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―記念文倉庫―

長くて細い、美しい指だ、と思った。
金糸の刺繍が施された豪奢な打掛を掴んだ、若い頭首の手を間近で見て、子供の抱いた感想だ。
若者らしく未だその肌はすべすべで、色白で、形の整ったそれはしかし、女のものよりゴツゴツしていて、何故か指の股に剣胼胝らしきものがあった。そうでありながら、無造作にものを掴んでいるだけの手付きが、非常に上品で美しかったのだ。
それに見蕩れていたら、引き摺っていた裾を踏んで転倒しかかった。
「おっと」と言って、頭首は軽々と子供の体を引き上げ、そのままひょいと片腕に抱え上げてしまった。
「愛に会わせてやる」
続けてそう言った声は非常に楽しそうで。
「…めごって…?」
「愛は愛だ。俺の正室だ」
「………」
頭首の正室など、小姓でも滅多に会えぬのではないだろうか。
そう思いながらも小十郎は、その胸に抱えられた温かさと、仄かに香る何かの香に気を取られていた。
喜多のそれとは全く違う、良い香りだった。
すっきりしていて、僅かに甘いような気がする。
それが、小姓によって着物に薫き染められた香だと言うのは後で知る事になるが、この時小十郎は現実逃避に近い精神状態にあった。

御座所の奥に政宗の正室、愛姫の居間があった。
江戸城の大奥のように厳格な出入り禁止の項がある訳ではないので、取り次ぎもせず、ざざっと廊下を渡ってスパンと襖を開け放つ。
中には、たった1人の女御の姿しか見当たらず、それが燦々と陽の降り注ぐ縁側に腰を下ろして煙管を吹かしていて、まるで一枚の絵のようであった。それが、政宗の登場に振り返り、気怠げな視線を投げやって来る。
頭首の正室の身の周りには幾人もの侍女が侍っているものだと思っていた小十郎は、振り向いた女の麗しい面が無表情でありながら淋しそうだ、と感じてしまった。
それにすら気付かないのか、政宗はズカズカとその側に歩み寄ると、小十郎を下ろし愛姫の対面に腰を下ろした。
「可愛いだろ」
それが愛姫でなく自分の事を評して言っているのだとは、暫くしてから気付いた。頭の天辺から湯気が上がるかと思う程、恥ずかしかった。
下ろされたその場に突っ立ったままの小十郎を顧みた少女が薄く、微笑む。
儚い微笑だ、と思った。
けれど控え目で、鋭利とも言える美貌が眩しかった。
「おのこでございますの?」
良人に視線を戻した愛姫が問えば、まるで自分が褒められたかのように政宗は胸を張った。
「Yes. 小十郎って言うんだ。生き人形ってのは誇張じゃなかったな」
遠藤の「生き人形」の話は正室の耳にも入っていたらしい。再び涼しげな眼差しを投げやられて、小十郎は酷くいたたまれない気分になった。
このはっちゃけた子供は今、黒髪を肩に下ろし、蝶や花のあしらわれた女物の打掛を身に纏って白粉までしているのだ。本物の女性、しかも愛姫のようにすっきりとした美しさを持つ者の前に立てば、情けなくもなる。
その手が伸びて、白魚のように白くて細い手が子供を手招いた。
政宗の手も白くて細いが、愛姫のそれは骨の形も見分けられない程柔らかそうだった。
それに誘われるようにして二歩三歩、歩み寄り、袖を引かれるままに膝を折る。けれど、また横座りをする事になって、今度こそ横にこてん、と転げてしまった。
「まあ…」と愛姫が溜め息と共に呟く。
「中身はただのガキみてえだがな。そこが面白え」
そう言って頭首にクスクスと笑われて、小十郎は情けなさ過ぎて泣きそうだった。それを堪えて唇を噛み締める。
その子供の体を抱き起こし、愛姫は己の胸に少年の体を寄り掛からせた。
女の脇息はこの横座りの際に寄り掛かる為なくてはならないのだ。今は児小姓程度の小十郎が、頭首の正室を脇息代わりにしている。
さすがにマズいと思ったか、少年はその手を払おうとした。だがやんわりと肩を抱かれ身動き出来なくなってしまう。
何て柔らかい拘束なのだろうか。
政宗の胸に押し付けられた時とは違って、その柔らかい胸元の感触によって、そして政宗の直垂から香って来たものと同じ香を嗅ぎ取って、体が固まる。
「遠藤基信の目付役だ」と政宗が言った。
煙草盆に置きっ放しにされた吸いかけの煙管を取り上げ、それを一服吹かした後の台詞だ。
「俺たちの閨の中での事まであいつが握る事になるぜ」
「………」
政宗の台詞に子供の体が強張ったのに、愛姫も気付いたのだろう。
さらさらと美しい緑の黒髪を零しながら彼女が首を傾げつつ、小十郎の顔を覗き込んで来た。
「…本当に?」
問いかけは優しい。けれど、その優しさが今は恐ろしかった。
小十郎は無言のまま、ぶんぶんと首を振った。
せっかく櫛を入れられた癖のない黒髪が乱れてしまう。それを愛姫が美しい繊手でそっと撫で付ける。
「別に良いではありませんか…隠し立てするような事など、何もありませんもの」
愛姫の笑気を含んだ言に政宗はふん、と鼻先で笑った。
「年寄りどもが俺を煙たがってんのは見え見えなんだよ。さしずめ、俺の失脚に繋がる材料を嗅ぎ出そうってんだろうが、逆に利用してやるさ…おい、小十郎」
呼ばれて、びくりと顔を上げると、目の前に頭首の顔面が迫っていて。
「お前が俺の小姓だってんなら、お前の主は俺だ。そこをしっかり覚えとくんだな」
長い前髪で右目を覆い、剥き出された左目はキラキラと輝きつつもやけに好戦的。薄い唇は皮肉に片方だけを歪められ、子供の反応を楽しんでいる。
小十郎は身を乗り出して来る政宗の顔から、立てられた膝の上に乗る右手がもぞもぞと動かされているのに目を落とした。
それに気付いた政宗がちら、と手元を見やり、それから愛姫の顔を顧みた。
ふ、と気の抜けた笑い。
「俺の眼帯よりこっちの方が気になるってよ」
身を引いた政宗が、代わりにその右手を子供の鼻先に突き付けて来た。開かれた掌に乗っていたのは、濃い橙色の小さな実だった。果肉の中で白い種が踊っているのが見える。
「ほおずきの実だ」
言って、ひらりと着物の裾を翻した政宗が縁側から庭に降り立った。
本格的な夏の日差しが降り注ぐ庭は、暑さもさる事ながら木陰の涼風も又一興、と言った趣だった。その中で、菖蒲か杜若の葉が生い茂った一角を囲うように据えられた庭石を1つ、拾い上げる。
その石を掴んだ左手が、縁側で愛姫に寄り掛かった小十郎の鼻先に突き付けられて。
何だ、と子供の黒目がその石と、政宗の微笑を浮かべた顔とを見比べた。
次の瞬間だ。
ゴ、
と細い音を立てて庭石が握り潰された。
「六爪、と言う竜の爪を操る政宗様の手のお力は、あのようにお強いのです」
触れる髪を撫でながらそう言う愛姫の声が何処か遠くから聞こえた。
政宗は何事もなかったかのように手に付いた破片を叩き落としている。
「岩をも砕くそのお力はけれど、普段では手にされたものを悉く破壊してしまわれます。ですからあのように、ほおずきの柔らかい実を手中に転がして馴らされているのです」
「………」
「そう…刀を持たれていない閨でも、政宗様は曲者の1人や2人、その御手1つで捻り潰す事がお出来になられるのですよ…」
耳の中に甘い声を吹き込まれながら、じわじわと脳内を蝕む毒を流し込まれているようだった。本物の恐怖が頭蓋の中を満たして、その耳の穴からとろとろと溢れ出して来るようだった。
それが決壊したら自分は喚き散らしつつ脱兎の如く逃げ出してしまうだろう、と言う予感に戦く。そうしたら、頭や首をあの美しい、長い指先に捉えられて、
―――ぐしゃり
捻り潰されてしまう。
ふ、と気が遠退いた小十郎は、愛姫に抱き止められながら失神していた。
それを覗き込んだ政宗が己の妻の顔を顧みる。
「おいおい…やり過ぎじゃね?」
「用心に越した事はありません…あの遠藤の手駒ですよ」
「ま…な―――」
「それに」と言葉を切って、子供の横顔を見下ろす愛姫はそっとその額に掌を乗せた。
「白粉のせいで分かりにくいですけれど、凄い汗…。慣れぬ装いで、その上初めての登城での気負い……酷な事をなさいますのね、遠藤は」
それをお前が言うのかよ、と政宗は嘯いたが何となく、苦しげに口を開けたまま気を失った子供の頬を、その指先でそっと摘んだ。
ほおずきの実より柔らかな感触が、頭首の指先に残った。

