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―記念文倉庫―

―――懐かしい夢を見た。
そう思いながら政宗は、褥の中で眠りと覚醒の間を心地良く行ったり来たりと繰り返した。
夜着の外はひんやりとした空気がひしひしと忍び寄り、懐に抱えた行火とそれの齎す温もりから尚一層出たくない、と思わせる。しかも、夢と現の間は今見た夢の余韻を貪るのに丁度良かった。
―――何故こんな懐かしい夢を見たかな…。
思考は枝葉を生やして漂い、そうだ、昨夜、庭を横切る廊下を渡る時に空を往くものを見たのだった、と思い出した。
城の広間で、良直たちと心置きない夕餉のついでのちょっとした酒宴を楽しんだ後、居室へと戻る廊下を渡りながら白い息を吐いた。仙台はまだ雪深く空気も凍るような寒さだったので、懐に手を入れ急ぎ足だった。それが、ほわ、と何処からか仄白い明かりに照らされて何だ、と顔を上げた。
北の山の端を横切るそれは、流れ星と言うには余りに派手で、余りに大きく眩かった。
白熱した炎を思わせる色をして、長く長く尾を引くものはその軌跡の途中で幾度か爆発したように強く光り輝き、やがて収束して行く。細い、赤い線になったかと思えば、それもまたすうと音もなく闇に呑まれる。
冬の夜空には、冬の星座だけが残された。
―――彗星(ほうきぼし)だろう。
そう思った。
古い文献に、そう言うものが空に現れると地上に厄災を齎すなどと言った記述があったのを覚えている。平安末期は人心も政も荒れていた上に天災も多かった。それがそんな迷信を生んだのだろう。
また、遠い外国の書物には面白い事が書いてあった。それは遠い遠い宇宙の彼方から星の欠片が飛んで来て、太陽の熱に溶け出して輝くもの、あるいは地球と言う人間の住む世界に降り下りる時、空気との摩擦で燃え出すもの、そう言った説明が成されていた。
驚くべき事にその書物によれば、今政宗たちが暮らしているこの地面は球形を成して凄まじいスピードで動いているのだと言う。動いて、あの天にある太陽の回りをぐるりと巡ってそれ一回が一年に相当するのだと。地球自体もまた回転していて、その一回転が一日だと言う。
成る程、世界はかなりアグレッシブに出来ているらしい。
地面が不動で天が巡ると言うこれまでの常識でも良いが、逆転の発想で天が不動で地が巡ると言う考え方も魅力的だ。
何となくそれは政宗が考えていた人間一人一人の胸の裡にある思考や感情、あるいは魂のようなものに似ている、と思えた。
思考は巡る、感情は彷徨う、魂は生滅を繰り返す―――不動の世界に対して。
うつらうつらした感覚が取り留めもない事を思い付くままに並べて行ったら、又しても意識は眠りの淵へと引きずり込まれて行った。
そこへ、居室の表から廂の間を渡って歩き来る気配がした。
気配がするな、と泡沫の思考の隅っこで捉えていたが、政宗は心地良い眠りへと雪崩れ落ちて行くのを止められない。
そうこうしている内に、廂の間の気配が直ぐ側の妻戸の向こうに立ち、衣擦れの音を清かに落とした。
「政宗様、お目覚めでございましょうか。もう午刻に近いですぞ?」
心地良い低音が更なる深みへと政宗を連れ去る。
今日は朝議がないから遅くまで寝てて良い、と言ったのはお前だろうに、そんな自分の声が心中のみで応える。
「…昨夜の彗星ですが、領内に落ちた模様だと早馬が…」
妻戸の向こうの男が言い掛けた所を、その妻戸がバン、と言って遮った。
「何処だ、小十郎!それより、その早馬は現場を見て来たのか?」
そう叫んで仁王立ちに立つ主人は、寝着のままで眼帯も付けず、ついでに夜着を頭から被っていたらしく、その黒髪にくっきり寝癖まで付けていた。
「…政宗様、先ずはお身支度を。玉造郡からの早馬は今、大広間の浅敷にて控えさせております故…。雪道を駆けて来たので休ませてあります」
男は、青年のあられもない姿に我知らず苦笑を浮かべながらそう告げた。

政宗のプライベートな居室から、家臣らが集まり政の庶務をこなす大広間のあるエリアへと渡殿を渡って行く。
政宗は息せき切って殆ど小走りに近い。
そんな主の後に付いて歩きながら、小十郎は浮かび上がる苦笑と共に淡い危惧も抱いていた。この分だと自ら見に行くと言いかねなかった。
浅敷は、使いの者や下男などが休憩しに来て茶や軽い食事などを嗜む場所だった。そこから大広間の更に奥にある書院へと、早馬を駆って来た使者を招き入れた。汚れた旅装だから庭へ回る、と固辞するのを、雪に埋もれて報告するつもりか、と言って構わず通した。
簾を下げただけの書院は真昼の光を浴びた雪明かりで白々と眩しかった。そこに火桶やら火鉢やらを並べて、政宗は長綿入れをぞろりと羽織った様で使者と相対した。
大崎領玉造郡から馬を駆けさせて来た男は、確かに軽具足に陣羽織を身に纏い、鉢金を額にきっちり巻き付けた旅装のままだった。それが、政宗の入室に合わせて叩頭する。
「玉造郡の地頭、小泉好継が家臣、熊谷信勝と申します。この度はご尊顔を拝謁する光栄に預かりまして、まこと…」
「その挨拶は長いのか?」と政宗は息継ぎの合間を縫って言葉を差し挟んだ。
「は…?」
「彗星が落ちたんだろ?どう言う状況だ」
長口上を体よく切り上げた政宗が早速本題を突き付けると、熊谷信勝と名乗った若い男は一瞬面食らったように言葉を呑んだ。だが、直ぐに相好を崩して見せる。そうすると、ただの若武者が意外な品の良さを漂わせた。
「噂に違わず心安いお方だ」
そう呟いたのを小十郎が聞き咎めて身じろぎした。
信勝はそれを気にも留めずに、好奇心も露わな政宗の顔貌を見つめながら、何処か好戦的な口調で事情を説明し始めた。
「彗星が落ちたのは大崎の本拠地から北西へ14里程の鬼首(おにこうべ)の地、荒雄岳周辺と見られます。ですが、登山道のある付近一帯が濃霧に包まれたまま朝になっても晴れず、確認する事が出来ておりません。また、その彗星の為か、鬼首をぐるりと囲んで流れる江合(えあい)川が何処かで起こった山崩れで塞き止められたらしく、羽後街道沿いにある宿場町に流れるその水が半減していて、いずれ鉄砲水になるのではないか、と付近の民が恐れ戦いております」
「Ha, それで?」と政宗は相手の用件が更に他にある事を問う。
「はい、我が主は大崎氏より小柴山・大柴山の両山城を預かり国境の警護に当たっておりますが、近頃、その国境より迫る最上氏の侵攻に悩まされていて兵を動かす事がままならず」
「それでうちに助っ人を頼みに来た訳だな」
「左様にございます」
会心の笑みを見せる信勝に対して、政宗は皮肉に歪めた口元を更に深めた。
「しかし…」とそこに待ったを掛けたのは、伊達の頭脳の一角を担う片倉小十郎だ。
「鬼首の辺りは周辺の高山に比べても積雪量が多く、4月もしくは5月にならねば山開きはままならぬと記憶しております。例えば、荒雄河に添って鬼首に行くにしても、軍沢(いくさざわ)まででしょう」
荒雄河は江合川の対外的な呼称だ。それが羽後街道と平行して流れる傍らに、温泉を抱えた宿場町が幾つかあり、やがて木樵らが山林の切出しを行なう軍沢の辺りで、街道は荒雄河とは別れて更に北上して行く。鬼首地方の4分の3までを反時計回りに流れて囲む荒雄河の、更に半分程度の距離だ。
小十郎は、この街道が通っている辺りまでしか人は踏み込めないだろう、と言っているのだ。
その、荒雄岳を主格とする鬼首環状盆地一帯は火山活動によって出来た凹地であり、荒雄岳の南東には荒湯地獄や片山地獄と言った地熱活動が活発に見られ、硫化水素を含んだ火山ガスを年中吹き上げている。荒雄河沿いに温泉が多いのも、そうした地理によるものだ。信勝の言った登山道に掛かる濃霧と言うのは、この地獄谷から吹き上げる水蒸気が活発になっているものと思われる。
