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―記念文倉庫―
1●
『月が奇麗だ』
シャワーの水で人工の雨を作り、聞こえて来るものを閉ざそうとした。
耳を塞いで、目を閉ざして。
少し硬めのスポンジでもう何度も体を洗っている。首筋、肩、腕、胸、腹、そして腰。
背中や腕を引かれるよりも、何故か腰を抱き寄せられた時の方が心を、心臓をこう、しわくちゃにさせられたような気がする。男が、自分の体重などものともしていない事を思い知らされるようで―――。
慌てて、ガシガシと腹回りから腰の辺りを擦った。
男のクセにやけに生白い肌はもう所々赤く腫れ上がって、打ち付けるシャワーの雫にすらヒリヒリとした痛みを齎している。
それでも、やめなかった。
男の掌の感触が、巻き付いた腕の熱さが、柔らかく纏わり付いて強く吸い上げる唇が、この肌の上に余す所なく残っている。それを消したくて、消えて欲しくて、ゴシゴシと何かに取り憑かれたように洗い続けた。
―――これは夢だ、と思おうとした。
四方を区切られた舞台を整え、その上に立ち位置を決めた役者を乗せて、定められた台本通りに、監督の指図通りに、"それらしく"動き回る、夢。それらは全て観客を騙すためのものだ。たった1人の客であり役者である人物を騙すために仕掛けられた大仰な、夢だ。
自分は役者の1人として巧く立ち回らなければならない。
けれど、その登場人物に頭の先から爪先までどっぷり浸かって体の内側まで染め変わってしまう訳には行かないのだ。
それなのに、

はっと気付いて身を捩るより早く、背後から腕ごと抱き竦められて動けなくなる。
「熱心に磨いてるんだな。俺の為だって思って良いのか?」
耳を食むように語られて、違う、という言葉を危うく呑み込んだ。
「…んだよ、びっくりしたな…いつ帰って来た?」
「今」
「………」
強張った身体から力を抜いたのを察して、男は拘束する腕を緩めた。その掌がミミズ腫れ一歩手前まで赤く腫れた腕を、二の腕を這い上がって来て、肩を包まれる。そのまま慰めるように優しく愛撫されて、胸の苦しさに歯を食い縛った。
耐える様は、濡れた髪の張り付くこめかみや頬の筋肉が動く事で男に悟られてしまっているだろう。それを相手が訝しく思い始める前に、青年はカードを一枚切った。
「あのな…俺は風呂入ってんの。あんたは服着たまんまだろ。帰って早々盛ってんじゃねえよ―――後でたっぷり」
「今すぐが良い」
「―――」
男のたった一言に、駆け引きの為のカードは呆気なく吹き飛んでしまった。
濡れた背中に濡れたシャツを押し付け、耳の後ろで深い吐息を1つ2つと繰り返される。
こう言う場合は容易に男の誘いに乗ってベッドインした方が良いのか、それとも、もう少し焦らして(この胸の動悸が納まった所で)日常を営んだ方が良いのか。それで得られる"効果"はどのように違うのか。必死にそれを考えようと思ったのに、両肩から滑り落ちた男の両手が指先に、まるで指先そのものが体のように絡んで来て、そのままそっと胸元を包まれた。
そしてまた、唇の先で耳朶を食みながら言うのだ。
「お前が1人でシャワー浴びてる背中が俺を誘ったんだ…ちったぁ自覚しろ…」
「………っ」
その前に気配を消して風呂場に忍び込んで来る奴があるか、そうした文句も言葉にはならなかった。体中のそこかしこに優しく残酷に刻まれた男の気配が忽ちの内に襲って来て、まだ何も具体的な事をされた訳でもないのに体が震えを覚えてしまっている。
心臓が痛い。
傷付けられた訳でもないのに、そこから血がポトポトと溢れている。
吐き切った息が再び吸えない、―――苦しい。
青年は、自分を包み込む男の手を取って、少々乱暴に引っぱった。
思った通り男は今朝、青年が選んだブルーストライプのシャツを着たままで、その生地を透かして逞しい筋肉の隆起を見せていて。青年の意図を素早く汲み取った所で、彼が導くより早く既に兆していたそれを掌の中に包み込んで来た。
「……っあ…」
「政樹…」
名を呼ばれ、身体の中で一番弱い部分(それは下肢のものだけじゃない)を握られ、体中の血潮が踊り狂う。
「ホン…トに、あんた…好きだ、よな…っ」
嘲弄の言葉は仰退いた顔に降り掛かるシャワーの中に掻き消された。
「ホントに」と男はその肩に顔を埋め、あえやかな皮膚に歯を立てつつ返した。
「手前で自分が信じられねえぐれえだ…」
そう嘯いた男が、ずぶ濡れになりながら手の中のものをより一層強く抱き締めた。

トルコタイルの極彩色の装飾に囲まれた風呂場に、不必要なぐらい良く響く自分の声を聞きながら、政樹は、自分に溺れろ、と心中何度も唱えた。
もっと溺れて、俺なしじゃ生きて行けないって思うぐらいになれ。そうなった時、自分の18年越しの復讐は成就する。多くの時間の積み重ねと、たくさんの協力者による助力とで、ここまで持ってこれたのだ。計画の中心人物である自分が動揺してどうする、と。
しかし、生温いシャワーの中で前を刺激されつつ、後ろから布越しの硬いモノを尻にぐいぐいと押し付けられると、矜持も理性も吹っ飛んでしまう。波打つ背中を緩やかに撫でられ、胸や腹を弄られると、腰を男のモノに押し付けて誘わずにはいられなくなる。
まるで、
―――自分の方が溺れそうだ。

