[携帯モード] [URL送信]

―記念文倉庫―

荒雄岳の山頂はその夜、風こそ強く吹き付けて来たが星さえ見て取れて至極穏やかだった。
機嫌の良い山、悪い山、と言う風な言い回しを山男たちは使うが、この荒雄岳は名前とは打って変わって比較的機嫌の良い山と呼ばれる事が多かった。
「近隣の山々が嵐でも、この荒雄岳はほのぼのと晴れ渡っている事が多いのですよ。麓の杣人や百姓が敬愛して止まないのもその性質のせいでしょうね」
暖かい雑炊を腹に入れ、焚いた焚き火に暖まった信勝は自分の口が軽くなるのを感じながら、そんなとりとめもない話を相手に語って聞かせた。
「山頂のあの社、そこまでの道も年に数回は刈り払いをされて参拝する者も絶えた試しがありません。…片倉様は雪に埋もれていた刈り払いの道を、良く見つけられましたね」
そう問われて、小十郎は身を揺すった。
「こう見えても、百姓と共に山野に田畑を切り拓いたりする事もあるんでな。立ち木の、雪の上から見えてる所に微かに人の通った痕跡が窺えた…それだけだ」
「片倉様が、田畑を…?」
「野に紛れると民草の声が聞こえて来る、土を弄っていると国の健全さも分かって来る。…と言うのもあるが、殆ど道楽でやってる事だ。政宗様も苦笑いしながらお許し下さっている」
雷を放ち、剣を振るう姿からはとても想像出来ない話に、信勝は暫く言葉を失っていたが、やがてふと息を吐いた。
「…何と言うか―――」
「何だ」
「自分と言う人間が酷く薄っぺらな気がして参りました…」
小十郎は、信勝から借り受けていた携帯用の小さな椀を傍らの雪で軽く拭うと、それを相手に返しつつ問うような眼差しを向けた。
それを軽く会釈しつつ受け取った青年が、言葉を継いだ。
「我が主の小泉は取るに足らない小地頭ではありますが、この奥州の地では名門と歌われた大崎氏の凋落を見て来ました。それに巻き込まれまいと、安易に滅びを迎えまいとして来た父や祖父…多くの先達たちの苦労を私も幼いながら、ひしひしと感じて参りました」
「―――…」
「群雄割拠の世、策謀を巡らせ、より多くの情報を収集する。趨勢の機微を読んで、果断に富んだ行動を選び取る―――それだけでは、駄目なのですね」
「何を落ち込んでるのか知らねえが…」
小十郎はそう言いながら、手元にあった小枝を幾つかにへし折って焚き火の中に放り込んだ。
「至らない所があるから人は皆必死になって生きるんだろうが。完璧な人間だったらお釈迦様の側で横になってりゃ良い」
捨て鉢、とも言える男のその台詞に、信勝もつい笑ってしまった。
「それは抹香臭くていけませんね。私も未だこの世のあれこれに未練がある」
「…もがいて、もがき苦しんで、未練と煩悩に振り回されて、それで良いじゃねえか」
「片倉様もお苦しいのですか?」
「あ…?」
「あのように激しい怒りを抱くと言う事は…」
「―――…」
黙り込んだ横顔を見せる男に向かって信勝は慌てて頭を下げた。
「いや、これは立ち入った事を申しました」
「苦しいと思った事はねえな」と男は信勝の言を無視して呟いた。
「それを感じたいのかも知れねえ」
「………」
沈黙が降りて、山際を通り過ぎる風が枯枝の間で細い悲鳴を上げた。焚き火の炎は優雅にはためいて火の粉を蒔き散らしたが、それも納まるとやがて小十郎は立ち上がった。
「このままここにじっとしてちゃ尻から凍り付きそうだ。俺は行くぜ」
つられて立ち上がった信勝は、意味もなく深々と頭を下げた。それに対する言葉も無いままで、男は、雪に埋もれた斜面をざくざくと踏み分けつつ下って行ってしまった。
蒼白いイカヅチが灯る。
それが彼自身の激しい魂の息吹のように、焚き火の炎の届かぬ闇の中、微かに揺れながら遠離って行くのを信勝は黙って見送った。