「それに」と小十郎は続けた。
「玉造郡の領主は大崎氏。つい先頃、伊達に下ったとは言え、その大崎氏が己が領地の有事にここへ直接顔を出さぬと言うのは如何なものかと」
降雪の件に関してはともかく、この大崎氏に言及した小十郎の台詞に、信勝は苦笑いとも何とも言えぬもので表情を歪めた。
「大崎氏は正直…もう駄目です。最上氏への復権と伊達氏からの離叛とに失敗した後、家中は混沌とした有様。我が主小泉のみならず、葛西市、古川氏なども、その統率力のなさにそれぞれの采配で動いている始末です」
「おいおい、そいつぁ聞き捨てならねえなぁ?」
「まさか、災害の救援を願う体で、大崎氏への謀反に助勢を請いに来た訳ではないだろうな?」
政宗に続き、小十郎がその心中の懸念を信勝に突き付けて来た。だが、これには若い家臣も素で慌て、大きく首を振りながら応えた。
「飛んでもない!そんな事態になれば背後から最上殿がこれ幸いとばかりに攻め込んで参りますよ。今、内紛を露わにする時勢ではないと我が主も心得ております」
「ふん、狐のおっさんか…」
鬼首は確かに、その西の禿岳と花立山、小柴山などによって更に西に位置する最上領と境を接している。そこから最上氏の本拠地のある山形までは80キロ近くあるが、最上川を遡れば直ぐの場所に位置していて、更には大崎の本拠地とも鍋越峠を境として隣接していると言っても過言ではなかった。信勝の主らが最上氏を警戒するのも頷ける。
「今は未だ雪解けが進んでいず、荒雄河の氾濫を心配する必要はないかも知れませんが、もう暫くしたら雪解けは本格的になります。我々が心配しているのは、荒雄河下流の水の半減から予想される、雪解けが始まった時の鉄砲水や大洪水…これを放っておけば今夏の穀倉地帯における収益に大打撃を与えかねません」
荒雄河は1900年代の近年になっても、台風などで北上川水系における未曾有の大洪水を齎し続けた。1938年から始まった「北上川五大ダム計画」によって荒雄河に建設された鳴子ダムと、ダムの下流に出来た人工の荒雄湖とで利水灌漑がコントロールされるまで、近隣の住民を悩ませ続けた訳だ。
戦国時代の頃であるなら、尚更その水利に関して神経質にならざるを得ないだろう。
そして、他ならぬ政宗自身、仙台において石巻湾に注ぎ込む北上川、名取川、阿武隈川などの一級河川に対する治水工事に苦心させられている。
―――
雪解けを待って春になってから行動を起こすのでは遅すぎる。大崎氏に助勢を請うにも、当の大崎氏に家中を統率する力は既になく、背後で最上氏が虎視眈々と領土を狙っているのでは国境を動くに動かれず。
―――
これで自分が早馬を飛ばして来た理由に納得出来たか、と信勝は静かに据えた両目で伊達家頭首、奥州筆頭政宗を見つめた。
「……All-right. あんたの言いたい事は全て分かった」と政宗は言った。
「では」
「先ずは状況把握からだ。何処にどれだけの被害が出てるのか分かんねえままじゃ、俺ンちの兵を出す訳には行かねえ」
「………」
「おい小十郎、良直たちを呼んで来い」
「政宗様」
「道中もどうせ雪ン中だ」と政宗は傍らの煙草盆から煙管を取り上げつつ、言った。
「山ン中は言うに及ばず。そこを探索するにゃ少人数で乗馬の腕にも自信のある命知らずの連中が適当だろう」
「政宗様…」
諌める気力も萎えたか、小十郎は細い嘆息と共に主の名を呼ぶに留めた。
「信勝、あんたは荒雄岳周辺の地理に詳しいんだろうな?」
「それはもう」
「なら、直ぐに出立だ」
「は…?」
間抜けた声に、煙を吐き出した政宗はニヤリと笑いかけた。
「急ぐんだろ?」
この奥州の覇者は、動くとなったら文字通り電光石火の早業なのだ、と大崎家中の小地頭家臣は思い知る事になった。




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