―記念文倉庫― 1 政宗は、夏7月に入ってようやく米沢城に戻って来た。およそ半年もの間、城を空けていた事になる。 二本松城の成実の元では、大内定綱に所領を与えるのと引き換えに寝返らせ、蘆名の軍勢を撃退する事に成功した。 この後から大内は、伊達家の家臣として数々の戦で武勲を立てる事になる。またその子、重綱の代には数多の功績により一族の家格を与えられた。 結局政宗は、この男の現実的な身の処し方や、戦上手で調略の巧みさ、十文字槍の扱いにも長けていた所を気に入っていたと見られる。最初に定綱が伊達への帰参を申し出て来た時に腹を立てていたのは、むしろ伊達の家臣の言い草の方であろう。忠義がどうの、誰それの面目がどうのと、つらつら愚痴を述べられるのに相当頭に来ていたらしい。 また、大崎氏を巡って対峙した伊達・最上の両陣営の間には、政宗の母義姫が乗った輿を割り入らせて停戦を懇願した為、両陣営は膠着状態に入った。 この間に伊達勢は体勢の立て直しに掛かり、南方の相馬・蘆名に備えて兵を動かした。こうして、両陣営はひと月後に郡山・窪田の城にそれぞれ陣取って睨み合い、更にそこからひと月以上も小競り合いを続けた結果、各所で結ばれた和睦や調停を受けて兵を引いた。 あちこちで上がった戦火はそれぞれ複雑に絡み合っていて、一筋縄では行かないものがあったのだ。何より伊達軍は中新田城攻略の失敗から始まって、大崎・最上勢による痛手が浅からず、無理を押して大攻勢を仕掛ける事が出来なかった。 和議の上の撤退により伊達家は命拾いした、と言える。 この一連の戦で政宗は一人突出して戦場を駆け回る事がなかった、と、後に景綱は小姓の1人から話を聞いた。 政宗は静かだった。 静かと言うのもおかしな表現だったが、本当に静かなのだ。 夏と言えば青田が山颪にたなびき、春に生まれた仔馬が野を飛び跳ね、百姓も歌垣に浮かれる頃だ。朝は早々に強い日差しを射て、昼はうだるような暑さに項垂れるが、茜色の夕陽の中には壮麗なトンボが野山を飛び交う。 そんな中で政宗は、静かだった。 朝議や政務の間の朝な夕なに愛姫の許を訪れ、また愛姫が政宗の許を訪れたりして、相変わらず微笑ましい姿を誰憚る事なく見せていた。 その一方で―――。 そう、その一方で、景綱に対する戯れの頻度が増し、その色香も濃度を増して行ったのだ。 まるで、陰(愛姫)と陽(景綱)、両極の天秤を得て左右に振れる事をやめたもののように。 夜の晩酌の最中に、あるいは明け方1人で宿直する景綱の元で、時にはまだ日暮れ前の二の丸から本丸へ移動する道すがら、空いていた書院の一角で、人目を巧みに避けてそれは行なわれた。 政宗の小姓であるなら、こんなにこそこそせずとも夜の寝所に呼び出せば良いだけの筈だ。それをせず、まるで不義密通でもしでかしているような行為が続いて、景綱の神経を少しずつ政宗と言う存在が蝕んで行くようだった。 愛姫との不仲故?それとも単純に玩ばれているだけ? それも、最終的に行き着く所まで行き着かず一方的に身体を弄られ、たった一度達した後に解放される、と言う有様だ。 目敏い小姓頭取に一度問い質されて、自分が主のお手付きとなった事を自白した時は、切腹したくなるぐらい恥ずかしかった。だが、小姓頭取は何でもない事のようにその事実を受け入れ、景綱にあるものを渡した。 「…何ですか、これ…?」と問う景綱にさらりと言って退けたものだ。 「ねりぎ、だ」 そのようなものがあるのは知っていた、小姓の嗜みとして。 これを行為の前に唾液で溶いて、主のものを受け入れる箇所に塗り込んでおくのだ。自分が傷つかない為であり、主がすんなりと気持ち良くなる為に。 その「ねりぎ」を包んだ薬袋を常に直垂の袂に入れてあったりするのだが、未だそれを使うハメに陥った事はない。 