再び焚き火で暖まろうとする前に、信勝は拾い集めた大物忌神の石碑の欠片を、直ぐ側の荒雄河神社の社前に積み重ねた。
社は、山毛欅の大木に囲まれた中ひっそりと、信勝の手にした松明の炎に照らし出されていた。大人の胸元辺りまでしかないそれが、奥州一の宮だとは余所者には思われなかっただろう。だが信勝には分かっている。荒雄河神社は詰まる所、それに囲まれた山々全てをご神体としている事を。
そして、その奥宮のひっそりとした佇まいこそが救いなのだ、と思った。

       *
小さな宇宙で、小さな星で、蒼白い草原は変わらず揺れていた。
そこは幼い自分と傳役の約束の地、苦痛の炎が燃え上がる煉獄の直中である筈だった。
けれど、熱を出す度見る夢の中で、彼の傳役は1人ぽつねんと立ち尽くし、梵天丸の姿を見つけるといたたまれないぐらい哀しそうな表情を見せるのだ。何故自分が彼にそんな表情をさせるのか分からない梵天丸は、その姿を遠くから眺めている事しか出来なかった。
この世に2人しかいない小さな星で、自分と彼は"1人きり"だった。

幼な子が、自分より10歳年上の傳役の中に同じ煉獄を抱えているのだ、と思ったのはほぼ直感だった。それを自分の乳母であった女、傳役の義姉である喜多に不器用ながらにもこう問うてみたのは、右目を切り取った傷が完治してからの事だ。
『小十郎は流行病にかかったことがあるのか?』と。
それへの返答は意外なものであったし、成る程と納得の行くものでもあった。
『あれは、幼い日に二親を流行病でなくしております、梵天丸様…。そう、貴方と同じ疱瘡によって』
ぽつりぽつりと喜多はその当時の事を語った。小十郎が4つの頃で、梵天丸が病で命を落としかけたのと奇しくも同い年の事だ。
その当時も大流行とまで行かなかったのは、領主である伊達氏が触れ書きで疱瘡への注意喚起を怠らなかったためだ。こう言った症状が出る、余人はその吐瀉物や排泄物に触れてはならない。傷口や瘡蓋にも触れるな。一度罹って治った者でも他者との接触は控えるよう。そして、罹患して死亡した者の屍体は残さず火葬にて処理する事―――。
予防接種の類いなど未だ発見されていない時代の話だ。治療法は存在せず、患者を隔離しその蔓延を防ぐと言った通り一辺倒の方策しか取られなかったのは致し方あるまい。
小十郎の両親も患ついて、誰も世話する者のいない屋敷に蟄居するよう伊達から沙汰を下された。酷な処置だ、と糾弾する訳には行かなかったろう。生きている者を守らねばならない。
それは、片倉夫妻も同じ心持ちだった筈だ。
義姉の喜多と一緒に片倉の長男・重継の元に身を寄せていた小十郎が、親恋しさ心細さに押されてたびたび封鎖された自屋敷に忍び込んでは、当の両親に追い払われていたのが何よりの証しだ。
その出火は、そうやって幼な子が誰もいない屋敷で、両親の為に何ものかを煮炊きして滋養を付けさせようとした果てのものだった、と比較的良心的に断じられ、咎め立てもなかった。
片倉の城下屋敷は全焼したが、周辺に炎が燃え広がる前に自然と鎮火していたのも、その伊達家の判断を批判する向きが出て来なかった要因の1つだ。
喜多は、姿の見えない幼い小十郎を探してすぐ様片倉の屋敷に飛び込み、これを救い出した。
出火したての頃ではない。
火勢はその寝室である離れと母屋を灼き尽くし、もはや鎮まりかかっていた。その中で、燃え崩れそうな奥の間で、小十郎は1人ぽつんと立ち尽くしていた。
目の前には原型も留めない煤となった両親の寝床。
喜多を振り向いた子供には火傷の痕1つなく。
女は訳の分からない悲鳴を上げるとその子を抱きかかえて表に飛び出した。
『あの子は…両親が生きながら焼け死ぬのを見ていたのでしょう…』
喜多はそう言って言葉を切った。
その話を聞いた梵天丸が、事の虚実がどうあれ、胸を塞がれて泣き出してしまったのは無理からぬ話だった。子供には刺激の強い話だったし、本人こそが正に疱瘡と言う病の地獄のような苦しみをその小さな胸に刻んでいるのだ。
それを慰めながら女は言った。
『この事は他の者に話した事はございません…。梵天丸様ならあの子が胸の裡に抱えた闇を分かって下さるものと…信じておりました……』
そうして共に泣く事を嬉しい、と言った。