前戯だけでぐったりする程悶えさせられて、シャワーに当たる事に飽きた男に一息に抱え上げられて寝室に直行した。
マンションの外見は街並に埋もれてしまうぐらい素っ気ないコンクリート製だが、内装には素材感を生かしたデザインがなされ、家具が配置されている。
打ちっ放しの壁は外観と同じカラー。そこに黒い木枠を絶妙のバランス感覚で組み立てた収納棚の数々を設置し、とても良く読み込んである書籍が乱雑にならない程度に並べられている。
テーブルのガラスの天板を支える足はシルバーステンレス製の骨格。それが鏡のように磨かれたフローリングに毛足の長いラグマットを敷いた上に据え置かれ、また日差しを背にして寛げるソファはリネン生地の微妙な陰影が美しいナチュラルテイストだ。
夜の今は、天井の間接照明の他に同じリネン生地のシェードランプが灯るのみ。
全体的に無骨で男らしく冷たいモダンシックな雰囲気を与える部屋だが、柔らかい照明のお陰で穏やかな気配に満ちている。
そこを素通りして至った寝室も、同じようなものだ。
ちなみに、政樹にも自分用の部屋を与えられているのだが、そこは余り使われた事がない。
ゲームが好きな青年のその部屋は、何処のゲームオタクかと言う程様々なゲーム本体やソフトにパソコンなどが散乱していたからだ。同棲するようになって一週間でこの有様かと男が呆れたくらいだ。
逆に、政樹が毎晩のように引っぱり込まれる男の寝室は、書斎も兼ねているので広々としていて何処か寛げる。格子戸越しの書斎からの灯りがダブルベッドの上に降り注ぎ、そこの主を待ち構えていた。
それへ、濡れた身体のまま放り込まれた。
思わず呻いて上身を起こせば、ベッドサイドに立った男が表情のない顔をこちらに向けながら水をたっぷり含んだシャツを、続いてグレーのパンツを脱ぎ去って行く。
その挑むような、殺されそうな鋭い瞳。
それに釘付けになっていると手招かれて這い寄った。
ジョン・ガリアーノのボクサーパンツはアンダーウェアとは思われないようなスタイリッシュなものだ。その、とんがったモードを貫き通すデザイナーズブランドを捩じ伏せるように着こなす男は、その時ブランド・アイコンよりも冴え冴えとして官能的で見る者を痺れさせた。
そして、彼のそんな様を見せつけられるのは自分だけなのだ、とこの瞬間思い知らされる。
有無を言わさず頭を掌で抑えられ、その黒い生地の直前まで押しやられれば、奴隷のように奉仕の気持ちに突き動かされる。
手は使わずに顔を寄せて、舌を伸ばした。
触れるまでもなく、中のものは既に生地を突き上げテントを張っている。
男を罠に嵌める瞬間まで、自分がこんな事をするようになるとは夢にも思わなかった。今更のように毎回そんな思考がちらりと過り、消えて行った。
生地の上からそれに舌を押し付け、唾液を絡めてやわやわと愛撫するのにも、もはや戸惑いはない。下着が湿り出すと男の滲み出したものの生臭い匂いが鼻腔を満たして、それを頬張る事さえ厭わない。
―――俺に溺れろ…。
そう性懲りもなくまた思いながら片目だけを上げて男の顔を見上げると、そこに溢れ出そうな欲望を讃えた男の双眸があった。
頭の上に乗ったその手が、何の気もなしに青年の黒髪をゆるゆると掻き混ぜる。頬をくすぐる毛先は、それも、男の愛撫だ。
政樹は唇の間で食んでいたそれを離し、ショーツの端を噛んだ。
―――俺に溺れて、死んでも良いってそう思うぐらいになれ。
噛んだそれを、く、と引っぱれば鼻先に赤黒く腫れ上がったものが勢い良く飛び出した。
意地悪で、歯に挟んだ生地を離してやる。
べち、
と言って鈍い音を立ててショーツのゴム部分が男の睾丸を叩くと、その腰が揺れた。
お返しとばかりに後頭部に回った掌が、問答無用で政樹の顔に立ち上がったそれを押し付けて来た。熱い温度でぱつぱつに漲った堅さと、そして先走りに濡れた雄が頬や鼻や唇に、これでもかと押し付けらて。
こんなに卑しめられているというのに、政樹は、先程風呂場で一度解放した筈の自分の下半身が甘い疼きと共にドクドクと脈打つのを感じていた。
手は使わずに。
振り回される男の凶器に舌を伸ばして、べたりと舐めた。
手は使わずに。けれど自分に触れてはイケないと言う法はない。だから片手は己の胸の粒を摘み、もう片方の手はベッドの上で胡座をかいた中央でそそり立った自分のものに伸びた。
それに気付いたらしい相手の顔に、初めて表情らしいものが浮かんだ。口の端を歪めて、それは底意地の悪い笑みのようなものを刻んで、今にも舌なめずりしそうな程、欲に塗れた表情。
それを見た政樹も負けじと大きく口を開いて、頭からすっぽりとそれを咥え込んだ。更に後頭部を押し付ける力が強まり、喉まで受け入れる。
―――溺れろ、俺の筋張った体なんかに欲情しやがる下卑たクソ野郎が…。
口から溢れそうなそれに口腔内を刺激されて自慰に励む自分を棚に上げて、青年は男を貶める罵詈雑言を心中吐き捨てる。その事が逆に、男の雄に対してねっとりと濃い愛撫を施す事になっているとは自身気付かずに。

結局その夜は夜明けまで断続的に続いた扇情行為で過ぎ去った。


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