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―記念文倉庫―
12
「お疲れ」と言いつつ、提げ持たれた箱をずい、と押し付けられた。ケンタのチキンバーレルだ。
そうして控え室から厨房に入り込んで来た伊達氏は、持ち帰って来た荷物の山を見つけて、くるり、俺を振り返る。
「リサの奴、途中で何度も泣きそうになったってよ」
そう告げられて、思わずはっとした。
自分の仕事に没頭するあまり、アシスタントである彼女に対する気遣いを忘れていた、と思い返されたのだ。
「…申し訳ありません…大変でしたよね、慣れない仕事で…」
「違えよ」
「え?」
「あんたに本物の職人の姿を見たって」
「はあ…」
「感動したって」
「………」
「まあ実際?泣いてる暇なんかなかったみてえだけどな」
「……確かに」
俺たちはチキンを肴にブランデーをちびちびやりながら、そんな会話を交わしていた。妙な取り合わせだが、空きっ腹に酒だけを流し込むよりは数段落ち着く。
取り合わせと言えば―――と俺は思い付いて、荷物の中からアイスボックスを1つ取り出した。中には時間切れで余った"ラ・ヴィアン・ローズ"の半ホールが残っていて、それを厨房のテーブルに置く。
伊達氏は、それを見て口笛を吹いた。
「完成したんだな」
「ええ…召し上がりますか?」
「Of course!」
切り分けたガトーを小皿に盛って、彼の前に差し出した。
その時、伊達氏の唯一の左目が、イベントで見たどの女性の瞳より輝いていたものだったから、俺はグラスに口を付けながら思わず笑ってしまった。
「何だよ?」と伊達氏が不服そうに尋ねて来た。
「いえ…」
尚も笑いを堪える俺に向かってちょっと唇を突き出して見せていたが、やがて彼は、大事なものを掬い取るようにしてそれを口に含んだ。
「Whoa! I'm having a marvelous cake!! 最高だな、非の打ち所がねえ!」
「ありがとうございます」
無邪気な様子で食べるもんだ。
その幸せそうな横顔を肴に、俺はグラスを空けた。
「"La vie en Rose"な…」
一切れをあっという間に完食した彼がそう呟く。
俺は、当然のように2切れ目を小皿に盛り付けながら、視線だけで青年を見やった。
「本当は、商品にするつもりはなかったんだろ?」
核心をずばり言い当てられて俺は一瞬手を止めたが、黙ってその小皿を彼の目の前に差し出した。
多分、気付いていると、何処かで承知していた。
終業後のたった1人の作業、金吾の試食には一度も出さなかった"試作品"。
彼は、彼だけはここでこうして何度も、幾通りもの"ラ・ヴィアン・ローズ"を完食していて、気付かない訳がなかった。
「私の…師匠の娘さんに子供が出来て、それとは入れ替わりのように師匠の奥さんが亡くなられた時、たった一度だけ彼が作ったものだったんです」
さくり、銀色のフォークが柔らかな生地をひと欠片、切り取った。
「誕生と死、その2つに同時に捧げられたたった一度の"ラ・ヴィアン・ローズ"…。結局、そのグラン・ガトーは誰にも食される事なく捨てられてしまいました。年が明け、春が来て、私は師匠の元を出て日本に帰国しました。その直後に師匠はこの世を去った」
一口、口に含めば広がるカシスソースの甘酸っぱさと、ショコラブランの甘やかさ。それは、薔薇色の人生に相応しい切なさと優しさで溢れていて。
「静かに眠るように息を引き取ったと聞いています。…彼は、幸せだったと、そう信じていたのですが」
「悔いが残ったか」
「ええ…。誰にも食べられる事なく捨てられたあのグラン・ガトーに師匠が何を託したのかとそればかりが気になって―――いえ…」
俺は言葉を切って、削り取られた白い断面を流れ落ちて行く真紅のヴェールを凝っと見つめた。
「あれが、師匠のこの世への別れだったと思うと…」
「呼び止めたかったのか」
「そう…ですね、多分」
「薔薇色の人生―――辞世の句としちゃ最高の別れ言葉じゃねえか」
「…ええ、それに気付くまでだいぶ時間がかかってしまいました。…師匠は燃える薔薇のように菓子作りに情熱を燃やして、最後にそれに別れを告げた。―――今日のイベントに参加してみて、初めて分かったような気がします」
「良いねえ」
感嘆の声と共に伊達氏は、ブランデーの入ったグラスを捧げ持った。
「情熱の赤、Red Rose. ――― Roseの語源、知ってるか?」
「?…いえ」
「イタリア語でRosso、ラテン語じゃRosaと言うのは赤って意味だが同時に薔薇って意味もある。口紅のRougeもこのRosaから派生した言葉だ。赤と言えば薔薇、薔薇と言えば赤って殆ど条件反射みたいに名付けられたみてえだな。そして、女の唇は赤く彩られる、って訳だ」
赤は薔薇、薔薇は赤、か。
赤い唇は薔薇の香り―――ヨーロッパ人てのは洒落た連中だ。
「Cest la vie!」
突然、フォークを振り上げ、伊達氏は感極まったように歓声を上げた。
Cest la vie!―――これが人生さ。
確かに、そうだ。
今なら迷いなくそう思う事が出来た。



