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―記念文倉庫―

『鬼灯―ほおずき―』
―――私たちは同志なのよ…。
今ここにはいないヒトの声がまざまざと耳の奥に蘇る。
実際今ここにいるのは、常時20頭近く行儀良く繋がれ、世話をされている名馬ばかりだ。それが時折身じろぎ、嘶きを零すだけ。
それらの上げる逞しい息吹と、湯気を薄っすら上げる高い体温、それに少しばかり饐えたイグサの湿った匂いだけだ。
「政宗様…」
押し殺した男の声はその隅で落ちる。
「…どうか、政宗様。俺に貴方を下さい…」
何を言っているのかの自覚はあった。
建前として、これは目の前の主人を守る為だ、救う行為だなどと言い訳する頭もあった。
だが、拒絶を示して、男の腕の中に閉じ込められて身を強張らせる人の耳に吹き込む息は熱く、そして震えていて。
それが畏れなどと言った類いの可愛らしいものではなく、ただ欲望の塊が奔り出さないように力尽くで抑え付けている結果に他ならないのも、男は知っていた。
「何バカな事言ってやがる…」
項垂れた兜から上がる声はしかし、常のような険も張りもなく。
「…どうか、政宗様―――」
応じるのは、熱の籠った溜め息のような声だ。
「でなければ、今すぐこの小十郎めをお手打ちにして下さい。…いや、貴方を下されるのであれば、その後晒し首にでも何でもして下さって構いません」
「………」
―――私たちは男と女ではなかった。
そう言って、すっかり女としての艶を消したヒトが俯く。
その時、彼の女に残されていたのは辛さでも哀しさでもなく"同志"だと嘯くその矜持だけだった。
けれど今、そのヒトは大阪・界の地で産まれたての嬰児を抱いて微笑んでいる。きっと―――同志が1人増えた、と乾いた微笑みを浮かべて。
男は自分の中に沸き上がるものが嫉妬なのか、そうでないのかの判別はつかなかった。そんな遠い所の出来事など、雲の上の天気のように心許ないだけだ。ただ、今分かるのは身に覚えのある欲の塊に火が点いて、身体の内から溢れ出しそうだと言う事だけだ。
「政宗様」
―――貴方が俺の中の鬼を育てた。
その一言だけは決して口にする事はせず、静かな呼び掛けに応えた貴い人が顔を上げた所で、兜の括り紐をするり、と片手で解いた。
その時、指先が掠めた肉感的な唇がふるりと震えて。
ガシャン、
罰当たりにも、弦月の前立てのついた黒兜が土間に落ちても男は気にしなかった。抱き竦めた体が刹那、反抗の意を示したのを捩じ伏せて、歯と歯がぶつかる程の勢いでその唇を塞いでいた。
初めて彼の人の唇を貪った時、それは、血の味がした―――。