真っ暗な小姓部屋の隅で小十郎ががばと身を起こした時、夢のように伊達家の頭首とその側室の姿は消えていた。
ついでに、化粧も打掛も取り払われ、簡素な内着一枚を身に纏っていて。
―――誰に着替えさせてもらったんだろう…?
その事に子供は気を取られていた。


大仰な童女の姿からは解放されたが、それ以後小十郎に用意されたのは、まだ幕府が権威をもって都の華やかしき頃、元服前の男子の礼服に着用された「童水干」だった。
「生き人形」を女装ではなく、前時代の衣裳で飾り立てる趣向にしたらしい。
長ったらしい打掛を引き摺って歩かなくて済んだのはまだ、良い。だが、襟紐を結ぶのが厄介だし、毛抜き型の袖括りはその名に反してただの飾りで、袖を絞れないものだから、たっぷりした袖に掌が埋もれてしまって動きにくい事この上ない。
その袖を気にしてもぞもぞやっていたら、不意に言われた。
「人形は人形らしく居間を飾ってろ」
そう言う政宗の言通り、小十郎の仕事と言えば頭首の傍らにあって手鞠を転がしたり、色紙を折ったり千切ったり、と何をする必要もなかったから、袖が長かろうと関係ないと言えばなかったのだが。
その時も、朝議を終えた後、頭首の御座所の中、重臣と個人的な会談をする書院に侍らされて、面白くもない木製の玩具で遊んでろ、と放っておかれた。
そこで交わされた言葉の内容は、耳に入って来ても情勢を知らない小十郎には意味を成していなかった。ただ、何度も出て来る人の名前が引っ掛かっただけだ。
「大内」あるいは「大内定綱」や「二本松」「田村どの」などだ。
それらの名が、政宗の前に集った数人の家臣らの口から何度も繰り返し飛び出す毎に、政宗の機嫌は段々と傾いて行った。
いや、傾くと言うような生易しいものではない。苛々が目に見えたらきっとどす黒い炎のように、若い頭首の身辺にめらり、と躍り上がっただろう。そのような気配を纏い付かせつつも、政宗は至って普通に家臣の話にふんふんと耳を傾け、時折質問を返す、と言った事を繰り返す。
そのアンバランスさが却って不気味さを増長させ、家臣らも最後の方ではどもり、つっかえ、などしてようやく話を終えた。




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