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―記念文倉庫―

そこから更に1時間程車を走らせた高原に、ごくごく小さな農村があった。
標高4000メートル近い高所にある寂れた寒村で、森林らしいもののない茶褐色の荒れた大地がなだらかに波打っている。その中を細い細い道が頼りなく続き、道の傍らにパラパラと数える程度の民家が立ち並ぶ、と言った集落だ。
移動手段は歩くか、ロバに乗るか、のどちらかだ。
深夜に近い時間帯で街灯もないそこでは、僅かな家の明かりがある事で辛うじてそこに人が住むのだと分かる。それが、スイス製車のエンジン音を迎え入れ、とある民家の木製の扉がごとりと開いた。
オレンジ色の明かりの中に現れたのは難しい顔をした老婦人と、眠そうに目を擦る小さな男の子と女の子だ。少女の方は老婦人より難しい顔で、睨みつけるようにして政宗たちを眺めていた。
話は通してあったのか、運転手の原住民と小十郎が老婦人と暫く言葉を交わせば、伊達家の人々は家の中へと招き入れられた。
側で見れば、家の外壁は泥が乾き切った後にひび割れた様相を晒しており、窓の少ない小さな家は一雨降ったら水に流されてしまいそうだった。それでも、乾燥した土地柄にはその素朴さが相応しい。
立ち去る時、小十郎は連絡するとも迎えに来る、とも言わなかった。それが叶わぬ約束になるかも知れない、と思っていたのだろう。
粗末な扉が閉ざされ、四駆のエンジン音が遠離って行くのを、政宗は何時までもその耳で追っていた。

モラレス一家と名乗った、政宗たちが世話になっている家族は、その集落の一般的な農民だった。おそらく老婦人の息子夫婦が協同組合員だったのだろう。貴重な働き手である若い男が家の中に見当たらなかった。小さな娘はファニュー、その弟はジェコ、と言った。
ほんの200キロ程しか離れていないラパスやエル・アルトで、今現在も銃撃戦や労働者たちのデモ行進が行なわれているとは思い難い、長閑で貧しい村だった。
乾いて、素っ気ない風が渡る大地は殆ど無彩色。
その中を、政宗と政道は子供たちと連れ立って、牛と羊を連れてごく僅かな草を食ませる為に高原のあちこちを歩かせたりした。堅くてパサパサの畑の土を牛に鋤を挽かせて畝を作り、ジャガイモを植える手伝いもした。
何の変哲もない広大な土地を、ふと作業の手を止めて眺めてしまう癖が何時からか身に付くようになった。
身の丈を埋め尽くす程の枯れ草に押し包まれ、滴るようなオレンジ色の夕陽に染め抜かれて彷徨った記憶はやはり、ここのものではなかったのかと思う。
男は日本から遠く遠く隔てられたこの土地で、生まれ育ったと言う。
良く陽に焼けてしかつめらしい横顔が、荒れた大地を眺める様はとてもお似合いだった。そこに未だ見ぬ祖国への憧憬はない。あるのは、黄金の玉座に座した乞食とさえ言われるこの国の労働者たちへの同調の気持ち。遥か遠く隔たっている、と感じた。
強く厳しく過酷な大地はそこに生きる人々を打ち据え、何ものよりも逞しく育て上げる。
例え政宗が父に「安全地帯に逃げ込むな」と言われて育って来たからと言って、日本は世界基準に照らし合わせてみれば温い人間関係に違いない。自然環境においても、地上4000メートルの高みで日常を過ごす者とそうでない者の身体の構造が、根本からまるで違っていて当然だ。
彼らの肺と血液は、この薄い空気の中で効率よく酸素を摂取出来るように生まれついている。
牛を追いながら、子供たちは姉弟で元気に追いかけっこをして遊んでいた。
小石が転がる坂道を駆け下り、また駆け上って来たりする。
息を切らし頬を真っ赤に染めていても高山病とは無縁だった。
「子供は元気だよな〜」などと言う政道の言葉に全てが表現されている。
ざりざりと小石を咬み、道とも言えないような斜面を行き来しながら、大人しい牛を追っているだけでも、こちらは息が上がり怠さに顎が出て来る。
時折足を止めて岩塊に腰掛けて休まなくてはならない2人を見て、子供たちは肩を竦めて走り去ってしまった。
「元気だな〜」
走り去る小さな後ろ姿を見送りつつ、政道がまたも呟いた。
「お前は年寄りか」
政宗もそう突っ込むより他ない。
「兄貴、俺思うんだけどさ…」
「何だ」
「兄貴も人間だったんだな」
「何だそれ、お前どう言う目で俺を見てやがったんだ…」
呆れて弟を振り返れば、政道は何やら意味ありげなニヤニヤ笑いをその頬に浮かべていて。
「いや、だってさ、もし兄貴が誘拐されてる状況から俺たちを助け出してくれて、その上あんな暴動まで納めちまったら、俺もう兄貴とこうして話なんか出来なくなってるだろ?ヒーローだよ、英雄様って奴」
「んな事出来る訳ねえだろ」
「そうだけどさ、俺、どっかで出来るんじゃないかって思ってた、かも…」
「………」
政道は顔を戻して、何処までも続く荒れた大地とその中にポツポツ見掛ける粗末な民家を眺めやった。
「兄貴のその目、俺は小さい頃からカッコいいと思ってたんだけど、俺の友達の中には気持ち悪いって言う奴もいてさ。あ、ぶん殴っておいたからな、そいつの事は」
「…何が言いてえんだよ…」
「ああ〜、何だろ?何言おうとしてたんだっけか?」
「お前な…」
「あ、でも、人間の兄貴もらしくていいと思うよ」
「………」
「それより、ターミネーターみたいなのはあの小十郎っておっさんだよ!兄貴を軽々と抱きかかえたり、母さん庇って銃撃戦やらかしたり、しかも撃たれても痛いとも何とも言わないしさ!」
「お前…あの時、ひーひー泣き喚いてただけだったな」
「それは言うな!俺の黒歴史だ…」
「アホか」
「良いよな、ああいう男らしいのって。最初は何て野郎だと思ったけど、憧れる」
「………」
「憧れるけど、日本で暮らしてたらああはならなかったろうな〜」
「May be….」
多分、この国の環境があの男をああして育てた。
それが何故。
彼に熱烈な口付けを与えられた事を思い出して、頬に血が昇るのを感じた。気付かれないようそっと、政道からは顔を反らす。
この切なさには覚えがある。
この淋しさを今は愛おしく思うことが出来る。
遠い昔、日本から新天地を求めて旅立って行った懐かしい顔ぶれと、この地球の裏側にある乾いた大地で再会した。
そう言う事なのだろう。
彼を、この国の大地に還って失う事になっても異邦人である自分は「さよなら」と告げるだけだ。
それぐらい、遠い。
「…兄貴?」
弟に呼び掛けられて、情けない所を見られたくなかった政宗は、岩塊から立ち上がった。
遠くを一周駆け回って来た子供たちが戻って来た。息を切らして、とても楽しそうに笑う子供が政宗と政道を見比べて、不意に訝しげに首を傾げた。
「?Usted lloras verdad?」
問われたのは政道の方だが、彼にはスペイン語がさっぱりだ。
代わりに、振り向いた政宗が応えた。
「Este no es el caso. Yo solo queria ir a casa.(家に帰りたいと思っただけだ)」
「No se preocupe. Porque me voy a casa de inmediato.(大丈夫よ、直ぐに帰れるから)」
最初は警戒心剥き出しだったファニューはそう言って、政宗の手を引いて歩き出した。

9日目か10日目、いずれにせよ、日にちと曜日を数えるのを止めた頃に、遥かな大地の向こうからこぎれいな日産の4WDがゆっくり、ゆっくり、近付いて来るのが見えた。
政宗と政道は、モラレス家の末っ子ジェゴと一緒に羊たちを少し離れた丘に放牧しに行った帰りであり、母義乃は今頃モラレスの祖母と一緒に羊の毛を紡いでいる筈だった。
車は実は時速80キロから100キロ近くスピードを出していたのだが、余りにも長く続く平坦な大地が、そのスピード感を失わせていた。
村の人々と犬と羊たちと一緒になって政宗は、その4WDを村の隅っこで出迎えた。その目の前でタイヤが停まり切る前にドアが開かれ、中から飛び出して来たスーツ姿の男が2人の兄弟に飛びついて来た。
「お前たち!無事だったか!!」
輝宗はこんな埃っぽい大地にいてすら、東京の丸の内辺りを歩く「社長さん」の身なりを崩さない。父の美学だか何だか知らないその拘りに、良く似た2人の兄弟は顔を見合わせ、呆れたように苦笑した。
2人はどちらも当初ボリビアの地に降り立った時よりも僅かに日焼けしている。原住民のように小気味良いコーヒー色とまでは行かなかったが、それが2人の若者をやけに頼もしく見せていた。
車からは続けて、見知らぬ老人と連れ立って、小十郎も降り立った。
―――ああ、生きてたのか。
と政宗は思った。
もう会えないかも知れない、と言う覚悟だけはしていた政宗は、無意識に彼の死を自分がどれ程恐れていたのかを知った。
傍らでは父が何かを懸命に語りかけ、弟が鬱陶しそうにそれに応えていたが、政宗の耳はそんな事を捉えようともしなかった。
ただ、やけに日本人に似た老人がにこにこ笑いながら歩み寄って来て、父親に肩を抱かれた政宗と政道の手を取って―――その皺深い手は分厚く、そしてとても温かかった―――二度三度と振って親愛の情を示してくれているのを、何となく不思議な気持ちで眺めていた。
そうしていると、モラレス家から義乃が走り出て来た。
彼女はこの村で暮らすようになって―――それは埃っぽい環境だから常に薄汚れてはいたが―――10歳は若返ったようだ。ひらひらのスカートと鮮やかなポンチョを翻して嬉しげに近付いて来る母を見やって、輝宗は何故かぎょっとした。
「あなた!」
「よ、よしの?!」
スカートの下は素足にサンダルだ。ふお、だの何だのと訳の分からない叫び声を上げて、輝宗は息子2人から手を離して飛び退いた。
「何ですか、あなたは!家族が感動の再会を果たしたと言うのに!」
「え、あ、いや…その……すまん。…その…お前……すっぴん…?」
「あらイヤだ…。だって私だけお化粧しててもねぇ。…ね?」
ね?と言って話を振られた2人の息子だって応えようがない。女性が化粧をするのが当然の環境で育って来たものの、この農村はそうではなかった、と言うだけの話だ。
「母さんはすっぴんでもキレイだよ」と思い付いた事を言ってみる。
「まあ…まーくんたら、おじょうず…」
「うわぁ…、そんな事よく素で言えるよな兄貴…」
「………」
政宗の家族は三者三様、それぞれに個性的な反応を見せた。




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