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―記念文倉庫―
10
「すっ、すみません!!」
呆然と立ち尽くしていたスタッフが勢い良く頭を下げた。
辞めるまで残り1日と期日が迫って気もそぞろ、と言った感じなのだろう。
この忙しい時に上の空のスタッフは傍迷惑以外の何ものでもなかったが、その気持ちは分からなくもなかった。ただ最後までちゃんと勤め上げて欲しいものだ。
そう思いながら口を開きかけた所を、天海の声が遮った。
「他の事に気を取られている方と同じ厨房に立つのは、実に心外ですね…。それで美味しいタルトが作れるんですか…?」
何時ものやんわりとした、だが棘のある言い草に、若いスタッフは肩を震わせていた。自覚はあるんだろう。天海の言う言葉は正に他のスタッフも抱く正論だった。
「もう出来ないなら、上がって良いぞ」と俺は、ひっくり返った鍋を拾い上げつつ静かに告げてやった。
すると彼は、ばっと大きく頭を下げると逃げるようにして控え室に飛び込んで行ってしまった。
残された中で、2人のスタッフが示し合わせでもするように視線を見交わしていた。連鎖反応のように彼らまで辞めると言い出してもおかしくはない雰囲気だった。
「さ…みんな…」
立ち上がり、何事もなかったように作業へ戻るよう促した。
そこへ顔を出したのは、3時からのアルバイトに入っている鶴姫だった。
「…どうなさったんです?」
厨房の妙な雰囲気に、少女の繊細な柳眉が潜められる。その彼女の背後からもう一人の女性がひょいと顔を見せた。
鶴姫の同級生―――と言うより、女子大生かOLと言ったくらいの若い女だ。
「あ、この方。私の高校の友人のお姉様です。調理学校に通われているんですけど、将来はパティシエになるのが夢なんですって。その勉強に今回手伝って下さるって言うんで、ご挨拶に来て頂いたんです。彩音さん、こちらが店長の片倉小十郎さんです」
「初めまして……お片づけ、お手伝いしましょうか?」
ちょっと戸惑いつつも、親切に切り出してくれた助手が天使に見えたのはこの時だ。


予定より1日早く人が減ったが、天海が入った事もあるし、彩音と言う助っ人も得た。見習いに毛が生えたような技術の者でも全くの素人じゃなかったのはやはり幸いだった。
彼女は翌日から厨房に入ってくれて、欠けた人員を補ってくれた。
その間にも手伝いに入ってくれそうなパティシエ探しや、建築事務所への"お参り"にも出掛けた。相変わらず菓子職人たちは忙しく、建築事務所は剣もホロロ、だったが。
それも、クリスマスケーキを作り始めなきゃならない22日からは中止だ。
これは内緒にしておきたいのだが、200台ものグラン・ガトーをゼロから作るには無理があるので、スポンジは出来合いの冷凍物を使う。
あ。ただし味は俺が保証する。
それらを生クリームや生チョコでデコレーションして行くだけで時間はギリギリ、他にもロールケーキであるブッシュ・ド・ノエルやタルト、フロマージュなど手順の違うガトーもある。他のプチ・ガトーを作っている暇などなかった。
俺は殆ど不眠不休でその作業に追われていた。
当然、今度こそ完璧なレシピが出来た"ラ・ヴィアン・ローズ"の試作などに拘っている場合ではない。金吾に食わせていた新商品を手がけている時間もない。
それを知っている金吾もこの2、3日は姿を見せない―――筈だった。

それが平素のように自動ドアを潜るなり派手にすっ転んだ人影があったのは、23日の夕方だ。
「まあ、金吾さん。久しぶりですのに期待を裏切らないご登場ですねの☆」
「…鶴ちゃん…、僕が倒れるの期待してたの…?」
「験担ぎみたいなものですよ☆」
「うっ、うっ…ひどいよぅ…小十郎さぁん!」
「店長は今、大変なんだから邪魔しちゃダメよ」
レジに立つ鶴姫の隣に見知らぬ女性がひょっこり現れて、金吾はその小さい目玉をぱちくりさせた。
「……誰?」
「パティシエの修行経験させて頂いてる彩音って言います」
「わあ!お手伝いしてくれる人が入ってくれたんだね!!良かったぁ!」
「所で金吾さん、こんな忙しい時に何しにいらっしゃったんですか?」
「あ!そうだ!!」
慌てて立ち上がった金吾が、レジ横を回ってカウンター越しに厨房を覗き込んで来た。俺は声だけは耳で捉えていたが、そっちを振り返る事もせず、ブッシュ・ド・ノエルに木目の跡を付ける作業に没頭していた。
「小十郎さん、会場のブースに今日、雑賀の人たちが入ってくれたよ!!」
「おう」とだけ、俺は応えた。
何のかんの言って、この数日でデザインを組んで、材料を揃えて、今日現場に入ってくれたって事だ。後で特大のグラン・ガトーを届けに行かなきゃなるまい。
作業を続けながらも、俺は自分の口角が上がるのを抑え切れなかった。
そんな様子に鶴姫も安心したのか、返事を期待してカウンターにへばりついたままの金吾の肩を引いて下がらせた。
「…さて、後は24日の人員配置だけですね、問題は」
そう呟いて、鶴姫がぐっと拳を握る。


