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―記念文倉庫―

政宗は縛られたままの両脚で地面を蹴って、男の腹に向かって体当たりをかました。
小十郎のベルトにナイフが提げてあるのが見て取れた、両手を縛られたままでそれをどう奪うかなんて考えてもいなかった。誘拐犯を刺激せず、大人しく人質としてされるがままに耐えているのが、我慢ならなかっただけだ。
肩で突き退けた筈の相手の体はびくともせず、思い切り振り上げた後頭部で頭突きを喰らわせた。
だが、その二の腕をがっしりと掴まれ、仰け反った身体を軽々と持ち上げられてしまうと踏ん張りが効かなくなった。代わりに、空中に踊った両脚を男の股間に向かって振り上げる。
が、それも折り曲げた小十郎の片脚が受け止めていて、ぐらり、と視界が揺れた。
どさり、と落ちた背からの衝撃が息を詰まらせる。
床と背の間で潰れた両手は痺れて感覚もない。
上からのしかかる男は片膝で政宗の太腿を踏み付けていて、両肩も床に押さえ付けられた。
男の息が上から降り掛かる。
力でも体重でも、何もかも適わなかった。
縛られていなくとも彼には適わなかったろう。
殺される、と言う恐怖に煩い程の鼓動が体の中で踊っていた。これ程の恐怖は未だかつて体験した事がなかった。
それまでの政宗に対する評判など稚戯にも等しいのだ、と眼前にがつんと指し示された。そう言う事だった。
だが、男は表情を1つも変えないまま、政宗の上から退いた。
警告の1つも寄越さない。
どころか、
「お怪我はありませんか」
と来たものだ。
「Shit!」
男が退いても、後ろ手に縛られたままでは身を起こす事すら出来ない。それを、まるで幼児のように抱き起こされて屈辱に唇を噛んだ。よろけた所を支えられつつ、再び椅子に腰を下ろす。
そして小十郎は何事もなかったかのように部屋を出て行った。その時、扉には少なくとも2つ以上の鍵が掛けられた。

翌朝は、ヘリの羽根が空気を叩く音と遠い爆音、そして人々の掻き起こす喧騒とで目を覚ました。
鉄格子の嵌った窓から陽の指すエル・アルトの街並を見渡せば、その路地のあちこちから黒煙がもうもうと立ち登り、眼下の狭い路地を口元をスカーフで覆った貧しい身なりの男たちが駆け抜けて行った。
空を行くのはただのヘリコプターではなく、ボリビア軍の空軍が持つUH-1H型ベル・ヒューイと言う回転翼機型戦闘ヘリだ。エル・アルト空港はボリビア空軍の主要拠点でもあるので、そこから飛び立って来たのだろう。
それに呼応するように街のあちこちでサイレンが掻き鳴らされた。
路上にはそこらの民家に隠れていたと思しき男たちが飛び出して、空を見上げつつ何事かを怒鳴り合い、群れて駆け去って行く。
それらから部屋の中に顔を戻した政宗は、母や弟の事を思った。こんな有様など日本で暮らしていれば一生お目にかかる事のないものだ。大層、不安と恐怖に苛まれているだろう。
政道の高山病の症状は治まっただろうか。水やコカ飴ぐらい与えてくれても良さそうなものだが。これに懲りて、あのいい加減な弟も多少は生活態度を改めてくれるかも知れない。
生きて戻れれば。
「………っ」
情けない事に、政宗には事態を打開する術がまるきりなかった。

昼過ぎには発砲音と、更なる爆発音が響いて来た。
政宗たちはずっと放ったらかしである。
この騒ぎの裏で、人質交換を条件に水面下での交渉が行なわれているのか、いないのか。それすら分からない。空腹に苛まれながら何が起こっているのか具体的に知らされず、ただ時間だけが過ぎ去って行くのは正直、精神的にかなり堪えた。
政宗は、時折窓の外を見やる以外はずっと目を閉じ、深い沈黙の直中にあった。その脳裏に浮かんでいた事と言えば、未だ幼い頃、近所にあっただだっ広い工場の敷地周辺の野原で1人彷徨い歩いていた時の記憶だ。
子供の目に、今はなき工場の巨大な建物と敷地内の独特の雰囲気は、鉄錆びて軋み音を立てる機械の駆動音と相まって、孤独と不安の塊でもあった。
険しい顔つきをした男たちが出入りし、トラックやコンテナを動かす様を金網のこちら側から盗み見ていると、悪の組織が何か深刻な大打撃を齎す為に悪事を成すロボットか何かをせっせと作り出し、世界中にバラまいているのではないか、とさえ思えて来る。
工場脇の野原はそうしたものの残骸が打ち捨てられて、それが子供の背丈を遥かに超えた雑草の中にひっそりと埋もれてしまっていた。巨大な歯車の付いた何やら分からぬ鉄クズには、赤茶けた水が溜まっていて、そこに気味の悪い虫などが棲み付いている。
季節は良く分からない。
黄金色の黄昏であったようにも思えるし、ただ草木が枯れ果てて褐色に色付いていたようにも思える。ただともかく、陽に焼けて黄ばんだ古臭い写真のように、常にセピア色に色褪せた記憶だった。
それがこのアンデス高地の片隅に開かれたラパスとエル・アルトの都市の有様と重なり、子供の政宗が果てしのないその土地を宛もなく彷徨い歩いている。
そうした想像に浸っている間は、不安と恐怖に心を蝕まれずに済んだ。

夜になって一度、年老いた原住民の男が食事を運んで来た。ボリビアの何処でも売られていそうなサルテーニャで、すっかり冷めている。それを手掴みで食べる間だけ後ろ手に縛られた拘束は解かれ、コーヒーを一杯味わうことが出来た。
政宗は労働者と思しきその男にカタコトのスペイン語で「何が起こっている」「自分たちはどうなる」などと尋ねたが、彼は皺深い顔をぴくりとも動かさず、一言も返そうとはしなかった。ただ煙ったそうに手を振った所を見ると、もしかしたらスペイン語すら通じない原住民だったのかも知れない。

間もなく夜が来て、夜が明けた。

相変わらず銃声が断続的に響き、空へと黒煙が立ち登っている。
政宗のいる部屋は静かで、静か過ぎる程だった。
義乃と政道の状況が分からないのは最悪だ。小十郎も一切姿を見せない。エル・アルト市でのこの騒動がどう言った類いのものなのか、彼に尋ねたい事は山ほどあったがそれは脇に置いて、政宗は焦りや不安を感じないよう、ともかく努めた。
その脳裏に新たに蘇るのは、かの男と最後に交わした言葉の数々だった。
問題の根本は3つ。
日本の国土の3倍の面積のあるボリビアには、民族は同じだとしてもそれぞれ由緒の異なる部族が数多く暮らしている。日本本土に対する琉球人やアイヌ人のようなものだろう。
彼らには独自の自治制度があり、その自治首長の決め方や人数、任期なども様々だ。彼らは現代的な縦割りの命令系統を持っていず、共同体の中での話し合い、集団の中での意思決定を旨とする。
また、独立直後からクーデターがお家芸であったボリビア政権は、今、世界的潮流の中で、各部族が構成する政党による施政を心がけている。それは「民主主義のようなもの」であり、近年になってもそれが上手く働いた試しがない。民主主義とは集団ではなく個人を尊重するものだからだ。
「以前は300人の農民が殺害されても大きく取り上げられる事はなかった。今では30人の死者が出るだけで世界中から非難される」
そのような環境で、ボリビア政府はグローバリゼーションを体現しなくてはならない。
そして、ガス油田、金属鉱物資源の恐るべき埋蔵量だ。
何処で間違ったのか。
何がいけなかったのか。
それを考え始めると、政宗の中にはある1つの結論が実を結び始める。
すなわち、先進国の表向き"親切心"が齎す専横だ。

エル・アルト市の廃屋に監禁されて3日目、慌ただしく現れた小十郎他1名のボリビア人によって政宗たちは、その民家から連れ出された。
街中をポンコツのアメリカ車で走り抜けると、武装した原住民の集団と何度もすれ違った。
道の半ばには、瓦礫や炎を上げるタイヤで築かれたバリケードが何箇所も見られ、狭くて曲がりくねり、その上急な坂道が続く所をもたもたと右往左往しなければならなかった。
目隠しはされないままでの移動だった。中心街を避けて郊外へと出て行くと、そこは街と言うより緑が一切見当たらない荒野に、低く煉瓦造りの家々が潰れそうになりながら立ち並んでいる有様だった。作り掛けの住宅の前に建材が積み重ねられたままの光景も、幾つも見られた。
トタン屋根の店舗らしきものは皆閉まり、人っ子1人見掛けられない。
そこへ、一際大きく爆音が上がって、中心部辺りにもくもくと黒い煙が立ち登るのが見えた。
「何が起こっているのか、そろそろ説明してくれても良いんじゃないのか」
久々に声を出せば乾燥した空気に嗄れていた。
その政宗の問いに、助手席に座っていた小十郎がちら、とだけ後部座席に視線を寄越した。返事はもらえないものと思っていたが、数日振りに見る男は以前と変わらぬ淡白振りのまま、静かに語り出した。
「エル・アルト市内の住民が抗議の為に街を占拠し、そこにボリビア政府が軍を投入したのです。今頃、ラパスの中心部では数万人を超える鉱山協同組合員が諸々の要求を掲げてデモを繰り返している事でしょう」
「…一体どうしてそんな事になったんだ」
「ラパス市内のデモは予め予定されていました。日本の共同出資会社連盟との国際会議に絡め、各地の鉱山会社の利権を求めて。ただ、このエル・アルトの抗議行動は想定外のもので、ラパス市の蜂起に合わせて労働者たちが独自に始めてしまったのです」
「―――俺たちの事はそっちのけでか」
「本来なら」と小十郎は多少言い訳がましい口調で応えた。
「あなた方邦人の人質は政府に対する抑止力になる筈でした。以前よりそうおいそれと軍を派遣する事は出来なくなっているとは言え、国際社会の中で"圧力"が掛かれば、政府は辞任に追い込まれるのを承知しながら軍事力を行使せずにはいられませんから。しかし、日本人の人質の生命がかかっているとすれば、その"国際社会"に対して日本が発言力を強めて武力介入を阻止してくれると思っていたのです」
「…日本の発言はそんなに影響力がある訳じゃねえよ」
「そのようでしたね。武力の放棄を歌う憲法はとても立派だとは思いますが、何の役にも立たない…。かと言って、計画が実行されたからには、多少想定外の事態が起こっても途中で止める訳には行かないのです」
「計画って」
「今、同時にコルキリ鉱山で協同組合労働者と国営労働者が対立しています。警官隊や軍が警備に当たっているが、国営労働者側は協同組合の事務所を破壊し放火まで行なっている。これに対して協同組合の労働者らがダイナマイト数十発を投げ掛け、警官隊は催涙弾と放水で両者の衝突を終わらせようと躍起になっています」
「……結局、何がしたいんだ」
「協同組合側は採掘の権限の委譲を、国営労働者側は鉱山の完全国有化を、それぞれ要求しています」
「どちらも労働者だってのにか?」
「そう…。これは政府と国民の対立ではなく、2つの民意と政府と言う三つ巴の状態で収拾がつかなくなっている。ここエル・アルトだけでなく、ラパスやコルキリにも何時なんどき軍の介入があってもおかしくはありません」
「Oh, my….」
思わず天を仰いで嘆息が漏れた。
愚かな事をしでかしたものだ。
これだけ労働者同士が激しく衝突すればボリビアでなくとも、―――恐らく日本だとて自衛隊を派遣せざるを得なくなるだろうに。
もはや日本人家族の身の安全より、国内の秩序を守ることが優先されるに決まっている。




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