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―記念文倉庫―

己が主従が囲炉裏端から下がって行ったのを見届けた良直たちは、鍋を掻き込む箸も止めて仲間内だけで顔を見合わせた。
流行病、と聞いた時の小十郎の過敏に過ぎる反応の理由を知っていて、その心中を思い遣る心持ちからだった。
「信勝、手前なんで流行病の事黙ってた?」と真っ先に信勝に絡んで来たのは良直だった。
「いや、隠していた訳ではない…。彗星の落下と流行病とをどうやって繋げて考えたら良いと言うんだ?」
それでも信勝の台詞は言い訳がましかった。
「………ちっ」
良直はしかし、それ以上突っ込んだ発言をしなかった。
他でもない、彼らの筆頭たる伊達政宗が右目をなくす原因となったのが、疱瘡と呼ばれる悪名高い流行病だったからだ。
奈良平安の頃は、日本の民草の人口が激減する程の大流行を見た事もあったが、戦国時代にはその趨勢は衰え、滅多に見られるものではなくなった。そんな中で政宗が疱瘡に罹ってしまったのは貧乏くじを引いた、と言うのでは片付けられない悲運であったと言える。
それが別種のものらしいとは言え、つい数ヶ月前に流行病の起こった地へ足を向けさせてしまった、と片倉小十郎が怒りにも似た慚愧の念を抱くのは良直たちにとって想像に難くない。
政宗の病の事は対外的にも自明の理だ。信勝も当然知っていただろう。
鬼首の地に流行病のあった事を知った時、政宗が動かないのではないかと言う計算が小泉の家臣の中に働いたのだ、と良直たちは推測していた。そして、それはあながち邪推とも言えなかっただろう。
途端に食欲が失せた良直たちも箸を置くと、皆黙って席を立った。
政宗が伏す大座敷の控えの間に部屋を用意されていたから、とっととそちらに下がる事にした。

残された信勝と、それに心安かった郡上は、囲炉裏で爆ぜる炎を見つめたまま暫く身じろぎもせずにいた。
雪深い軍沢口の寒村は、冴え冴えと夜を深めて行くようだった。周囲に積もった雪が、森閑として僅かな物音ですら吸い込み、そして爪の先程の粉雪がさらさらと降り重なる気配を細く、遠く、伝えて来る。
「私は…我が領地の民を助けたかったのだ、郡上」と信勝は細く唸った。
「………」
「ご幼少のみぎりに、病に倒れられた事でそれを恐れる気持ちは分かる…だが、だからと言って終わった話にすらあのように過剰に反応されずとも」
「それは違いますな、信勝様」村人の長の役目を担う豪農は、責めるでもなくそっと言い差した。
「恐らく、前もって流行病の事を申し上げても伊達の殿様は御自らおいでになって下さったじゃろう。丸一日怪我の事を隠しておられたのが、何よりの証しではありませんかの?」
「―――…」
「家臣の皆様がかように殺気立つのは主君を思っての事。怖じ気づいたのとはまた話が別じゃ。信勝様、きっと伊達の殿様は佳き道を指し示して下さるものと儂は思いますぞ」
やんわりと、まるで父親のように嗜められて信勝は薄く溜め息を吐いた。
「そうだな…」
今は、伊達政宗とその家臣の力に縋るより他なかった。それを信じないでこの事態の打開は有り得ないだろう。

具足を解いて休まれよ、と言ったのに政宗はそれに従わず、篭手もサラシの上から嵌め直して褥に横になった。昨夜の死人憑きの襲撃が頭にあって、その用心の為だと言うのは言わずとも知れた事だ。
小十郎は、一抱えもありそうな大きな火鉢を褥の傍らに引き寄せて、赤く燃える炭を掻き起こし、主が冷える事のないよう気を配った。
その安座する膝の上に、政宗の冷えた手が乗せられると、思わず両手で取り上げていた。
「政宗様」
「…小十郎、お前も休め」
行灯を灯したままの大座敷で、横たわる主は微かに唇を動かして、言う。
その唇にむしゃぶりつきたいような、不埒な衝動を抱えながらも男は首を振った。
「こちらにて控えさせていただきます。政宗様は心安くお休みなされませ」
「………」
目を閉じたままの政宗の横顔が沈黙する。
再び彼が口を開いたのは、暫く経ってからだ。
「信勝の事、責めるんじゃねえ」
「―――…」
「流行病に怖じ気づいてんのはあいつの方だ。俺はもう克服した。…な、だから、そんなに心配すんな」
「でしたら…っ」思わず吐き捨てようとした語尾が震えた。
「…でしたら…死人憑きなどに噛まれるような真似は控えて頂きたい…」
「―――悪かったよ…」
不貞腐れて応えながら、政宗は己が腹臣を振り返った。
「…枕の位置が合わねえ、直してくれるか」
そうして、そんな些細な甘えを見せる主に、結局小十郎と言う男は適わないのだった。膝を進めて身を乗り出し、片手で青年の頭を抱え込むと、その下の高枕の位置を調整してやる。その時、夜着の下から主の左手がするりと伸びて来て、男の陣羽織の襟を引き寄せた。
とす、と言って小十郎は上体の落下を畳に突いた右手で止めた。触れ合うギリギリで止まった鼻先に、淡い麝香の香り。
ぺろり、と口元を小さな舌先で舐られれば、それだけで堪らなくなった。
そのまま覆い被さるように抱き竦め、主と言う人の唇を思う様、貪る。熱の籠った口腔内に舌を這わせ、ぬるつく唾液を吸い上げ、その吐息すら奪ってしまう。
我が息吹、我が生命、我が世界の全て―――。
首筋に掛かる青年の腕の戒めがこの上もなく心地良かった。
けれど、今夜はともかく休んで欲しかった。惜しみながら唇を離し、その口先に短いキスを落としながら腕を放した。
「―――お休みなされませ」
男がそう静かに告げれば、
「ああ」
と主は頷く。

       *
政宗が疫病に罹った当時、小十郎は14の青二才で、一昨年養子に出された先から異父姉である喜多の元へ出戻っていた。
養子先の藤田家に血の繋がった嫡男が誕生したから、と言うのがその理由だが、実の所、体の良いお払い箱だったろう。
両親を早くに亡くした小十郎は喜多に引き取られて、そこで姉弟と言うより母子のように育てられた。文武両道に秀でていた喜多は、愛情をもって厳しく小十郎を躾け、何処に出しても恥ずかしくないように仕立てた。
そうして跡取りのいなかった藤田家に養子に出されたのだった。
だが、少年小十郎の中には埋め難い"欠陥"があった。
それが何なのかを早くから心得ていた少年は、剣の道に挽回を期すよすがを求めた。直ぐに剣の腕で頭角を現し、年頃の近い下士身分の子弟などとは比べ物にならぬぐらい、いや、戦で武勲を立てている立派な武将ですら二の足を踏むような域にまで早くに達していた。
欠陥―――それは生きている、と言う実感だった。
何かを見て感じてくっちゃべって、ものを食って排泄して寝て。そうした事のどれも生きているとは何だ、と言う心中の疑問に光明を差してくれるものではなかった。
今、踏んでいる地面も、領土を覆う蒼天も、誰が幻ではないと言い切れるのか。自分の今いるここが夢で、実は知らない誰かの想像の産物なのではないと、誰が保証してくれると言うのか。長閑な米沢の城下町の有様が、芝居小屋の書割りのように当時の少年には見えていた。
そうした中で唯一生きている実感と言うのを与えてくれたのが、真剣勝負だった。
文字通りの、鋼の刃で交わす生命と生命のやり取りだ。
生きるか死ぬかの瀬戸際で紙一重の運命をくぐり抜ける時、これが生きていると言う証しなのだと実感出来た。
気分の高揚、ひやりと人知れず冷や汗を流す瞬間―――そうではない。眩暈がする程の静謐の中、ごちゃごちゃと考え事をする己が消える。その時にこそ、鮮烈な生命と言うものを目の当たりにするのだった。

それは燃え上がる炎にも似て。

しかし、真剣勝負の時間は短か過ぎた。それを感じる暇もない程相手が弱く、呆気なく勝敗がついてしまう事もままあった。自然、少年は餓えた狼のように、己に生きている実感を与えてくれるような手練を求めて彷徨う事になる。
早く戦に身を投じたい、ともこの頃頻繁に思っていた事だ。
そんな有様だったから、藤田家も早々に厄介払いしたかった事だろう。
武勇無辺の武者は多いに歓迎されるが、血に飢えた餓狼は追い払われるのみだ。

その年の夏は例年に比べても酷い猛暑日が続き、梅雨が短かった事から旱魃の恐れありと早くから予測されていた。
想定外だったのは、ここ数代に亘って久しく見られなかった疫病がぽつりぽつりと報告されるようになった事だ。
歴史的に見れば疱瘡に限らず疫病の類いは、太宰府のあった九州、航海路の中継点である四国、人やものが集中する近畿、独自に日本各地や大陸と交易を行っていた越後、そして未だ注目されていなかった東海道に比較的多くの流行を見た。陸奥など北の奥地では、人口の少なさと寒冷地である為、他地域に比べるまでもなくその猛威に晒される機会が少なかった。
それは大概、"外"との交流がある場所で異国の民や動植物が齎される場所から先ず広がって行った。
その年の米沢の場合も、恐らく越後辺りから入って来た唐人、新羅人などの僧侶か商人が流れて来て、疱瘡は発症し始めたのだろう。強力な感染力と、発症した際の急激な悪化、そして症状の醜悪な現れ方は米沢城下の人々を皆震え上がらせた。
小十郎が城下町の一角から立ち上がる黒煙を目撃したのは、町外れにある川縁で1人剣の稽古に励んでいる時の事だ。
流れの中に腰まで浸かり、その水圧に流されぬよう剣を捌く。見えない水中下の足場はごろごろとした大石が転がって危うい。それを足の指で探り、掴みつつ、上身をぶらさずひらりひらりと身を翻す様は、地上で催すそれと寸分も変わりがなかった。
その目が立ち登る煙を捉え、我に返る。
―――火事…。
竃の不始末か、それとも寺での送り火か。そう思って眺めている間にも、立ち登る煙は太さを増し、天を塗り替えんとするような勢いに強まって行った。
「おい…何でも流行病に倒れたもんが寝てる家に火が点けられたってよ…!」
「何だって…?」
「隣近所の連中が自分の所に病が移って来やしないかって疑心暗鬼になって…」
「バカじゃねえのか?それで手前の家まで焼いちゃ本末転倒だろうが」
「どうせ疫病で穢れた家だ、焼いて浄めようって腹だったんだろう」
「…何てこった…巻き添えを食らった連中の身にもなれってんだ」
川から上がってずぶ濡れのまま、町を走っている間に耳に入って来たのはそんな会話だった。

疱瘡、屍体、焼く、炎―――

それらの単語に引っ張られるようにして、少年は火事場へと走った。



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