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―記念文倉庫―

これらを政宗の側近くでつぶさに見ていた景綱は、1つの感慨を抱いていた。
―――まるで血の繋がりを恨んでいるようだ…と。
未だ存命だった遠藤と良直との間でひっそりと交わされた言葉の数々が脳裏に蘇る。
「血よりももっと濃いものを抱えていらっしゃる」「肉親の情と言うものを捨ててしまわれた」―――。
景綱は、政宗が得た病の事は知らない。
いや、天然痘そのものの事は良く知っている。この時代では疱瘡と呼ばれた病は、罹れば2人に1人の確率で死亡し、その皮膚に出来た膿や瘡蓋に触れただけでも感染すると言う、恐ろしい伝染病だった。
他ならぬ、景綱の両親が相次いで亡くなったのはこの病が原因だった、と聞いている。
彼は発病した両親から早くに離され、その姿を見ていない。尤も、3つ4つの子供には自分の置かれている状況を正しく理解出来る知恵もなかった。
それでも、景綱の実家である八幡神社が打ち捨てられ、その住居が焼かれてしまった事は人づてに聞き及んでいる。病の伝染を恐れた人々が放火したらしい、とは人々の口さがない噂だ。
その恐ろしい病の痕跡を、景綱は己の主に見る事が出来なかった。
病で潰れた右目に眼帯をしていこそすれ、それ以外に瘢痕らしきものを見出せないのだ。肌は白くシミ1つなく、その骨張った手は男らしくあったがすんなりと美しく。
彼の人の手を思い出して景綱は1人苦笑する。
自分の中の政宗の記憶は、無理やり着付けられた女物の打掛の袖を掴む、あの人の手の形だったからだ。顔よりも、人と成りよりも、強く印象に残っている。
それが今度は自分の陰所に絡まって―――。
「景綱、戦装束の支度を頼む」
不意に声を掛けられた景綱は、危うく思い出しかけた事を頭から振り払った。今は配布された料紙を数える作業をしていたのだ。
美しい色に染められたり、金銀などの箔を入れられたそれは、頭首の正式な文書を認めたり、写経などの為に使われる。その手を止め、小姓部屋でも最も明るい縁側沿いの室へ小走りに駆けて行った。
朝方の冷気が残る小春日和だった。
政宗の護衛として付き従う小姓らが、具足を纏って出陣しようとしていた。
この所、戦ばかりだ。
「成実どのは持ち堪えられるだろうか」
「難しいであろうな…僅か700程の手勢で4000を越える大内定綱をこのふた月、防ぎ通しただけでも天晴れと言える」
「北からも大崎氏に加担した最上どのに攻められて、青息吐息よ」
そのような言葉を交わす先輩小姓の、胴丸の後ろ紐を引き締め、結びなどしながら黙って聞いていた。
田村領を狙った相馬義胤を、田村家中伊達派の筆頭、橋本顕徒が一度は退却させたのだが、その後も未だ相馬は、佐竹・蘆名・二階堂などと手を結び三春城乗っ取りを企てていた。
そんな折り、政宗が大崎氏の内紛介入に失敗したのを好機と見た蘆名義広が、大内定綱を先鋒とする4000の兵を伊達領に進めた。これの防衛に努めたのが伊達成実だったが、700と言う寡兵で辛くも二本松城を守り続けている。
一方、大崎内紛には、政宗にとっての伯父である最上義光が大崎側に立って参戦し、これが北方から伊達領に攻め込んで来ていた。更には、小浜城の枝城である小手森城城主が相馬に寝返った事から、政宗自身はこれらの対処に掛かり切りだった。
成実に回せる兵が全く足りなかったのだ。
小姓たちの会話は、暗澹とした現状に相応しく重々しかったが、この四面楚歌の有様にしては絶望的な悲壮感、と言った様子は窺えなかった。
大人しく具足の着付け作業に勤しんでいた景綱を、小姓頭取が見やった。
「我らが暢気に見えるか、景綱」とその心を読んだような事を言って来る。
「いえ…、お前様たちが政宗様を信じておられるのが良く分かります」
「そなたも早く参戦すれば、尚良く分かるだろう」
「如何にも。あの方の六爪の迸りを見れば、血沸き肉踊る気分よ」
「戦は数の多少ではあらぬ。兵どもの士気が上がれば万の敵も何するものぞ」
「それに、策略にも長けておられる」
「これ……」
「………」
小姓頭取に嗜められ、他の小姓先輩らも口を噤んだ。
景綱はその言葉を聞かなかった事にした。
その政宗は、最初の小手森城での撫で斬り以来、目立った荒事を成していないようだ、と言うのが景綱の見立てだった。
あの時もしかすると、暴走して御し難かった己自身を恐れる気持ちが芽生えたのかもしれない、と思う。
政宗としても、我を忘れてイカヅチを放出し続けるのは家中の不信を招く原因と見ているのは、鬼庭良直が主君に向かって刃を抜いた事からも明らかだ。
誰にも想像出来ないだろうが、政宗の内部は非常に脆く、危うい状態なのではなかったか。


