[携帯モード] [URL送信]

―記念文倉庫―

山王森の山小屋に信勝が戻って来たのはその日の夕刻だった。
美しい雪景色が朱を纏い、染み入るような濃紺の影の中へと沈み込んで行く中現れた信勝は、疲労困憊と言った有様だ。それでも、蓑笠に付いた雪塊を振り払い、囲炉裏そばの政宗の前に安座で威儀を正すと、何やら引き締まったものがその表情に窺えた。
「政宗様、ただ今戻りました」
「Wait. その前にお前、懐に何を持ってやがる?」
報告を述べようとした信勝の口を遮って政宗が厳しい顔つきになって質すと、彼は懐から小さな石の塊を取り出した。
「荒雄岳山頂にあった大物忌神の石碑の欠片です…政宗様?」
それを見た途端、口元を手で押さえてあまつさえ、顔面蒼白となった奥州筆頭を顧みて、信勝は小首を傾げた。だが、すぐ様その事実に気付いたようだ、はっと我に返るとそれを再び懐に仕舞った。
「これは…死人憑きに対する守り石になるのではと、不敬を承知で拝借して参ったのですが―――申し訳ありません…これは、一体どうしたら…」
その言葉に政宗は唸り、深々と溜め息を吐いた。
死人憑きに噛まれたのが原因としか思えないが、荒雄河神社の鳥居に近付けないばかりか、山神の石碑その欠片にさえ過敏に反応してしまう、己が肉体の浅ましさに歯噛みを禁じ得なかった。
「……いい…、それちょっと寄越せ…」
「しかし―――…」
淀む信勝相手に政宗はその右手を突き出したまま。
すごすごと信勝は懐の中を探ってそれを掌の中に取り出した。生きている政宗があの死人憑きと同じように神仏を恐れ、忌避すると言うのがどうにも信じられない気もした。どうか気のせいであって欲しい、そう願いつつ爪の先程のそれをそっと政宗の掌の上に乗せた。
「―――!!!!!」
それが触れた途端、彼の体が帯電した。
コントロールし切れなかったものが山小屋の柱や天井をバシンと言って砕いた。
「筆頭!!」
「寄るな!」
頭首の一喝に腰を浮かしたまま良直たちは固まった。
「…寄るんじゃねえ…」
苦しげな呻きを零して政宗は、手にしたそれを掴んだまま身体を丸めた。
自らの属性で体内に巣食ったものを叩き潰すより激しく、無慈悲に、大物忌神の石碑は邪なものたちを食らい尽くしているようだった。それが、炎のように灼熱の勢いを持ちながら、稲妻を擁した嵐のように壮絶にして、更には真冬の雪と氷の如く氷柱の冷気をも孕んで政宗の身体の中で暴れた。
だが、
「―――痛みなら、慣れてる…」
青年はそう呟くと、握り込んだ右手を懐に抱き締めた。
彼から放たれるイカヅチはむしろ、自らに苦痛を齎す石碑を敵と判じた為に発生する条件反射だ。政宗は、その本能とも言える自己防衛行為を力尽くで抑え込みつつ、大物忌神が暴れ回るのに任せた。
端から見れば放電は止んだが、ガタガタと異常なまでに震える政宗の様は尋常なものではなかった。その伏せた面も戦の最中で見せる鬼気迫るものを凌駕していて、悪鬼の形相とも呼べるものだった。
信勝も、良直たちも、黙って見ているより他ない。
外に敵がいるなら共に戦えるが、内に巣食うのであれば政宗ただ一人だけが立ち向かえるのだ。そして、そうした孤独な戦いは彼の人生全てを貫いて存在し続けていた。

