良いだろう。
孫一は、後ろに纏めていた明るい髪を振り解きながら溜め息を吐いた。
―――やはり、もう潮時だ。
手を引く為の仕掛けは佐助の言う1ヶ月限定商品の件で行けるだろう。だがもし、政宗の心の中にまであの男の"嘘"が入り込んでしまっていたら、それだけでは足りない。
何か別の手を考えなくてはならないだろう。

高い天井に相応しい広い学食堂には、生徒も教師も関係なく昼食を摂りに来ていた。
そこで上がる姦しい囀り声は、1つの騒めきとなってBGMの音さえ掻き消す。食器の触れ合う音、時折上がる甲高い笑い声、ガタガタ席を立つ音座る音。
それでも大学の全ての人間を収容し切れずに、外の木陰や芝生の上で弁当を広げる生徒の姿も少なくない。
「ここ、良いかな」
掛けられた声に箸を止め、目線を上げると見知った微笑が小十郎を見返す。
「どうぞ」と素っ気なくならない程度に返事を返した男は、食事を中断してスラリと美しい姿勢で席に着いた竹中半兵衛を見やった。
半兵衛がカウンターから運んで来たのは、季節替わりのパスタランチだ。女子に人気のそのメニューが成人男性にとっては物足りない量なのだと小十郎は思っていたが、このしゃなりとした助教授にはお似合いのようだ。


[*前へ][次へ#]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!