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―記念文倉庫―
4
黒川城の5月は庭の牡丹がしとやかに香った。
夜更けて静まり返った御殿の中、政宗の寝室から二、三間離れた宿直部屋で、景綱は、他の先輩小姓たちと共に未だ目覚めぬ頭首の身を慮って夜っぴて寝ずの番をしていた。
伊達家存亡の危機を愛姫1人の肩に背負わせる行き詰まりが、家中に充満していた。
重しの鉄塊を懐に抱えて、水中に没して行くような息苦しさがあった。
そこへ、何の前触れもなく表の廊下を渡る衣擦れの音が皆の耳を打った。
ああ、愛姫が政宗の身を案じて渡って来たのだな、と景綱は聞き慣れたその足音に黙って耳を傾けた。
それが、宿直部屋の前で止まって襖が開け放たれると、小姓たちは訝るより先に慌てて平伏した。
控え目な燭台の灯りに照らし出された愛姫の顔貌は、無色透明。
その中で深い深い憂いの色を浮かべた黒瞳が、一堂を静かに見渡す。そうして、部屋の中に足を踏み入れた彼女は景綱の前に立ち止まった。
面を上げた少年の手を取り、一言もないまま宿直部屋から連れ出した後に、他の小姓たちが溜め息と共に無言で互いに目配せし合った。

愛姫に手を引かれて昏い廊下を渡り、政宗の寝室に導かれるまで景綱は、城内に満ちる闇と甘い香りをその体内に取り入れるかのように呼吸していた。
彼女の掌はとても冷たく、5月とは言え、ひんやりとした夜気より更に景綱を凍えさせた。
彼の女は、静かだった。
さらさらと打掛を鳴らして政宗の枕元に侍り、その隣に少年を座らせるまで、彼女の瞳は愛しい良人の横顔から目をそらさずにいて。
そして静かに言った。
「私が、伊達家を潰させはしません」
それは、頭首に対する言葉のようであって、その実、景綱に向かって吐かれた台詞だった。
「…景綱、お前が…」と言って、愛姫は一旦声を切る。
「お前が政宗様の暴走を留めて、その御身を救ったように、私は豊臣の懐へ入って、これの横暴を止めてみせます…。百姓上がりの猿が、由緒正しき伊達16代頭首たるこの方を辱めるなど…あってはならない事―――!」
気持ちの昂りが語尾を振るわせ、愛姫は言葉を切った。
そして、ひっそりと景綱を振り向く。
灯りの落とされた寝室の内では確かとはその表情を見分けられなかったが、何処からともなく漏れ入る光が、仄かな香りが、愛姫のかんばせを象る。
「私たちは男と女ではなかった…」
その様がこの世のものとは思われずに、景綱はただ見守った。
「何度もこの方と繋がろうとした…。最初の頃は政宗様に触れられるとどうしようもないくらい感じて、それが恐ろしくて受け入れられなかった…。私たちは幼かったし、自分の半身をこの手に抱いているのだと言う感覚があったから…。けれど、それがある時、変容してしまったのです…」
恐ろしい寝物語を聞かされているようだった。
このまま最後まで語らせたら、開けてはいけない扉が開かれ、解き放ってはならないものが闇を突き抜けて飛び出して来そうだった。
「お前が、この方を変えてしまった」
「…愛姫様……」
「何度もお前を殺してしまおうと思った…。この手で縊り殺して、政宗様が愛されたお前の一物を斬り落として犬にでも喰らわせてやろうと…!」
言い捨て、愛姫は己が両手で顔を覆った。
肩を震わせ、もう枯れ果てた涙の河に溺れる程、苦しんでもがいて。
「…でも…出来なかった……」
「………」
「この方を哀しませる事など私にはできない…私たちは同志だから…」
醜悪な恋情と嫉妬の薄暗い炎を見せる愛姫を、景綱は恐ろしいと感じ、そして、かなしい、とも感じた。
政宗は愛姫の真意を見破れず、あろう事か景綱に懸想しているなどと勘違いしていたが、彼女のこの告白を聞いたなら、きっと愚かしくもかなしい女を愛さずにはいられなかっただろうに。
その本人が目を覚まさぬまま、最愛の正室は故郷を離れて、遠い京の都へと一人、孤独な戦いを挑もうとしている。
「……ねえ、景綱…」
震える女の手が闇の中を弄って、少年のそれを捕らえた。
「景綱…私からこの方を取らないで…。私たちは同志なの……たった二人きりの同志なの…、お願い……」
潜めた声、切羽詰まった心の臓。
そして、手弱女の滑らかな肌えが少年の小さな掌を包み込んで来て、
―――景綱は逃げ出した。
13歳程の小姓如きに何が出来たと言うのか。
馳せても馳せても、伏して鳴き続ける女の細い声が何時までも何処までも追って来た。