正直、梵天丸には己の傳役の心が分かったとは思えなかった。
こうして蒼白い草原に佇む時、いつもそれを痛感させられる。ここには来るな、と無言で言われているような気がして仕方なかった。
彼が、この小さな宇宙で、小さな星で眺めているのは、記憶も曖昧になる程幼い日の火事の様だったのだろう。寝床に伏して醜い痘痕面で血と膿に塗れて呻く両親が、それよりも優しく炎に包まれて一握の灰となって行く様なのだろう。
梵天丸には、ただただなだらかな草原にしか見えないそこで、それを思って、傳役の遠い背を見つめながら頬を切る雫の冷たさを感じていた。
       *

政宗はゆるやかに、穏やかに、眠りの淵から浮上した。
見上げた天井には囲炉裏から上がる煙を受けて黒く煤けた梁が重苦しく横たわっていて、煙を逃がす間口からの陽の光を受けて白濁して輝いていた。
上身を起こせば、体内で争っていた異物らも静まり返り、眠りに就く前の気怠さも抜け落ちている。いや、気怠さと言うより、体の内側から凍るような寒気、悪寒だった。
具足下の鎧直垂を自ら纏いなおして山小屋の外に出れば、一面の銀世界が青空の元に白々と輝いていて眩しいぐらいだった。
「あっ、筆頭!!」
「筆頭ーゥ!」
口々に呼ぶ声が上がって、小屋脇の疎林の元を駆け下って来る己が重臣らの姿を捉えた。
「良かった!もうすっかりよろしいんですね!!」
「丸一日以上眠ってたんです、心配しやした!」
「腹減ってませんか?!俺たちで野兎を獲って来てあるんすよ!」
自分の周囲に群れて、真っ赤な頬を更に紅潮させて囀る連中を、政宗は苦笑と共に出迎えた。丸一日、などと聞き捨てならない単語も聞いた気がするが、気分が良いので流す事にした。
「小十郎たちは?」とその代わりに気になった事を尋ねる。
「いえ、まだお戻りになりません…」
応えた良直は難しい顔をする。それ程遠い道のりではなかった筈だ、政宗もつられて顔を顰めた。
晴天の元で重苦しくなりがちな空気を悟って、不意に文七郎が顔を上げた。
「筆頭、佐馬の奴が助っ人連れてこの鬼首に到着したようです。方々で2、3の狼煙が立ったのを見つけやした」
嬉しそうに報告する文七郎のその言葉が唯一明るいニュースだった。
政宗たちが林道を外れて山中に踏み入ってしまった事を知らない佐馬助が、岩出山城からの手勢を引き連れて戻って来た事を知らせるには狼煙は最も適切な手段だろう。
「そうだ、それで俺たちの居場所を佐馬に伝える為に、そこの尾根で狼煙を上げてたんでさぁ」
続けて明るく振る舞おうとする良直の言に従って視線を上げれば、今さっき彼らが駆け下りて来た疎林の向こう側から、灰色の細い煙が風もなく真っ直ぐと立ち昇って行くのが見えた。
まるで野辺の送り火のようだ、と思ったのはおくびにも出さなかった。
「兎肉があるって?」とただ野趣溢れる凶悪な笑みに口元を歪めて、政宗は、己の体力を回復させる事に意識を向けた。




[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!