もしかして主と言う人は不能なのか?と疑っても詮無い事を思ってみたりするが、そうだとしてもだからどうなのだ、と言う状況だった。 景綱にしてみれば、愛姫との行為は相変わらずあのままであるのなら子が出来ぬのも無理はない、と言う程の事だ。 8月に入って政宗は、愛姫の実家である田村氏に、愛姫の従兄弟であり亡き田村清顕の養子となった田村宗顕を頭首に据えて、田村の家内でのごたごたを納めた。 政宗が自分の名の「宗」の字を与えている事からも分かるが、宗顕は親伊達派であり、実質的には田村氏は伊達家に属した事になる。それでもやはり田村の血と家と城と領地、これらが安定した事を愛姫は喜んだようだ。 景綱に向かって不満を投げつけるような事もなくなった。 ―――その愛姫様が今宵も渡って来られるのか…。 景綱は一人きりの宿直番で、庭を渡る虫の音に耳を傾けながら目を閉じていた。 板戸は半分程開けっ放しにしてある。そこから漏れ入る月明かりのお陰で、行灯を灯さなくとも手元はしっかり見えていた。 ―――年経てはたちを越えればお伽の相手にされなくなるって言うんだ、早く大人になりてえな…。 手持ち無沙汰に茶を啜り、甘辛い漬け物を齧りながらそんな事を考えていた。漬け物は先輩小姓からの差し入れだ。1人でご苦労だな、と言う訳だ。 政宗に蝕まれる事は不快でこそなかったものの、その痒いとも痛いとも取れない感覚がもどかしい。いっそ無くなってしまえば良いのに、と思う程には。 ―――いや、愛姫様にお子が出来れば、そちらに興味が移られて…。 でも、何故かそれは有り得ないような気がした。 たった2人きりの同志と言って、凍るような闇の中、自分を掻き抱いて来た冷たい腕の感触が蘇る。 12や11の年頃に出会ってから政宗と愛姫はずっとそんな関係を続けて来たのだろうか。兄妹のように、双子のように。それ程身にぴったりと添うていては、互いが見えなくなりはしないのだろうか。 ―――それはやっぱり、かなしい事なのではないだろうか…。 考え事をしていたらうたた寝をしてしまっていたようだ。何かの気配にはっと我に返り、顔を上げた所で、先程は半分程開けてあった板戸が完全に閉じられているのに、気付いた。 それを開けようと膝立ちになった、その時。 目の前に某かの影が踞っているのに気付いて動きを止めた。 闇の中で何かがきらめく。 闇と言っても、妻戸も何も閉ざしてしまう冬の闇とは違う。外の月明かりが空気に溶け込んで薄っすら蒼く染まったかのような闇だ。 その中に一際昏い重油のような影がある。 「……ま…」 さむねさま、と続けようとした所を、眼にも止まらぬ動きで口を塞がれた。 ばさばさと波立った衣擦れの音が止んで清かな虫の音だけが夜の帳を占めると、静々と打掛の裾を引いて歩く人の気配が近付いて来た。 ―――愛姫様だ…。 彼女が渡って来る時刻になっていたのかと気付くが、景綱の口を抑えて体を抱き竦めた人は身じろぎ1つしない。息すらしていないのではないかと思えた。 その間に足音は宿直の部屋の前を通り過ぎ、政宗の居室へ入って行った。 誰もいないそこで愛姫は何を見たのだろう。 そして、良人の寝所に足を運んで来た彼女が何もせずにトンボ帰りに来た道を引き返して行く時、その胸に去来するものは―――。 愛姫の気配が遠離り、それも消えて、虫の声のみならず月光がはらはら降り注ぐ様さえ音を生み出しそうな静寂が戻って、ようやく景綱は解放された。 壊れ物でも扱うようにそっと身を離した政宗は、その場に片膝を立てて座り込んで、そこに面を伏せながら言った。 「…悪ィな、愛姫と喧嘩しちまった…」 小姓如きにそんな言い訳などしなくても良いのに、と思った景綱は、それを聞かなかった振りをした。 「お茶をお入れ致しましょう」 言って、宿直部屋の隅にある風炉に掛けてあった茶釜から急須に湯を注いだ。 