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―記念文倉庫―

荒雄河神社を過ぎて更に道を急ぎ、鬼首の集落に入った所で日が暮れた。
この辺りの開けた農村にも堆く雪は降り積もり、これ以上先に進むのは困難を極めるであろう事は予想に難くなかった。
羽後街道を途中で少し反れ、林道を北上すると鬼首(おにこうべ)温泉・吹上温泉などが現れる。そこを更に奥へと踏み入れれば荒雄岳への登山口がある八ツ森に至るが、道中はそれこそ雪に埋もれて道を見分けられない状態になっていると言う。
政宗たちは、鬼首温泉にある、信勝の主が保養地として使っている宿の1つにその晩は泊まる事にした。
保養地とは言っても、今日通り過ぎて来た鳴子御殿湯や鳴子温泉の宿場町とは比べるまでもない。宿はその一軒きり。地頭侍が使うと言うより、民百姓に木樵などが真冬の無聊を慰める程のものでしかなく、雪風をしのげて暖が取れれば御の字と言った具合だ。いや、粗末なものとは言え、作り立ての粥や山菜漬などを食らえるのも有難い事だろう。
政宗もその夜はさすがに濡れた具足を解いて、宿の一角に引かれた湯に浸かって疲れを取った。
明日は日の出と共に出立して、宿どころか民家も疎らな川上を目指して歩く。羽後街道は途中軍沢の辺りで荒雄河を反れて北上し、湯沢方面に向かってしまうので、後半は細い林道や、道なき沢を往かねばならない。そこからが本格的な雪道の強行軍になるだろう。
政宗が湯から上がって奥座敷に戻った時、小十郎は信勝とこの周辺の地図を覗き込んでいる最中だった。
「政宗様、ただ今信勝とこの後の行程を決めた所です」
と小十郎が主の顔を見るなり切り出して来た。
政宗も火桶の側に腰を下ろして地図を見やった。
「軍沢口までは街道を一日かけて行き、そこからは降雪の様子を見つつ3日で尾ヶ沢、高剥、上ノ台と巡り、岩入の辺りまで行ければ山崩れのある場所を見つけられるだろうとの事です。それより上流へ行っても、荒雄河の流れに影響が出る程の水源はありませぬ故」
小十郎の説明を聞いて、政宗はふーんと唸った。
見れば、荒雄河は荒雄岳の東方から端を発し、反時計回りに流れながら途中の支流を併せ呑んで、やがて荒雄岳の南方を南東にある大崎に向かって伸びて行く。その支流は、地図に書かれているものだけでも30以上にも上るようだ。荒雄河の別称である江合川(えあいがわ)は、江が合う(川が合流する)と言う意味でもあるので、名は体を表す、とはこの事だった。
これだけ懐の深い森や沢に降り積もった雪が、4月から始まる雪解けで一気に水量を増せばどうなるのか、と近隣の者たちが青ざめるのも頷ける。
「今の所、天候に恵まれているので晴天での道往きを想定しておりますが」
そう言って不意に言葉を切り、信勝はぴったり閉ざされた妻戸の方を見やった。
「今宵から荒れ模様になる、と宿の主人も申しておりました。天の気と相談しつつ参りましょう」
「Hum….」
暢気とも取れる若武者の言に、政宗は懐手で曖昧に頷いた。
天気が荒れそうな気配は彼自身も感じている。戦の趨勢を決するのは、やはり地の利と天の気、これに尽きる、と常日頃気を配っているからだ。
風の香りが変わり、靡いてカサめく雪片や枯れ枝に別の音が混じる。今も、山上を吹き渡って来た風がこの鬼首の地まで駆け下って来て、閉め切った妻戸を揺するようだ。
「政宗様はどうぞ奥の間でお休み下さい」と、静けさの中で小十郎が言った。
「わかった」
ただ何となく引っ掛かるものを感じながら、政宗は座を立ち、すかさず膝立ちになった腹臣がそっと引き開いた襖の奥へと姿を消した。
夜更けた雪景色の闇の中、何処かで雪庇がどさりざらざら、と崩れる響きを、かそけく届けた。

政宗が眠りに落ちる直前、襖越しに信勝のこんな言葉を聞いた。
「つい先頃、天空を駆けた彗星(ほうきぼし)がどうやら荒雄岳に落ちたとあって、近隣の民百姓たちは悪路王の首が再び降って来て災いを成すのではないか、と恐れているのです。…いえ、民よりもむしろ我が主や大崎氏の方が余程―――悪路王にしてみれば、我々施政者は侵略者に他なりませんから…」
悪路王。
平安京が華やかしき頃、日の本の国を統一すべく差し向けられた征夷大将軍・坂上田村麻呂と熾烈な闘争を繰り広げた蝦夷の首魁だ。阿弖流為(アテルイ)とも呼ばれる。それが坂上に首を刎ねられ討伐されると、東北の叛乱はほぼ鎮圧された。そして、ここ鬼首の地こそ、刎ねられた悪路王の首が落ちた場所と言われている。
ははあ、と政宗は褥の中に潜り込んだまま声も出さずに笑った。
ならば悪路王は奥州の覇者となった己をこそ目障りと思うだろう。冥府の底から復讐を果たしに来たか。面白い、ならば今一度、黄泉時の果てへと送り返してやろうじゃないか…。
そんな事を考えながら。
―――いや、
政宗にとって彗星は得難い宝玉だった。そしてそれがどのような破滅を齎すか分かっていながら、この掌中に納めたのだった。今回もし、悪路王が彗星の形でもってこの奥州の地に災いを運んで来たのだとしても、併呑してみせるのが伊達政宗と言う男の在り方だったろう。

眠りに就いた、と思った次の瞬間に政宗ははた、と左目を見開いた。
風の音が雪を舞い踊らせている清かな気配は変わらず続いているが、明かりを落とした隣室も寝静まってコソリともしない。少なくとも寝付いてから数刻は経っている筈だった。
静かに身を起こした所で「政宗様」と言う己の腹臣の潜めた声がして、襖がそっと引き開けられた。その向こうの闇の中には、手元に小さな手燭を灯して控える小十郎の姿があった。その佇まいは、例え自領内だとしても決して油断した事などないと言うように、隙のない鎧具足と陣羽織姿だ。
「敵方の間者か?」と政宗も声を殺して尋ね返す。
「分かりません。ですが、気配を隠す技には長けていないようで、この宿の外を徘徊する足音が幾つも。それも増えているようなのです」
「…この雪の中をか?」
手燭があると言っても酷く薄暗い中、進み出て来た小十郎は、政宗の枕元に丁寧に据え置かれた彼の鎧具足をはたはたと広げ始めた。
「雪国の人間は動かねばならぬ時は、雪がガチガチに凍っていようとも動きます故」
「そうだな…」
そうして差し出された鎧下の直垂を、政宗は夜着の一重を脱ぎ去って素早く纏った。
微かな明かりを頼りに隣の間を見れば、寝コケていた良直たちも身支度を始めているようだった。姿が見えない、と思った信勝はその時、屈んだまま妻戸を細く開け閉てして室内に身を滑り込ませて来た。
「どうも妙です…」
開口一番に零したのはそんな台詞だ。
「宿の周囲の薮や林にある人影…身を隠そうともしておりません」
「身を隠そうとしない?」
「どう言う事だ」
信勝のぼやきに伊達の主従が口々に問い質す。
「そのままの意味です。…この闇の中、曇り空で視界は殆ど効きませんが、人の足が雪を踏み分けたり小枝を折ったりしてうろうろする気配があから様で…。とてもあれは隠れているようなものじゃありません」
「村人とは違うのか?」と小十郎が重ねて問う。
「…少なくとも10人以上の人間が、この深夜に一体何用で参るでしょうか?」
政宗は己の前で篭手の紐を括る腹臣の横顔を見やった。返す眼差しに同じ事を考えているのを悟る。
「おい良直、明かりを点けろ」と政宗は隣室に声を飛ばした。
「は、はい!」
相手に隠れる意志がないのならこちらもこそこそする必要はない、と言う事だ。用事があるならこちらが気付いたと知ったと言って逃げ出す事もあるまい。火打石が打ち合わされて行灯の火芯に火種が灯った。それを良直は、丁寧に息を吹きかけ熾き火を燃やし、火勢を立てて行く。油を吸った火芯は間もなく煤を上げながら細い炎を立ち昇らせた。
その頃には政宗の身支度も終わって、六爪を腰に差して立ち上がっていた。
そのまま妻戸の前まで真っ直ぐ歩いて行く。奥州筆頭の行く手を阻まぬよう、佐馬助、文七郎、孫兵衛が慌ててその場を退いたので、政宗は一瞬も淀む事なく妻戸の前に立った。
そして、その端に指を掛ける。
戸の向こうの気配を探れば、確かに草木の擦れる音に不自然が混じる。一拍置いたその沈黙の瞬間に良直たちは息を呑み、小十郎は己が愛刀の柄に手を掛けた。
バン、と言って妻戸を破壊するぐらいの勢いで開いたのは、宿の離れに住む百姓らにも異変を知らせる為だ。
そうして、庭とも言えない薮や雑木林が天然の森に続く眼前には、明かりが一切ない漆黒の闇。行灯の炎が辛うじて届く濡れ縁と、直ぐ側の地面に固まった雪の塊が仄かに照らし出されるだけだ。
政宗は、焦点すら合わせられない闇の先へと意識を集中させた。
先ず捉えたのは信勝の言う通り、10人以上もの人間が雪を踏み散らし、薮を掻き分ける音だ。それが、突然開け放たれた妻戸からの明かりに不揃いに止まり―――。
そして、ぞろぞろと間延びした音を立てて近付いて来る。
本能的に、これは尋常ではない、と政宗は思った。
めらり、と燃え上がる小さな炎を見た気がした。それがゆらゆら揺れつつ近付いて来る。2つずつ並んだその蒼白い炎は、ほぼ人の背丈程の高さだ。
「小十郎、手燭を」と政宗は押し殺した声で自分の傍らに身構える男に言った。
さっと差し出されたそれを手に取り、目の前に放った。
そして、
それが空中で炎を閃かせ、地面に落ちて消えるまでの数瞬、見えたものに誰もが言葉を失った。
凍り付いた屍体、そう表現するしかないようなものが、奇妙に捻くれた手足で空を掻き、地面を引き摺りながらぎくしゃくと歩み寄って来るのだ。蒼白い二つの点は、眼球も蕩けてなくなってしまった眼窩から溢れ出すもので、あるいは剥き出しの歯の隙間から吹き零れる息吹のようなものだった。
「……なんっだ、ありゃあ…」と良直が食い縛った歯の間から唸った。
「来るぞ」
低く小さく注意を促す小十郎の声がして、それと同時に政宗は濡れ縁を蹴っていた。諌める言葉を吐く前に腹臣がそれに続く。
手燭の炎が雪の上で消え落ちる前に、相手の位置と頭数とを確認していた政宗は、六爪全てを抜くまでもなく、ニ刀のみをそれに叩き付けて行った。
相手は酷く動きが鈍い。
そして手応えも。
硬い泥を相手にしているようだった。具足を纏った大将クラスの武将でさえも、刃の一振りで真っ二つにする事が出来る政宗の手腕でも、その体の表面に刃を滑らせるのがやっと。
―――この手応えは…と政宗は気付く。
文字通り、凍った屍体はガチガチに凍り付いているのだ。
「政宗様!!」
淀んだ政宗の背後から迫る気配に向かって、小十郎の斬気が飛んだ。
それは政宗の頬を翳めて背後で肉と骨を断つ。
何か重いものが雪の上に落ちる音。
政宗は屈みながら身を翻した。
雪を蹴散らして迫る足音。
行灯の明かりが届かない闇の中で、訳の分からぬものとの死闘が展開される。
「筆頭!!」
「片倉様!」
良直たちが我に返って刃に手を掛け、濡れ縁を下って来る。それへ、
「止まれ!」と言う小十郎の叱責が走った。
「手前らは明かりを!その辺の木切れに火ィ付けろ!!」
夜目の効かない連中が闇雲に刀を振り回せば相打ちになりかねない。そうと分かると、これ又柄に手を掛け駆け出そうとしていた信勝が一早く、妻戸の一枚を蹴倒してこれに行灯の油をぶっかけた。
良直、佐馬助がそれを力任せにバラバラにし、適当な大きさになった所で火芯の炎を移した。
火勢が大きくなるのを待つ間も、頭首自らとその腹臣だけが闇の向こうで戦っている。
「早く早く…」
「おい、そっと仰げよ!」
わあわあやっている間に、宿の世話をしてくれる百姓の老夫婦が起き出して来た。
「あんたたちは近付くんじゃない!」と信勝に一喝されて、廊下の隅っこで老夫婦は腰を抜かして座り込んだ。
文七郎と孫兵衛が俄か松明を持って庭へと慌てて降り立てば、そこには理解の範疇を越えた光景が広がっていた。




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