翌日、愛姫が幾人かの侍女を伴って、迎えの豊臣の使者と共に京の都へ旅立った。
政宗はそれから5日程して目を覚ました。
奪い取られた所領の件と、愛姫の身の処し方を聞いた彼の方の有様は、見ていられない程だった。
まだ動ける体でもなかったのに、切り裂かれた腹と折られた首の骨を顧みる事もなく床から起き上がって単身、京の都へと殴り込んで行かんとした。それを、成実と綱元が捨て身で止めようとしたが、イカヅチを放って吹っ飛ばしてしまう。
そうかと言って、その身体では褥から一歩足りとて動ける筈もなく、政宗は顔面蒼白にして断腸の思いに身を悶えるばかりだった。
その痛ましい姿は誰も直視出来なかった。
数ヶ月前には南奥の殆どを手中に収めて幸福の絶頂だっただけに、その転落は壮絶なものがあった。
豊臣への怨嗟の呻きは尚一層、陰惨を極めた。
傷が癒えて動けるようになると、表向きには彼は落ち着きを取り戻したかのように思われた。
豊臣からは再三、黒川の城を退け、と言うような書状が来て諸臣もそれを勧めたが、政宗はシニカルな笑みを浮かべて握り潰して見せさえした。
これには豊臣のやり口に憤懣やる方ない、と言った態度を貫いていた成実でさえも、苦い思いを噛み締めずにはいられなかった。
愛姫がその身をもって救った伊達家を潰す気か、と。
諸臣の政宗を見る目が冷やかになって行ったのを、景綱は敏感に感じていた。

そして、それは起こった。

小姓部屋で景綱が休んでいた7月始めの夜だった。
何やら騒がしく廊下を駆ける足音が通り抜けて、目を覚ました景綱は、他にも起き出していた先輩小姓と共に主の寝室へ駆け込んで行った。
そこで見たのは、鋭い刃で切り裂かれた襖や板戸、それに畳の残骸が飛び散った有様であり、それが燃えて焦げてぶすぶすと黒煙を上げる様であった。
すわ、賊が火を放ったか、と慌てた小姓や、他に宿直していた家臣らや下男らが、城の庭にある井戸から水を汲み上げようと飛び出した。
冴え冴えとした月光が美しく整えられた庭の木々に降り注いでいた。
いや―――。
今夜は月のない夜だった筈だ。
しかし、蒼白い光はくっきりと庭木の影を白州の地面に落としていて。

その光の中央に政宗がいた。

稲妻を纏った彼は、表情の消え失せた横顔をその場に集った人々の前に赤裸々に晒して、そこに人がいる事に気付きもせず、虚空を凝視していた。
白い内着の一重を身に纏い、何時もは黒い眼帯で覆われた右目を長い前髪の下に見え隠れさせているのに、思いが至る事もない。
その薄い唇が微かに動き続けて、何事かを繰り返し唱えているようだった。
景綱は集った人々の最前列で、成す術もなく呆然と突っ立っていた義兄の隣に立った。
それをちらと顧みた綱元は頭の中で目まぐるしく考えを巡らせた。これは政宗が小手森城で撫で斬りをした時以来の一大事だった。しかも、先程から頭首の口が吐き出す言葉は、この場に集まった者たちに触れさせてはならぬ類いのもの。
この伊達家が内部から瓦解しかねない程、危険な状態だった。
「景綱…政宗様をお止めしろ……」と綱元は、未だ幼い義弟にそう告げた。
「しかし―――…」
「頼む。これはお前にしか出来ぬ事だ…。でなければ、俺は政宗様が次にイカヅチを放たれる前に、この手で政宗様を誅さねばならん…」
「………」
ほおずきの実は今、手元にはない。
だがそれは物事の象徴でしかなかっただろう。景綱は義兄が己に死んででも政宗を守れと言っているのに気付いて、1つ息を呑んだ。
かつては政宗を我に返らせたほおずきなしで、己が身一つで何処まで出来るか全く見当も付かなかったが、やるしかない、と腹を括った。
少年は、さくさくと白州を踏んで前に進み出た。
近付けば、政宗の呟き声が聞こえる。それは、こう言っていた。
「許せ…父上…基信、良直…許せ、許してくれ……」
出て来る名は今は亡き者たちばかりだった。
景綱はこれの意味する所に気付き、目を惑わせた。
この事を背後にいる者たちが気付いたなら―――恐ろしい事が起きる。
「政宗様」と景綱は声を掛けた。
「夜歩きには相応しくない夜でございます。居室にお戻りを」
景綱の声に、青年が振り向いた。
真正面から見つめる彼の方は、痛々しい程に蒼白な顔色に色素の飛んだ白金色の左目と、醜く爛れた右目をその細面の中に刻んでいて。
そして、血の気の失せた唇が更に一言。
「俺が…殺した―――」
「政宗様…!」
素早く歩み寄った景綱が、低い位置から政宗の両腕を取った。
その時、青年の瞳に走ったのは怯えで、有り得ない程弱々しく彼は身を捩った。
途端に、景綱の鼻先でスパークが迸った。

人々がわあわあ喚く声が遠くから聞こえる。
これは地獄の囚人が、牛頭馬頭の極卒に追い立てられて上げる阿鼻叫喚の叫び声か、と思った拍子に意識が戻った。
先程と同じ庭の白州の上に上身を起こして辺りを見渡せば、倒れた政宗を綱元が抱え上げ、先んじて人々の間を歩み去って行く後ろ姿を捉えた。
そして、政宗の腕を掴んだ己の両手に目を落とす。
放たれた稲妻に打たれた筈が、腕だけでなく体の何処も何ともない。
掌にも火傷の1つない。
それ所か―――。
ピリピリと言って細い雷電が手から腕からそこを這い回って、

ふと、消えた。




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