やがて、それが終わったのは唐突だった。
政宗が毛を逆立てて神威に耐えていたかと思えば、ふっと音もなくその威圧感が消えた。政宗は呆然として抱え込んでいた掌を目の前に開き、そこで粉々に砕け、僅かな砂となった石碑の欠片を見やった。
砂は、はらりと言って指の間から零れ落ちてしまった。
「…ひ、筆頭…?」と恐る恐る良直が声を掛ける。
政宗は舌打ちを零し、その手を打ち払った。
「俺自身の抵抗に耐えられなかったらしい…大物忌とは相性が悪いみてえだな…」
「―――…」
己が筆頭の言葉に返す者はいない。目の前で起きた不可思議に元より頭が追い付いていなかった。
「信勝」と政宗は阿呆面を晒している他国の臣を見やった。
「彗星は"ここ"に落ちたんだな?」
「…あ、はい…その通りです」
「死人を起き上がらせたのはその彗星だな。ガチで大物忌とぶつかった時にそこに内包されてた種みたいなもんが見えた。…何てこった、彗星が疫病を運ぶなんてただの迷信だと思ってたが―――」
「政宗様!!」
「何だ?」
「片倉様がその彗星の落ちた地獄谷へと…!」
ざ、と辺りの気配が変わった。
良直たちは腰の刀に左手を掛けたまま奥州筆頭の顔を振り向く。
「All-right. 死人憑きどもを根絶やしにしてやろうじゃねえか…信勝、道を指し示せよ。良直、俺の具足の用意だ」
「承知致しました!」
「了解だぜ、筆頭!!」
今正に彼らの意志が1つとなった瞬間だった。
彼らは既に降りた夜の帳をものともせずに、森閑とした雪山へと踏み出して行った。

小十郎は、荒雄岳の登山ルートを無視してその山腹に刻まれた切り通しを視界の隅に捉えながら山を下って行った。
八ツ森の雪山の東側を回り込む形になり、途中には杣人が通う細々とした林道も横切った。それ以前から谷間から沸き上がる水蒸気が寒風にもめげずに辺りを漂い、幽玄の世界を作り出していた。
見通しは全く効かない。
未だ夜明けを迎えていない中では雷光の届かない距離を見分けるのはさすがに難しい。その上で、地獄谷から登って来る濃霧は風に払われても払われても、切れる事がなかった。
それにしても、と小十郎は思った。
あの夜、彗星は燃えながら落ちて来た筈だ。この鬼首から遠く離れた仙台からもその光輝を見ることが出来た。軍沢で郡上が語った墜落の様子も、落下した場所を特定できるような光源があった事を指し示している。
だが、雪を蹴散らし、木々を薙ぎ倒し、地面を削って山腹を滑り落ちたその後に、燃え落ちた痕跡が全くないと言うのはどう言う事だ。積雪のために山火事にならなかったとは言え、だ。
それに、彗星が天空から直撃した荒雄岳山頂辺りが切り通しの出発点だとしたら、その威力は想像を絶するものであった筈なのに、大物忌神の石碑とその鳥居の周辺が多少吹っ飛んでいる程度の痕跡しか残っていないのも何故か。
政宗の言うように死人憑きが荒雄河神社を恐れているような事があり、信勝の言う通り荒雄河神社が穢れを浄めるものだと言うのなら。
―――彗星は、大物忌神に挑んで負けた?
状況はそのような事実があった事を指し示し、更には彗星と死人憑きが何らかの関係を持つものだとも説き明かし顔だった。
それらの意味する所は、何だ。
そのような考えを重ねつつ、山や谷を越えて道を急いだ。

