朝、目覚めてカーテンを開け放つと、すり鉢の底の街は薄っすらとした朝靄に包まれていた。
それも10分程で晴れ、朝日が徐々に谷底まで照らすようになると人々の動きは忽ち活発になる。あれは多分靄ではなく雲が発生していたのだろう。ここにいると標高3600メートルの高みにある事を忘れがちだ。
自分の部屋を出て1階のリビングに顔を出すと、キッチンから賑やかな喋り声が聞こえて来た。
まだスウェット姿の政宗を見つけると母が「おはよう、コーヒー入れてあるわよ」とにっこり笑いかけてくれる。
彼女の隣でキッチンに立つのはインディヘナ(原住民)のアイリュだ。昨日と全く同じ山高帽に毛質の粗くて太い三つ編みおさげの浅黒い顔が、こちらを振り向いて真っ白い歯を覗かせた。
「Buenos dias, Tu as bien dormi?」
何故だか今日は彼女のスペイン語が聞き取れた。「おはよう、良く眠れた?」と聞かれたので「Oui.(はい)」と応えておく。
「もう少しで朝ご飯出来るから待っててね」と義乃は政宗に背を向けたまま言う。
「あっアイル!お鍋が噴いてる!!フタ、フタ!」
「Perdon!!」
「いいのよ、それよりパンは焼けた?何だか火の回りが悪いのよね。標高が高いせいかしら」
「Mante quilla a la sarten? O, mani crema?」
「やっぱりお味噌、持って来るんだったわ…。ソパって…スープよね?」
「Las personas que comen came son buenos, Hai un pollo.」
「あら、意外と美味しい」
余り広くもないキッチンで、母と使用人の交わすやり取りを聞きながら、政宗はコーヒーポットからコーヒーを注いでリビングに戻った。
どうしてアイリュのスペイン語が聞き取れるようになったか分かった気がする。
彼女たちの会話は噛み合っていない。アイリュの事を母はアイルと呼んでいるし、アイリュがパンに何を付けるかと尋ねれば義乃はスープを心配し、その一方でアイリュはチキンも出したらどうだと言っている。
義乃がマイペースに日本語を話し続け、アイリュの言葉を適当に聞き流しているものだから、アイリュはゆっくりはっきりスペイン語を発音して何とか理解してもらおうとしているのだ。義乃はスペイン語がさっぱりなので、そうしても無駄なのだが。
それでも朝食は出揃った。丸っこいトーストとビスケットにバターとジャムが添えてあり、ソパと言うピーナッツのスープにチキンが結局入っていて。後はコーヒーとフルーツサラダだ。サラダにはサボテンの実が入っていて上からヨーグルトを掛ける。グラスに入れてあるので見た目がフルーツパフェだ。
これがラパスでの平凡で質素な朝食らしい。香辛料の効いたソースなどがけっこう旨い。
政宗が弟を蹴り起こし、何とも言えず穏やかな朝食を済ませて暫くすると、昨日のボリビア在住日本人がやって来た。
表の通りに昨日と同じ中古の日本車も停めてある。
男が家族に朝の挨拶を告げているのを見やりながら、食後のコーヒーを楽しんでいたら電話が鳴った。アイリュが出る。
暫く2、3の言葉を交わしていたと思えば義乃を「Senora!」と呼んだ。
義乃が電話口に出れば、思った通り相手は父輝宗だったようだ。
「あなた!何ですの、家族を放ったらかして。仕事?!仕事は空けておくって仰ったじゃない…。え?問題?…ええ、…ええ―――」
彼女が電話を切った時には、その表情は珍しく深刻なものになっていた。
「親父、何だって?」と欠伸を噛み殺しながら政道が尋ねる。
「…何か、現地の人たちと上手く行ってないみたい…」
言いながら義乃が小十郎の方を顧みた。彼女にとって身近になった原住民とは、アイリュではなくこの男の方らしい。
「…賃金交渉で会社の鉱夫と上の人間との間でたびたび揉め事が発生します」
語り出した小十郎の声は淡々としていて、切迫した様子は窺えなかった。
「会社の顧客である外資系会社にも窮状を訴えたいと言う気持ちが、輝宗社長にも御迷惑を掛けているのでしょう。政府が何とかしてくれると思いますので、大丈夫ですよ」
大丈夫だと言いながらその底冷えするような眼差しは何だ、と政宗は思った。
正直、得体の知れないと思わせるのは、親切な態度や丁寧な口調より、感情を表に出して来ないその眼にある。味方であるならこれ以上頼もしい存在はない小十郎と言う男は、逆に言うなら敵に回せばこれ以上厄介なものはないと言ったものだった。
いずれにせよ15分後、着替えを済ませた政宗たちは男の運転する車に乗ってラパス市内を観光して回った。