     *


片倉小十郎景綱が伊達政宗の小姓になったのは、齢8つの年の7月の事だったが、その前触れのようなものは1、2ヶ月程前にあった。
物心つく前に両親を相次いで亡くした景綱を、異父姉である喜多が引き取って米沢城下の鬼庭屋敷で育てた。
喜多と言う人は女だてらに文武両道に秀で、その父良直をして「男であったら分家して立派な一武将となったものを」と言わしめた程だ。それに応えたいと思った訳でもなかろうが、三十路を目前に控えた今になっても嫁にも行かず、男所帯の鬼庭家で家長のように振る舞っている。
良直に一度「何処ぞに嫁がぬか」と聞かれた事がある。
それに喜多はどう応えたか。
「厭ですよ。世継ぎを生むの生まないのと囃し立てられ神経を磨り減らすなんざ、まっぴら御免です」
相当はすっぱだったか、鬼庭家から片倉家へ追いやられるように離縁された母を思っての痛恨の一撃だったか。
それ以来、良直が婚儀の事を口にしなくなったのは確かだ。
その鬼庭の屋敷の庭へ裸足で降りて、腰に手まで当てて仁王立ちする喜多は、怒りとも呆れともつかない表情を見せて虚空を睨み上げていた。
正しくは屋敷の屋根の上を。
そこへ、出掛けていた筈の父が廊下を渡って姿を見せた。
「何だ喜多、長刀でも持って戦に行くつもりか?」
「父上」
声を掛けられ始めてその存在に気付いた喜多が、腰に当てていた両手を下ろした。
「長刀を持って追っ駆けてやろうかと考えていた所ですよ」
溜め息混じりの彼女の言葉に、何だ?と思って廊下の端に立ち、良直は喜多が見上げていたと思しき真上の空を見上げようとした。
「あっ、父上!」
喜多が慌てて声を上げたが、遅かった。
屋根庇の向こうから小さな影が飛んで来た。と思ったら、ものの見事にそれはびちゃん、と良直の顔面にヒットした。
「………」
「………」
ぼたり、と縁側に落ちたのは水瓜の皮だ。
実の部分はすっかり食い尽くされたそれは、水気こそ殆どなかったが、良直の直垂にシミを作る程度には湿っていた。
「ごるあぁ小十郎おぉっ!!!!!」
ドスの効いた怒声は喜多のものだった。
毒気を抜かれた良直は、その女とは思われない大音声に肩を竦めていた。
「何ですか姉上、戦名乗りの習いですか?」
と、後から廊下を渡って来た若い男が、多少挙動不審になりながら尋ねて来た。こちらは喜多の弟、綱元だ。
それを恐ろしい形相で振り向いた喜多は、弟の後ろから姿を見せた3人目の男の顔を見た途端、しおらしく頭を下げた。
「…これは、遠藤様…。おいでなされませ…」
「威勢が良いな、喜多」
穏やかに笑みつつ声を掛ける壮年の男、遠藤基信は、良直の足下に落ちた水瓜の皮を見つけ、次いで懐紙で顔を拭っていた老年の家臣を顧みる。
「良直、そなたもそろそろ隠居か?」などと軽口を叩けるぐらいには、良直と懇意の仲だ。そうして何を思ったか、喜多のいる庭へ白足袋のまま、す、と音も立てず降り立った。
「遠藤様!」
宿老と呼ばれる、伊達家中でも最も頭首の信の厚い男の後頭部へ向かって、飛来する皮片。
それを、遠藤は振り向きもせず片手で受けた。
屋根の上で、水瓜を貪っていた子供が、そのつぶらな瞳を真ん丸に見開いた。
「これ、小十郎!」と、さしもの良直も声を荒げる。
「遠藤様…申し訳ございません。お手が…!」
慌てて駆け寄った喜多は、自らの腰裳を取って水瓜の皮を掴んだ遠藤の左手を押し頂くように包んだ。
こんな事をして、幾ら家中の者だとて無事に済む訳がない。侍の勘気に当たって一刀の下にばっさり斬り捨てられても文句は言えなかった。
たん、
と軽い音を立てて庭に降り立った子供が、くるりと遠藤を振り向いた。
未だ8つと聞いていたが、目鼻立ちのはっきりとした利かん坊と言った面差しに、半袴を身に付けただけで、細っこい上半身は剥き出しと来ている。梅雨の入りの声を聞いたと言っても武士の子がこれでは余りに余りだ。
喜多が拭っていた男の手が、そこからするりと引き抜かれる。
顔を上げた喜多は、父よりも若い、だが大きくて逞しい男の背を見て一歩足を退いた。
遠藤に続いて白足袋のまま庭に降り立った綱元も、敷石の上でぴたり歩を止め、良直に至っては縁側に立ち尽くしたまま、亡き妻の連れ子の行く末を確かに予見した。
―――斬られる…。
その一瞬、誰もの脳裏にその一言が浮かんだ。
チャリ、と鯉口を切る音がして子供の目が男の両手の動きを捉えた。
生命が天秤に掛けられた時独特の空気が、平穏だった鬼庭家の庭にキンと張り詰められた。なのにその子供は怯えるどころか刀の柄に添えられた男の手から目を離し、まだあどけない黒瞳で遠藤の両目を射抜いた。
―――この小童…。
ある種の感慨が遠藤の胸中に湧いたのはこの時だ。
それをおくびにも出さず、更に数呼吸睨み合う事暫し。
斬、
と言って出し抜けに抜き放たれた白刃が舞った。
喜多にはその時、小十郎の小さな身体が遠藤の巻き起こす風圧に押されて吹っ飛ばされたように見えた。
だが子供は、乾いた地面を二度三度、転がった後にざっと起き上がり、今になって低く身構えて見せたのだ。
―――無傷。
それが何を意味しているのかは、当人以外皆が知っていた。
「…なんだよ、あれっくらいの事で手打ちにすんのか、侍ってのは…」
「これ小十郎!!」
こまっしゃくれた言い草に喜多が常より大人しめな声で嗜めてみるが、糠に釘の例え通り、反省の色一つ見せない。
ひらりと刃を返して刀を納めた遠藤が、不意に喜多を振り向く。
「申し訳ありません、遠藤様。…神官の家に生まれ育ち、武士としての心得もまだまだ薄いこの子をお許し下さい」
「…のようだな」
刃を抜く時も今も変わらず穏やかな気配を纏った男が呟く。
「これ、小童」とその遠藤が子供を振り返りつつ呼んだ。
「姉者を哀しませるような事はするな」
「…俺はこわっぱじゃねえ!」
一言叫んで子供は、庭を横切って走り去ってしまった。
「―――やれ…、これでは先が思い遣られる…」
思わずと言う風に呟いたのは良直だったが、庭から上がった遠藤がその前に立つと、そのしょぼくれた両目を凝っと覗き込んで来た。
「遠藤様…?」
「本当にそう思うか?」
「―――…」
「あれを儂にくれぬか?」
「今…何と?」
「あれは儂の手ではなく目の動きから次の動作を読んでいた。教えられて出来るものではない―――恐らく、喜多との鬼ごっこで自然身に付いたのであろう」
遠藤の言葉にはっと顔を上げた喜多が、少女のように頬を染めつつ深く項垂れてしまった。
それを、珍しいものを見た、と言う風に見やっていた良直が視線を上げ、自分より年若い身分上の重臣に戻す。
「躾など後から幾らでも出来る。今は急を要するのだ」
そして言葉を切り、一拍置いた後に男は言った。
「輝宗様が政宗様に家督を譲られる、とご決断なされた」
2つ並んだその名に、鬼庭の家の者の表情が一様に引き締まった。
鬼庭、片倉、両家の人間たちは浅からず、名門伊達家に強い縁を持って結ばれている。
喜多は政宗の乳母であったし、綱元は政宗が初陣を済ませるまではその賦役であった。
この遠藤と、良直との間で色々取り交わされた言葉の結実が、実はそうした事共の裏にあったのだと知る者は他にいない。
いてはならぬのだった。



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