それは、政宗の正室愛姫の方から察せられた。
政宗が戦で米沢城を空け、静まり返ると、愛姫のいる御座所の奥から景綱に使いがやって来る。
その名目は、政宗の小姓たちの働きに対して反物や菓子を賜るとか、政宗本人に着物や硯箱、調度の類いを差し上げたいので見立てに協力して欲しいとかだったが、要は、たった1人で政宗の帰りを待つのに耐えられないのだ、と景綱は見ていた。
愛姫は、景綱が児小姓に入った3年前から―――いや、多分もっとずっと前から乳母や侍女を側に置いていなかった。
外部の噂では、政宗暗殺を疑われて政宗本人の討たれたからだ、と言われている。内部では、政宗が愛姫に女でも近付けさせたくないぐらい寵愛しているからだ、などと巫山戯半分に言われた。
確かにそれ程、政宗は城中にある間は愛姫にべったりではあったが。
実際は、愛姫自身が孤独を愛する人だったからだ。
例えば、
呼び立てられた景綱が、正室の居間の手前で平伏し来訪を告げると、振り向いた彼女の右手に携えられた煙管が先ず目につく。
女が煙草を吸う事は、この時代でも余り褒められた事ではない。煙害や行儀の問題ではなく、贅沢品だった為だ。奢侈の象徴、とでも言うべきか。
これを一人、ぷかぷか吹かしている愛姫の姿を景綱は何度も目撃している。
政宗がいれば、2人で1つの煙管を交互に吸い合うのだから、仲睦まじい光景として目に映った。
その煙管を降りつつ手招かれたので、景綱は彼女の端近くへ寄って腰を下ろした。
「政宗様は当分お戻りにならない?」
この問いに、景綱は暫くしてから応えた。
「領内事が長引いておりますので、おそらくは、当分は」
「そう―――」と呟いて愛姫は形の良い唇に煙管の吸い口を寄せた。
「ね、お戻りになられたら、何か喜ばれる事をして差し上げたいの」
再び景綱を顧みた愛姫は少女のようにあどけない瞳を輝かせた。
3年経って、出会った頃に比べすっかり大人の女の仲間入りを果たしている筈だったが、撫子の色目が目にも綾な打掛を纏った彼女は、相変わらず涼しげな美貌を振り向ける。
そして、何時の間にか景綱には甘えたような親しげな口調で話し掛けるようになっていた。
「お召し物はつい先日送ったばかりですし…。お膳のものでは何時お戻りなのか分からないですから、季節の旬のものを用意しておくのは難しいわ。景綱、他に何が良いと思う?」
ちょっと嬉しげに尋ねられて、何となく景綱は視線を落とした。本当に相思相愛の夫婦なのだな、と思うと、ずん、と心が重くなった。
「…景綱?」
「他のものではありません」
「え?」
「政宗様におかれましては、愛姫様のお側にあってその笑顔をご覧になるのが何よりのお喜びかと」
少しく頭を下げたままそう告げる若い小姓を、愛姫は僅かに瞠目して見守っていた。それを訝しがって顔を上げた景綱が彼女を見やれば、不意と顔を反らして煙管の吸い口に歯を立てていて。
「…何処でそんな世辞を覚えたのかしら…」
などと少し苛立った声で告げる。
「世辞などではありません。愛姫様とご一緒の政宗様は本当にお幸せそうで…」
「田村の御家を属州にしようとなさっておいでなのに?!」
思わず荒いだ声が返って来た。
その己の様に恥じ入ったか、愛姫は吸いかけの煙草の葉を煙草盆に落とした。
その後も未だ蒔絵の施された煙管を玩ぶ白い手を眺めながら、景綱は、政宗の立場を鑑み、また愛姫の気持ちの有り様を慮りながら、言葉を継いだ。
「相馬が愛姫様のご実家である田村家を奪わんとしている所を政宗様は何とか防ごうとなさっておいでです。愛姫様の目にそのように映ってしまうのでは、政宗様のせっかくのお心遣いが意味を成さなくなってしまいます」
「私の目には正しく物事が映っていないと、そう言うの、景綱」
「そうは申しておりません…」
「そう言ってるでしょう!」
怒鳴った拍子に掴んだ煙管が、煙草盆の中の灰を少しばかり飛び散らせた。
それは畳の上に点々と走り、それを眺め下ろした景綱は懐の内から紙を取り出して静かに、丁寧に拭った。
田村氏の家と領地を巡って政宗と愛姫の間に溝が出来たのはこの頃だった。それでも顔を合わせればやはり睦まじい様子を見せるのだから、互いに愛し合っているのは間違いないのだろうが。
「どうぞ…政宗様を信じて下さいますよう、お願い致します」
景綱としてはそう言ってやる他ない。
戦続きで、城を空けがちになって心許なく、不信の芽がむくむくと沸き上がって来るのにも理解は出来るのだ。そうだとしても、戦を終えた政宗が帰って来るのはこの城、そして愛姫の許なのだから。
「ねえ…景綱…。先日、政宗様がお戻りの際、何かあった…?」
話を反らす為か、戸惑いがちに放たれた問いに思い当たったのは、あの夜だった。
元服の祝いにと、戯れに施された夜。
「いえ、何も」
「―――…」
沈黙が恐ろしくて顔を上げれば、景綱の瞳の奥底の底の方まで見通すような澄んだ眼差しが、己を捉えていた。
何をしているんだ自分は一体、と訳の分からない焦りが景綱をせっついた。
主の正室とこんなに親しくしていて、その一方では主の手管に踊らされた自分がいて、何処か後ろめたい思いに駆られているなどと。
固まった小姓の様子に何かある、と賢しい姫は悟っただろうが、それ以上何も応えぬと見るや「そう…」と淋しげに呟いて視線を反らしてしまった。
それが儚くて、余りに痛ましく思えたので景綱は、無理に笑顔を作って明るい声音で言ってやった。
「今度、政宗様がお戻りの際は、愛姫様の元気なお姿をお見せになって下さい。それが一番、政宗様のお喜びになられる贈り物と存じます」
薬にも毒にもならない言い草だ、と自分で分かっていながらそうとしか言えなかった。
11歳の景綱に男女の機微など読める筈もない。
言うだけ言って、少年は奥の居間からそそくさと逃げるように退室した。


     To Be Continued.




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