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―記念文倉庫―
8
米沢に春が来た。
他の南の地域より遅くて、短い春だ。
先ず城の桜が満開を迎え、次に山裾で、田畑の傍らに枝垂桜が煙るような淡いピンクの花を咲かせる。これが、昏い鎮守の杜を背景に泡沫の花弁を風にひらひらと散らし始めると、山肌を下から上へ向かって、濃いピンクの山桜が盛りを迎える。
見事な、絶景だった。
田畑の畦を数人の子供たちが駆け抜けて行った。
先日、聚楽第に赴いた時に京の都に置いて来た隠密が数名、報せを上げて来た時でもある。
石田三成や大谷好継などの近畿での動向を追って、事細かな情報が手に入った。
三成の行動は軍師好継が練った策を元にしている。東奔西走、正に字で書いた如く、各地への転戦に次ぐ転戦だった。
そんな中で唯一三成のプライベートな時間と言えば、大阪にある私的な屋敷で短い休養を取る事だけだった。
近くに人を侍らさず、商家とは離れた大阪城を臨める福嶋の小高い森に、ひっそりと居を構える。
聚楽第は実直な彼にとっては華美に過ぎ、目を背けたくなるようだったが、大阪城は豊臣秀吉の面影を偲ぶのに相応しい壮麗さだったのだろう。
ここが、狙い所だった。
別の報せもまた春に届いた。
―――愛姫様、ご懐妊。
豊臣に敗退してから3年、明るいニュースの1つもなかった米沢に本物の春が来た。
妊娠6ヶ月。お腹の御子は元気に育って愛姫の腹を内側から蹴っていると言う。それを聞いた政宗の喜びようは並大抵なものではなかった。
一瞬、豊臣に受けた屈辱を忘れ果てたかのように。

その一方で景綱は、一時的に宿下がりを願い出て許されていた。
8年振りの鬼庭屋敷はこんなに小ぢんまりしていただろうか、と言う感慨を抱かせた。
木戸を潜った所にある柿の木も記憶にあるより小さく細く、義姉の喜多に追っ駆けられて走り回った廊下は大した距離がなかった。
この屋敷の屋根に登って、良直や遠藤に水瓜の皮を投げつけた過去のあの日が、非道く遠く遠く、思える。
あの時と比べて何もかもが変わってしまった。
人の一生分を終えて海から戻って来たと言う浦島太郎の気分というのは、こう言う事を言うのだろうか。
そんな事を考えながら家人が使う私的な内玄関から中に入り、台所へ向かった。
その途中で納戸から何やら瓶を抱えて出て来た喜多と鉢合わせる。
「あ…何者…」
そう言いかけて、16の青年の顔貌に8歳の少年の面影を見つけた喜多の両目が際限まで見開かれた。
「……小十郎…?」
今や、景綱をその通称で呼ぶ者は政宗以外いなかったので、懐かしい、と言って目を細めた。
それを目にして喜多は変わらない笑顔を見せてくれた。
「景綱なのですね」
「姉上、ご無沙汰しております。小十郎景綱です」
「見違えました…私の背も追い越してしまって、ご立派になられて…」
「お陰さまで。姉上のお言葉通り、良く食って良く眠ったらこんな風に」
「まあ、では夕餉はたんと作らないといけませんね」
言って、にっこり笑ってからふと気付く。
「お宿下がりは何時まで?」
「短くて申し訳ないのですが、明後日には城へ戻ります」
「そう、良かった。私の手料理、良く味わって行きなさい」
「遠慮なく」
話しながら2人揃って台所へと向かった。
そこも狭くて薄暗い印象だった。当然だろう、城の大盤所は数多くの人間の胃を賄う為ちょっとした広間ぐらいあるし、熱気を逃がす格子窓が高い所に広く開けられているのだから。
「屋敷のあちこちが痛み始めているようですね」
台所で瓶の中の―――味噌を笹でくるんで小分けにしたもの、を取り出す喜多の隣に立って、景綱はその天井を見渡した。
釜の直上の天井など真っ黒に煤けている。
「出来る限り普請致しますよ」
「ゆっくりして行けば良いのに」
「これが息抜きになります」
「―――…」
手を止めた義姉がふと、景綱を顧みた。
城での出来事は喜多の耳にも漏れ聞こえて来ていた。ただ、それも一端だけだ。その渦中にあった義弟の心中は計り知れない。
でも、それがこれ程立派な若者に育ててくれたのだ、と思うと涙が出そうだった。
泣きはしない、武家の娘だから。
「どうしました、姉上?」
「いいえ…。桜餅を拵えましょうか、それと甘酒も。庭で少し遅い花見を致しましょう」
「良いですね、今夜の夜桜なんてどうですか?」
「良いわね、それならお酒は喜楽の清酒で」
「それは良い…」
穏やかに語り合いながら、喜多は夕餉の支度を始めた。
邪魔だと台所を追い出された景綱は、日暮れまで、表玄関の敷居が朽ちかけているのを取り替える作業を始めた。
何故戻って来た、と問うて来ない義姉の気遣いと優しさが身に滲みて嬉しかった。昔は怒鳴らせてばかりだったのが、こうして普通に親密な会話を交わせる事が何よりの幸福だった。
それらは、米沢の城にあっては味わえないものの数々だった。