休みが明けて、26日の水曜日。
高校も休みに入った金吾が、開店早々飛び込んで来て早速こけた。
ダメだなありゃ、「こんにちは」の挨拶ぐらい定番イベントだ。
「こっ、小十郎さん、ヒドいよ〜〜〜」
来るなり何だ、俺がヒドいってのは。
俺は厨房から冷やかな視線を投げやるのをやめて、渋々とレジ横まで出て来た。その前には鶴姫が立っていて、渋面を刻んだ俺を見上げて来て。
「…何だ?」
「多分、新商品の事だと思いますよ」
「あ…」
当然の如く、ショーケースの中にはあの"ラ・ヴィアン・ローズ"のプチ・ガトーが並んでいる。そう言や「試作品は僕に一番最初に食べさせてね!」とか言うお約束をすっかりすっぽかしていたな。
俺は、後頭部を掻き掻きレジから出て、床に突っ伏したままの金吾の前にしゃがみ込んだ。
「…悪かったよ…、あれはちょっと迷っててな……」
「でも…だからって…一言ぐらい作ってるよ、とか言ってくれたって良いじゃないか〜っ!だって、お店の名前と同じケーキだよ?!それってすごく大事なケーキなんじゃないの?!!!」
「いや、悪かったって…」
「ヒドいよおぅっ!」
店のど真ん中で突っ伏したまま手足をジタバタさせるのはやめてくれ。
頭を抱える俺の隣に、今度は鶴姫もしゃがみ込んだ。
「金吾さん、それでお父様の方はどうだったんですか?」
「……父さん…?」
「まあ!忘れたんですか?!この間のイベントで1つでも多くのケーキを売ったらここを立ち退かなくても良いって言うお約束です!」
そう言い募る鶴姫の目が恐ろしい程に据わっていて、俺は思わず身を引いた。それも構わず彼女は今にも金吾を足蹴にしそうな勢いで問い詰める。
「さあ、どうなんですか?!」と。
「ああ…あれね…。数では負けてたけど続けてて良いよって言ってたよ?」
「は…?」と俺と鶴姫の声がハモった。
「だって、あれだけあのイベントで目立っちゃったんだもの…お店なくす訳には行かないじゃないか。プレスの人たちだっていたし、しかも新商品まで発表しておいて、…しておい、て…」
身を起こしてその場に座り込んだまま、再びうるうるして来やがった。
「うわーーーんっ!ずるいよずるいよ、小十郎さぁんっ!!」
「わ、分かった、分かったからっ!あ、そうだ金吾!!ラ・ヴィアン・ローズの10号1ホールでプレゼントするから、な?」
「―――本当?」
「ホントホント、お前のお陰で色々助かったんだし」
にへらあ、と泣いてたカラスがもう笑った。
「10号なんて、まだ誰も頼んでないよね?!」
「あ、ああ、そうだな…」
実は孫市の所に持って行く予定の奴も10号だったりする。
「えへへ、僕1人で食べちゃおうかなぁ」
「10号をか?!」
「うん!」
ようやく立ち上がった少年が、それは良い笑顔で大きく頷いた。
俺と鶴姫は言葉もなく視線を見交わして、溜め息と苦笑を漏らしていた。
そこへ、自動ドアが開いて新たな客を招き入れた。
冬の日差しを一杯に浴びて輝く、ケヤキ並木を背にして立つのは、黒いコートに真っ赤なストールを巻き付けた伊達氏のニヒルな微笑み。
その唯一の左目が俺を捉えると、解けるように微笑んだ。
「Good morning, everyone.」
そうして、俺にも食わせろよ"ラ・ヴィアン・ローズ"を、と金吾に迫る。

当分、閉店後の作業と会話は2人だけの秘密だった―――。




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