「茶の作法もなっておりませんが」と言いつつ、何時も主に出すものとは違って、安価な茶を差し出す。 愛姫と喧嘩をして政宗も機嫌が悪いのか、最初の一言から二言と口をきかない。そう言う時は気を効かせて無難な話題を振るべきか、それとも黙っているべきかを考え、無難な話が思い付かなかったので黙っておく事にした。 「小十郎…」 ようやく口を開いたかと思えば、その声は非道く掠れていて。 「お前…愛を抱けるか?」 その口から飛び出した台詞にたっぷり数分は固まっていたかもしれない。茶碗を持っていたらぽろりと落としてしまっていたかもしれない。 「…政宗様…ご冗談も程々に…っ」 ふざけんじゃねえ、と本当は怒鳴りつけてやりたかった。 だが、弱々しくかぶりを振った政宗は傷ついた子供のようで、10歳も年上だとは思われない程に打ち拉がれていた。 「俺が相手じゃダメなんだって言うんだぜ…全然濡れねえんだ。最近は少しも触らせてくれなくなって、俺ばっか喘いでてよ…」 夜陰の中でそんな話を聞かされて、景綱は真っ赤になっていた。多分耳や首筋まで色を変えていただろう。そんな有様だから返す言葉もない。 「他の奴なら良いのかって聞いたら、口もきいてくれやしねえ…」 当たり前だ。愛姫は本当に本気で政宗を愛しているのだから。 でも、それだというのに、愛した人に触れられて感じないとは。 愛した人を男として悦ばせてやれないとは―――。 そうして、更にもっと驚愕する事を政宗は言った。 「俺がお前に手を出してからだ」と。 「は…?」 「多分、愛は小十郎、お前に惚れてる」 「なっ…そんな馬鹿な!」 思わず声高く叫んでいた。寝耳に水、とはこの事だった。 景綱の反応を、顔を伏せた状態から見やっていた政宗は、立てていた膝を開き、そこに両手を置いて陰気に上身を屈めた。 「俺がいない間、しょっちゅう愛に呼び出されてたろ?」 「し、しかしあれは…」政宗の為に何か出来ないか、と言う相談が殆どだった。 「愛は多分、俺みたいな成熟した男が苦手なんだ。それに引き換えお前は、愛が嫁いで来た時の俺の年頃だ…それが恋しい、ってな」 ただ年頃が同じだからって有り得ない、と景綱は強く思った。 その上、こんな事まで主は言う。 「お前も…愛のが良いだろ…?」 「―――…」 混乱して、呆れて、返す言葉もなかった。 そうした感情の大波が行き過ぎると、人間却って冷静になるらしい。景綱は自分の前にあった茶碗を押し退けると、拳を使ってぐい、と前へ進み出た。 そして、平伏する。 「政宗様、この小十郎、貴方にお仕えする臣の1人としてそのようなお疑いを掛けられるのであれば、この先お勤めを致す事は出来ません」 「―――」 「腹を掻っ捌いて身の潔白が証明出来るのでしたら、幾らでもこの腹くれてやりましょう。ですが、余りにも情けない事を仰る…っ」 言い終え、だん、と踏み上げた利き足の勢いのまま、懐から抜き放った匕首を振りかぶった。 ギラリ、と踊るその白い刃身に月光が跳ねる。 政宗はしかし、動じる事なくさっと上身を横に反らして切っ先を避けた。その上で、座す時に傍らに置いていた脇差しを僅かな動きの中で抜き放つ。 月光を浴びて、2つの影が時を止めた。 「―――…わざと手打ちになって俺の目を覚まさせよう…ってか?」 ぴたり、 床から真っ直ぐ突き立てられた刃は、片膝立ちで動きを止めた景綱の喉元にその切っ先を突き付けていた。 「いいえ…」と景綱は殆ど口を動かさず応えた。 「いいえ!貴方を殺して出奔した方がよっぽどマシだ…!!」 「―――…」 見開かれた主の左目が月光を反射してキラリと輝いた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |