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―記念文倉庫―
9●
その中でふと、義乃の目が例の老人の上に止まった。そして、彼が差し出して来た掌を両手で押し包む。
「あらぁ!ホテルではお世話になりました、ホセさん!」
ホセ、と言うと、どうやらラパス市内のホテルで匿われた時に一緒になった協同組合員の指導者らしい。指導者と言うより彼自身が一個の労働者であり、温厚な好々爺と言った有様だ。
「協同組合労働者と国営労働者、そして政府との三者協議がようやく始められそうです。市内も鉱山も惨憺たる有様ですが、一応の落ち着きを取り戻しましたよ」
タイミングを見計らっての小十郎の説明に、義乃はホセに向かってにっこりと微笑んだ。
「良かったですわねぇ、でも、本当の苦労はこれからかしら?」
「ラパス市内の軍部介入もギリギリでストップが掛かったしな」とは輝宗。
「そうなんだ」
意外だった、立ち去る車中で見たラパス市内を破壊するダイナマイトの火の華は軍隊にしか止められないと思っていた。
「お前たちのお陰、かな?」
「俺たち?」
同じ台詞を呟いて、兄弟は顔を見合わせた。その傍らで義乃が声を上げる。
「あら、もしかして…」と。
輝宗はスーツの皺を気にしながら1つ頷いた。
「邦人家族三人が今回の騒動に抗議してボリビアからの出国を拒否する、平和の為にラパスから退かない、なんて声明が国営通信から流されたら、国際社会はボリビアに軍隊を出せ出せってせっつきにくくなるじゃないか」
「は?」
「何それ???」
政宗と政道兄弟には身に覚えがない。だとしたら原因を作ったのは残る1人だ。
「だって…私たちを誘拐して人質に取ったって世間に知れると、ホセさんや小十郎さんが悪者になってしまうでしょ?それじゃ、ほら、三者協議に参加出来なくなるかも知れないって思って、あのホテルで手紙を書いたの。これをマスコミに渡して下さいって」
「勝手な事をして…」と輝宗は妻の独断専行をぼやいた。
「そんな事をしたら今度は日本のマスコミに叩かれるハメに陥るかも知れないってのに…。正義を振り翳してヒーローぶりたいのか、とか、国の要人を何人も現地入りさせて国政に迷惑を掛けただとか……」
「あら…そうなの…?」
叱られて途端にしょぼくれる妻の肩を、輝宗は軽く叩いた。
「まあ、そうなっても俺が守ってやるけどな…」
ぼそりと呟かれた夫の台詞に義乃はほっこり微笑んだ。
全く、この夫婦は何年経っても、どんなに仕事で離れていても万年新婚気分のようだ。見慣れているとは言え、政宗も政道も年頃だから直視するのが憚られた。
「まあ、ともかく中へ入って一緒にお夕飯食べましょう?」
「お前…居候の身分なんじゃないのか?」
「あら、構わないでしょ、少しくらい」
「あ〜俺も腹減った!」
「ホセさんも、さあ。お話窺いたいわ」
家族が連れ立ってモラレス家へと立ち去って行くと、他の数人の物見高い村人らも三々五々散って行った。その場には、政宗と小十郎、それからモラレス家の末っ子のジェコと羊たちが残された。
「…羊たちを家畜小屋に連れてかないと……」
政宗は多少ぎこちなくなりながら、ジェコに視線で促した。
この少年ははにかみ屋だったが政宗には早くに懐いた。政宗のカタコトのスペイン語を修正して、教えてくれたりする。
「手伝います」と、それを当然のように受けて小十郎は言った。
坂道を農耕地に向かって降りながら15、6頭の羊たちを追い立てて行った。
陽はまだ高いが、見上げた空には満遍なく大きな雲がゆったりと泳いでいた。お陰でさほど厳しい日差しにならずに住んでいる。うねる平原を渡る風は冷たく、そして何時も通り乾いていた。
「あなたの母上こそ、戦う術を知る戦略家でしたね」
そんな穏やかな声が背後から掛けられて、政宗は何だかむず痒くなる。
「母上なんてそんなご立派なもんじゃねえよ。ただの出しゃばりおばさんだ」
「それは酷い…」
返る言葉には緩やかな笑気が纏い付く。
それに誘われるように、政宗は男を顧みながら尋ねた。
「…怪我はもう良いのか?」と。
太腿を撃たれた筈だが、今荒れ地を歩く男の歩みには不安な所は1つもない。
「ええ。政宗さんの手首の傷も?」
「すっかり消えてなくなったよ。あんたの応急処置のお陰だ」
「………」
「…政道があんたの事、ターミネーターだって言ってた。知ってるか?ハリウッド映画のヒット作」
「勿論、…しかし血も涙もない奴と思われたのでしょうか?」
「違うよ。憧れるって」
「………」
ジャガイモの種芋を植えたばかりの畑は茶色い土を剥き出したまま、それこそ真っ平らな大地を晒していた。その傍らに立つ掘建て小屋へと順次、羊たちを追い入れる。これで仕事は終わったとばかりにそわそわし出したジェコに向かって「Ven a jugarcon!(遊びに行っといで)」と言ってやった。
すると、少年は糸の切れたタコのように大地を蹴って走り去ってしまった。
彼にはこの高地が4000メートル近い事など関係ないのだ。
それを見送って小屋の戸を閉める。
そうして振り向いた先、目の前に小十郎が立っていて、その左手が伸びて来た。
