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―記念文倉庫―
6●
見知らぬ街を走る。
閑散として、埃っぽく、空気は薄く乾いている。
朝夕は凍える程寒いと言うのに、陽が照りつける現在は服の下を汗で濡らす程暑苦しかった。
非道い目眩が続いていた。
手首から流れ落ちる血が止まらない。ふらふらして身体が言う事を聞かない。一歩踏み出す毎に吐き気がして、膝から崩れ落ちそうだ。
酸欠で目の前が昏くなりそうだった。
弟はすっかりこの環境に適応してしまったのか、土埃と紙くずなどが舞う路地を、辺りをきょろきょろ探りながら進んで行ってしまう。
追い付けなかった。
足が地面を踏んでいる感覚も失せる。
振り向いた政道が驚愕の表情を刻んで、叫んだ。
「兄貴!!」
踏み出した足が崩れて、政宗は膝をがっくりと突いてしまった。
その兄を政道は駆け戻って支えた。辺りを見渡しても助けを求められるような住民の影も形も見当たらない。戦えない者たちは巻き添えを食らうのを恐れ、家の奥深くに潜んでいるのだろう。
何時もは頼りになる兄が限界を訴えて来るのに、政道はどうしたら良いのかさっぱり分からなかった。
「兄貴、兄貴!起きろよ!こんな所で寝てたら踏んずけられっぞ!!」
助ける為と言うより、1人取り残される不安から縋るような口調で詰ってしまう。それでも、苦痛に歪んで堅く瞼を閉ざした政宗が目覚める気配はなかった。
そうした極限状態になるまで物陰に潜んで後を尾けて来た男には、助け手を拒む事など出来ないだろう、と言う算段があったのだろう。
埃塗れの頬を更に涙で汚し、擦り傷だらけの政道の前に立った男は、無言で、その大きな掌を差し伸べて来た。
「………」
政道は憎いその日本人を睨みつけた。兄の迫力には負けるが、精一杯の矜持を張る様は健気でもあった。
「兄を助けたくはないんですか?」
誘拐犯から逃れ得た、と思ったら、唯一の救いがその手しかないとは。
「早く酸素補給しないと、助かりませんよ」
「…くっそ…!くそ!!」
呻き、罵りながら政道は、抱きかかえていた兄の身体を男の手に委ねた。
弟は地べたに座り込んでその上身を支えるので精一杯だったと言うのに、小十郎は政宗の背と両足に腕を回すと軽々と抱き上げてしまった。その時、だらんとぶら下がった政宗の手首から緩く凝った血液が流れ続けているのに気付いた小十郎は、政道を振り返って言った。
「シャツの袖を裂いて傷口を縛って下さい…ああ勿論、あなた自身のシャツですよ」
丁寧な言葉遣いのヤクザか、と苦々しく思ったが、政道は言われた通り、ジャンパーを脱いでその下のポロシャツの袖を引き千切った。服を裂いた事などなく手間取ったが、苛立ち紛れに無理やり引っ張ってやった。
そうして男が悠然と、しかし素早く移動して行った先にあったのは、日干し煉瓦を積み重ねて保管してある倉庫の一角だった。
そこに何故か酸素ボンベと水と食糧が詰まったバックパックが用意されていた。男は先ず政宗に酸素ボンベから呼吸させ、政道にはPP袋に詰められたジュースと冷めたサルテーニャを放って寄越した。
「私の仲間が夕方になったら迎えに来る予定です。それまで休んでいなさい」そう、言い添えて。
「兄貴を放せよ」
剥き出しの地面に放り捨てられた食糧を拾い上げる事なく、政道は睨みを効かせて男に詰め寄った。
跪いた男の腕の中で酸素マスクを当てられたままの兄は、大人しく気を失っている。兄に対するその甲斐甲斐しさが、虫酸が走る程忌々しかった。
「俺がやるから、兄貴から手ェ離せ」
歯を剥き出しにして唸るように言い放った政道に対し、男は終に本性を露わにした、と思われた。
薄暗い倉庫の中で小十郎は、浅黒い肌に映える真っ白な歯を見せて、嗤ったのだ。それは冷笑と呼ぶに相応しい、肝の冷える笑みで。
「大事な人質を、あなたのような子供に任せる訳には行きませんね」
「な……」
「長男と次男とでは、会社にとっての重要度がまるで違う、とはあなたも自覚している筈じゃなかったのですか?」
「―――…」
「いえ、例え政宗さんが次男であったとしても、あなたは適わない」
「…………」
「政宗さんは牙持つ狼として育った…あなたは、どうです?」
「……………」
「いいから、食事して休んでいなさい」
憤りと恐怖、そのようなものが政道の肩や腕をわなわなと震わせていた。
確かに自分は、次男だから年下だからと甘えて来た所が多々あるのは認める。兄の出来が非常に良く、成績優秀な上に人徳にも恵まれ、信頼する仲間や先輩後輩が多いのも知っている。口は汚いが家族に対する思い遣りが人一倍強いのも、百も承知だった。
―――…ああそうだ、男の言う通りだ…。
政道は男に言い返す言葉も、刃向かう気力も失って、がっくりと肩を落とした。