そして、夜明け。
地獄谷の、特に片山地獄と呼ばれる荒れた大地が剥き出された谷間を望む峰に、小十郎は立っていた。
早朝の冷気の中、草木も生えない白茶けた谷底は、もうもうと立ち籠める湯気の狭間から見え隠れしていた。そこには丸裸の倒木が何かの生き物のように捻くれながら幾つも横たわり、黄ばんだ硫黄がこびりつく岩の間を縫って沢が流れる。それは煮え滾っているらしく、激しく水泡を吐き出し、湯気をくゆらせ、白濁した泥水を流していた。
地獄谷はそもそも地熱のせいで雪は積もらないまま蒸発してしまう。地獄と言う呼称もあながち間違った表現ではなかった。
小十郎は、自分の立つ峰が最後に大きく抉られた部分から大きな崖となったそこを駆け下った。
何やらむっとする生温い空気が押し寄せて来る。
雪原から枯れ草を踏むようになって、唐突にそこから地獄谷に足を踏み入れたのを知った。地面の質も変わっているらしく、骨を砕いて作ったもののように真っ白で、乾燥した砂利と岩を踏んだ。それに卵が腐ったような硫黄の匂いだ。思わず袖で口鼻を抑えた。そして辺りを見渡す。
峰を穿った向きから察するに、彗星の本体は低く淀んだ煙幕の向こう、地獄谷の最も奥で凄まじい勢いの白煙を立ち登らせている辺りに落ちたのだと分かる。
そちらへ踏み出した男の足が2、3歩で止まった。
朝日は明らかに力強さを増していて、地獄と呼ばれるこの場所を赤裸々に晒している。
何となく夜にしか現れないのではないか、と期待していた己を唾棄したくなった。炎に焼かれ、陽の光に何ともないのは人間も同じではないか。そして、"彼ら"も元は人間だった。
硫黄泉が煮え滾って立ち上げる湯気の壁を突き抜けて、姿を現した死人憑きたちの容姿は、それは見られたものではなかった。
朝晩通して零下から10度を上回る事のない雪山でならばその腐敗具合を止められ、あるいは遅らせる事も出来ただろうが、辺りには湿った生温い空気が漂う。沢の水源辺りでは100度近い源泉が溢れ出し、そこに迷い込んだ野生動物が白骨と化した屍を晒している事もあるのだ。
凍っていた肉も文字通り蕩け出し、蛆虫をわき立たせて流れ落ちる。野良着の中に溜まった内臓が歩を進める度にチャプチャプ音を立て、剥き出しの手足から肉片がずり落ちる。
襲って来る、と分かっていても刀に掛けたくない連中だった。
「大物忌神に爪弾かれた彗星を護衛する守り人にしちゃあ…お粗末な連中だな…」
選り好みをしている場合じゃないか、と思い直した男は、皮肉に口元を歪ませながら右腰の愛刀をスラリと言って抜き放った。
「全ての根源はその奥に落ちてる彗星だろう…。跡形も残さず粉々に砕いてやるから、そこをどけ…」
谷底を冷たい強風が吹き渡る。
一薙ぎ、払われた白い湯気に押されるように、白濁した目をぎょろつかせて死人憑きたちがぎくしゃくと歩み寄って来た。
動きの鈍いそれの手足を切断し、首を刎ねる事は男にとって造作もなかった。凍り付いて粘土状の肉塊となっていた雪山での遭遇より、その身は柔く脆くなっている。
小十郎の無駄のない斬激が空を切る音を立てる度に一体、また一体と崩れ落ち、動きが取れなくなった。
やたらとうじゃうじゃ群れる異形の者どもの間を縫って駆けた小十郎は、湯気の壁を抜けた所にあった開けた場所に出た。
そここそ不毛の大地が広がるかつての火山の噴火口に当たる場所で、既にすり鉢状になっている所へもって、更に深いクレーターが出来ていた。そしてその谷底には沸騰する湧き水の中、蜂の巣状に穴だらけになった黒っぽい塊がぽつんと落ちていて。
ち、と男は盛大な舌打ちを漏らした。あんなちっぽけなものの為に振り回されて、大事な主と言う人を危険に晒すハメに陥ろうとは。
そこへ駆け寄ろうとした背後でおぞましい気配が湧いた。
反射的に振り向き様、突き上げた刀の切っ先が、崩れかかった腐肉の厭な手応えを伝えつつ突き刺さる。そのまま空中を一旋させて地面に叩き付けると、間髪入れず首を刎ねた。
だがその時、喉に刺すような刺激が走って思わず咳き込んだ。
よろけた男が踞って隙が出来る。
それへ容赦なく、新たな腐肉の塊が襲い掛かった。
小十郎は一体を横に避け、更にもう一体を蹴りやりつつ、死人憑きの群れから大きく飛び退った。




[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!