乾いた風に晒されて荒れた頬に指先が添えられる。
「日焼け、しましたね」
「ああ、まあな…」
ゆっくりと、もどかしいぐらいゆっくりと彼が近付いて来て、そっと腰を抱かれた。
問うような眼差しが落ちて来る。視線を外したくても外せなくなる。
そして耳元に唇が寄せられて、
「ちょっと車に籠りませんか?」などと囁かれた。

日産の4WDは、後部座席を倒すとかなり広いスペースが確保出来る。
リアウインドウにはスモークが貼られていたし、クルーザータイプの車体は完璧な深型の箱になった。
その中で、愛撫と口付けの嵐に見舞われる。
そうしながら政宗は一体自分はどうなってしまったのだろう、と思う。出会って間もない男にこうして体中を弄られて口付けられて、感じている自分は。
ラパスとエル・アルトを跨いで巻き起こった騒動の中でおかしくなってしまったのだろうか。人間、極限状態にあって重篤なストレスを受け続けると精神的に追い詰められて狂ってしまうものだから。
男の深い口付けに溺れそうになりながらそんな事を考えていると、静かにその唇が離れて行った。
「不安ですか?」と薄暗い車内で小十郎が問うて来た。
「…ん、いや―――何でこんな事になっちまったのか、ちょっと不思議で…」
「出会って間もないのに?」
「ん―――…」
「男相手なのに?」
「……ん、」
くすぐるようなキスが言葉の合間に降って来る。
政宗は茫洋となりながらそれを心地良く受け止めた。その様の何処が男の体に火を点けたのか知らないが、弄るだけだった彼の手がシャツを捲り上げて素肌の上を直接撫で上げて来た。
岩を砕くツルハシを持ち、ダイナマイトを仕掛ける荒々しい掌は、とても堅くて荒れていたが、それらが刺激となって青年の身体を震わせる。
彼のように強い男の前でなら、自分の柔くて傷つきやすい所を晒しても良いのだ、と思えた。それはこの男の為にあったのかも知れない。
彼が自分の服を掻き乱して行くのに合わせて自ら埃っぽいジャケットを脱ぎ捨て、分厚くて窮屈な毛織りのズボンを引き摺り下ろしてしまう。
何の隔たりもない状態になって、この男を感じてみたかった。
小十郎の唇が唇から離れ、首筋を辿り、鎖骨の窪みを何度も舐め上げた。
自分の息が自分のものではないようだった。男の熱い息に煽られて、肺の中に炎が灯る。
幾ら息をしても苦しいのは、やっぱり酸素が薄いからだろうか。
男はそれを気遣う素振りも見せず、カッターシャツも剥ぎ取ってしまった素肌の胸元に顔を寄せ、敏感な小さな粒を口に含んでしまった。
彼の服をも脱がそうとしていた政宗は、息を呑みながら、震える手から力が抜けて行くのを感じた。
男の生温い口の中でそれを転がされ、潰され、きゅう、と吸い上げられて、上がりそうになる声を唇を噛んで耐えた。
もう片方の胸の尖りに伸びた手が、皮膚感覚を逆撫でしつつそれを摘まみ上げれば、痛い程の刺激に思ったよりも高い声が溢れた。
そうやって力を失い、徐々に崩れて行く青年の身体を、男は背に添えた手で庇いながらシートの上に倒してやった。
床を蹴る足には脱ぎ切れなかったズボンが引っ掛かっている。それを小十郎はざっと抜き去って、両脚の間に身体を割り入らせた。
政宗は胸を弄くられながら男の腹に押し付けるように腰を突き上げてやった。意図的、と言うより、その最も弱い部分が疼いて腫れ上がって、小十郎にどうにかして欲しかった。
傷つきやすい所を彼に包まれて、彼と言う存在で埋め尽くされて、もし望むのならその力強い手でズタズタに切り裂いてくれても良かった。
何処かに叩き落として欲しい、とすら感じていた。
あの滴るような黄金色の野原を1人彷徨った時、政宗は幼くて孤独で無防備だった。誰も迎えになど来てくれなくて不安で、しかしそこはある種、最も安全な場所でもあった。
そこを自らの意志で出て、外界と接し戦う事こそ、緊張感を孕んだ綱渡りの日々だった―――。
「安全地帯に逃げ込むな」
いじめられっ子で泣き虫の長男が強く育って欲しいと、父は願ってそのような教育方針を打ち立てたのだろう。
でも、急激な変化には取り残してしまったものが大き過ぎた。
政宗は、自分の中に封じ込めていた幼い日の一刹那が鮮やかに蘇るのを感じた。
「…抱いて、小十郎、抱き締めて……」
「―――…」
政宗の声に一瞬淀んだ小十郎だったが、唇での愛撫を中断して、望むままにその体を抱き締めてやった。
肩口に押し付けた青年の口から啜り啼きが漏れた。
その艶やかな黒髪をゆっくりと梳き通す。
官能の声ではなく、ただ苦しいばかりの嗚咽が2人の間に落ちて行く。
「…厭でしたか?」と男は青年の髪を撫でながらそっと尋ねた。
肩口で政宗の頭は左右に振られた。瞼を閉ざしても溢れる涙を彼の上着に押し付けるように。
「…ちがう……、ちが…」
「…………」
泣くだけ泣いて、落ち着くまで小十郎は忍耐強く待っていた。
指の間からするすると逃げて行く黒髪を何度も撫で付け、震える背を一定のリズムでポンポンと静かに叩きながら。




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