高山病の特効薬は酸素以外の何ものでもない。
マスクを被って肺へと送り込まれる濃厚な酸素を胸一杯取り込んでいたら、頭痛が引き、霞の掛かっていた視界や思考がクリアになって来た。左目を薄っすら開ければ、傍らにある逞しい体付きをした黒ジャケットと、隅っこで地べたに踞る弟の姿を捉えた。そして見上げれば、自分を覗き込む小十郎の浅黒く日焼けした顔だ。
跳ね起きようとした体は強力で押さえ付けられた。
その時、外れた酸素マスクとボンベが地面に転がる派手な音がしたが、政道はピクリとも動かない。疲れ切って眠りこけているようだった。
「て…め…っ」
怒鳴りつけようとした口を塞がれた、その唇で。
喚く喧しい口にはこれが特効薬だ、と言わんばかりの口付けだった。
脈絡のない展開に、それでもこんな趣味はねえ、とじたばた暴れたが有無も言わさず抱き締められた。肩の骨が外れ肋骨がへし折れるんじゃないかと言うような勢いだ。髪の中に差し入れられた左手が後頭部へ回り、逃げる事も叶わない。背から腰へ回された男の腕の太さと力強さに、まるで筋力でこっちが劣っている事を思い知らされる。
そして、布越しに押し付けられた男の胸や腹の熱さや、荒い呼吸に乗って波打つ逞しさだ。
殺される、と恐怖に戦いていた心臓が、別の鼓動を刻み始めた。
これ程頼りになる存在を、政宗は他に知らない。
この腕の前では自分は強がらなくても良いのだ、と言う危うい予感に胸が締め付けられるように痛んだ。
抵抗をやめた政宗の顔を覗き込む為、ほんの僅か唇が離された。
何のつもりだと怒鳴り散らしてやろうと思ったのに、その漆黒の瞳が間近で見下ろして来る中に、単純な応えを見つけてしまって言葉を取り零す。
「良かった…あなたを失わずに済んで……」
そう呟いて男はもう一度柔らかく、唇を重ねて来た。
本当はこうしたかったのだ、と思いの丈を告白するように。
遠い過去から、遥か地球の裏側から、精一杯の叫びを届けるように。
訳が分からなくなって、政宗は伸ばした右手で男の頭を掻き抱いていた。
何故だかとても懐かしい気がした。知らない場所に初めて連れて来られて抱く既視感に目眩を感じた。
合わせた唇からしめやかな水音が鳴り始めると、心の柔い部分に爪を立てられたかのようにしくしくと痛み始める。
―――これは…何だ?奴に流されてるのか…?
抑えようともしない息が乱れて、大きく胸が上下するのを意識しながら、再び無言で見つめ合い、無言の会話を交わすように唇を啄み合った。
―――知らない…こんな感情は、知らない…。
懐かしさと痛みに、自然、涙が零れそうになって、政宗はぎゅっと目を閉じた。

その耳に、この倉庫の壁越しに伝わる物音が響いて来て、はっと我に返った。
政宗の身体はそっと地面に下ろされ、立ち上がった小十郎が錆だらけのシャッターを引き上げると、表にはヘッドライトを灯したスイス製の四駆が横付けされており、辺りは幻のように鮮やかな夕陽でオレンジ色に染まっていた。

政宗はまだデ・ジャ・ヴーの中にいた。
この黄金は見た覚えがある。
シャッターの向こう、四駆と男の姿をシルエットに切り抜く鮮やかな夕陽。
乾いて、色褪せて、陽に焼けた―――。

「行きますよ。義乃さんは先に仲間がラパス市内に連れて行っていますので後を追い掛けます。そこに軍が投入されると言う情報も入りました」
男は四駆のドアを開けつつ言い放ち、
我に返った政宗も、目覚めて何事かと立ち上がっていた政道も、それへと歩み寄った。

夜陰に紛れてエル・アルト市内を突っ切った四駆は、厳戒体勢に入ったらしいラパス市内の道をひた走った。
夜間の外出禁止令が布告された高速は、他に車影も少ない。全くない訳ではなく、何かの目的に道を急ぐ乗用車やトラックとすれ違い、また追い越した。幾つもの坂を駆け下って行くにつれ、哨戒の為に派遣された警官隊の装甲車があちこちで見受けられたが、命令が機能していないらしく政宗たちの乗った四駆が呼び止められる事はなかった。
市内へ入って、小十郎は運転席の原住民の男と長い事、ケチュア語混じりのスペイン語で語り合っていた。
恐らく、現状把握と今後のルートが話し合われたのだろう。
政宗はそれを後部座席から眺めながら、隣に座る弟の腕に手を添えていた。その彼の右手は親指の付け根から手首まで、空き缶の切り口で切り裂かれていたが、目覚める前に丁寧に消毒され、清潔な包帯で包まれていた。政道にそんな事が出来るとは思えない。
小十郎がやってくれたのだろう、と思う。
弟がやけに落ち込み元気がない事を、事態に対する不安と恐怖の為と見ていた政宗は、無言で政道を顧みた。だが、彼は気まずげに視線を反らすだけだ。それが力なく自分の膝の上に落ちるのを見やって、政宗は大丈夫だと励ます意味を籠めて弟の掌を握り締めてやった。
政宗の傷を慮ってそっと握り返して来る掌は、仄かに温かかった。




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