夕餉には鯖の味噌煮ときんぴらごぼうが出た。それとたくあんだ。
その膳を座敷の縁側に持って行って、きつい清酒をやりつつ香ばしい身を解して頂いた。きんぴらの甘辛い味も昔のままだ。
夜桜はさほど豪勢なものではなかったものの、ほつりほつりと話は弾んだ。
翌日は、豆腐と葱の味噌汁、納豆、茄子の漬け物の朝餉を済ませると、早速屋敷の普請を始めた。
縁側の軒下や納戸の扉、裏木戸の蝶番などを直して回った。
昼には桜餅の塩が効いたのを3つも平らげ、茶で一服した。その時に景綱の小袖にほつれを見つけた喜多が、その場で縫い繕ってくれた。夜になれば夕餉の後に、手習いを始めた能管を義姉に披露した。
その途中で鼻を啜った喜多は、隠すようにして目元を拭ったようだ。
気付かぬ振りをして一曲奏し終え、褒められて照れた。
それから寝る前に甘酒を出してもらって、それをちびちびやりつつ、ただぼんやりと貧相な庭の夜桜を眺めた。
「寂しくはありませんか、姉上」と口を突いてその問いは出て来た。
「何です、薮から棒に」
「ここは静か過ぎます」
「お前がいなくなって清々していますよ」
「…相変わらず剛毅なお人だ…」
お前は寂しいの?そう喜多は問おうとして、止めた。
それは、今の景綱にとって最も酷な質問に思われたからだ。
「私ももう四十路が近い…寂しくなったら髪を削いで尼寺にでも入ります」
「姉上…」
「…冗談ですよ」
春の夜気は、底抜けに凍える寒さを潜り抜けて来たお陰か、ほんのりと温かかった。その穏やかさが景綱の傷ついた心をも癒して行くように、ゆるゆると風が渡る。
愛姫に子が出来た事で、女の復讐が終に成った事を知った。
いや、京の都に捕らえられた彼の女に自分の裏切りなど分かろう筈もない。
―――私から政宗様を取らないで…。
そう懇願して来た愛姫の前からあの時、自分は逃げ出したのだ。
けれど、そもそも、ただの家臣である景綱が正室を差し置いて主君を手に入れるなど、到底適わない事ではないか。
初めっから分かっていた筈だ、彼女とて。
だからこれは愛姫と政宗の恋が成就した、それだけの事なのだ。それだけの。
ならば自分は、地位、名誉、そして家族の安泰を手に入れよう。遠藤の遺言となった「房事での誅殺」など端からなかったとしても、君主たる政宗を支えて伊達家の繁栄を形作る家臣団の一端を担い、片倉・鬼庭両家を後世まで繁栄させる。
それが、自分の勤めなのだろう。
その思いを呑み干して翌日、景綱は鬼庭の屋敷を辞した。


その年の8月、愛姫に御子が生まれた。
女児だった。
政宗は五郎八と名付けた。
男名しか考えていなかったのだ。五郎八と書いて"いろは"と読んだ。
可愛らしい名前だった。
雪に奥州街道が閉ざされる前に、急ぎ足で政宗は京の聚楽第を訪れ、我が子を抱いた。
石をも砕くあの握力を隠して。
これよりはほおずきの実ではなく、そのいたいけな生命を預かる父親としての自覚が、彼を支える事だろう。
冬は例年にない豪雪に見舞われた。
景綱の中でも何ものかが降り積もって行った。
愛姫懐妊の報以来、政宗の寝所に連れ込まれる事はなくなっていた。
翌年、初春に小さな戦があった。
葛西・大崎での一揆騒動だ。これはすぐ様鎮圧された。
そして5月、長雨が降り出す頃に事は動いた。

迅速な行動を取る為、政宗は景綱と成実の他300騎程の速駆けの得意な騎馬軍団を連れて、古都奈良経由で大阪に入った。京都八幡の辺りから大阪入りすると敵方に悟られる危険性が高かったからだ。
夜のみの移動で辿り着いた大阪は、天の門が開かれたかのような大雨に見舞われていた。
雨煙の中、石田三成の孤高の屋敷は灯りこそ灯っていたが、こそりとも人の気配がせず、静まり返っていた。
そこで三成は、直前の戦で得た刀傷に臥せり回復を待っている、と言う情報だった。
首を獲るつもりはない。
彼の身柄を奥州へ引き立てて行って豊臣の勢力を削ぎ、聚楽第を排し、人質である愛姫を奪い返すのが上策だろうと、家臣団の中で決めて来た。
今、奥州に残った伊達氏とそれに連なる勢力は、奪い取られた会津のどちらに転ぶか分からない上杉、不気味な沈黙を続ける佐竹、そして、豊臣からの復権を乞い願う北条と言った各勢力に息を凝らして睨みを利かせている。
激しい雨音が、馬蹄の轟きを掻き消していた。
屋敷の周囲を覆う雑木林にぐるり、騎馬隊を巡らせて表と裏、質素な柴垣の門を騎乗したまま踏み倒して、政宗たちは屋敷の庭に乗り込んで行った。



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