24日、早朝、6時。
貫徹でクリスマスケーキの追い込み作業をしていた所に、先ず2人のスタッフが駆け付けてくれた。
明るくて優しい彩音が入って来てくれたお陰か、2人の野郎どもはちょっと鼻の下を伸ばしつつも居残る事を決めてくれたようだ。数分遅れでその彩音も入って来た。
開店は11時。
今日は月曜の定休日だが、休日返上でクリスマスケーキ販売と、それに合わせてやって来るイートインの客を捌く。
朝7時過ぎ。
最寄りの駅で待ち合わせして来たらしい鶴姫とその友人たちが4名、賑やかに朝の挨拶を放ちながら店内に顔を出した。
スタッフ用のエプロンを配られると、早速、出来上がっていたクリスマスケーキを店頭用、予約用とに分けて化粧箱に詰めてくれる。
7時半になって、やって来たのは天海だ。
「私は低血圧なんで朝は弱いんです…」とか何とかぶつくさ言いながらも、昨日から店頭に並べ始めたプチ・ガトーの品薄になってるものから作り始めた。
「小十郎さん、会場に運び入れる材料や道具は用意してあります。8時過ぎにはここを出ないと…」
ギリギリまで作業を続ける俺の背に、鶴姫がそう声を掛けて来た。
「あと10台ぐらいなんだが…」
「天海さん!」
良く通る声で名を呼ばれた細っこい姿が、ふらふらと歩み寄って来た。
「生デコがあと10台、お任せして大丈夫ですよね?」
拒否は認めない、そう言った剣幕の言い草に、刹那マスクの上の鋭利な瞳を真ん丸に見開いた男は、やがて、にんまり、と言った擬音がぴったりの笑みをその両目に浮かべた。
「私を誰だと思ってるんです…?私は天海…生命の価値を知る者…ですよ……」
何のこっちゃ、と思いつつ俺は、目の前の一台を完成させてピンセットをテーブルに置いた。
「残り頼んだぞ」
そう言い捨て、よれよれのコック服コック帽を脱ぎ捨て、取り敢えず洗面所に向かった。控え室には俺の着替えのスーツが用意されていて、洗顔を済ませ、髭を当たり、歯を磨いた後にそれに着替えた。
控え室から出て来た俺に鶴姫が駆け寄って来て、店内の一番日当りの良い席に着かせた。
そこにはとびきり濃いエスプレッソと、店の売り物であるスコーンが幾つか用意されていて、俺は朝食替わりにそれを頬張った。
「これ、昨日、金吾さんからお預かりしてたブースの立面図です。ここがショーケース、商品の並べ方はこちらにイラストにしておきました。値札などはケースの中に用意してあるそうです。それから、現場に一度も足を運んでらっしゃらないようですので、ミッドタウンのフロアガイドと関係者用の駐車場の位置と、道順はこちらです」
「完璧だな…さすがだよ、鶴」
俺の賛辞に鶴姫は時計をちらちら気にしつつも微笑んだ。
「それと、会場でお手伝いするメンバーですが…」
コツコツ、
彼女が言い掛けた所で、席の脇の窓ガラスがノックされた。
朝の8時前、ケヤキ並木の清々しい光の中に立っていたのは、伊達氏だった。

歩道脇に停められた彼のランドクルーザーから、何やら物々しい雰囲気で3人の美女が降り立った。そして、伊達氏に続いて店内に入って来た彼女らの内の1人の上で、俺の視線が固定される。
「リサ、さん…?」
記憶の中から引っ張り出して来た名前と、今の彼女とを繋げて考えるのに暫く戸惑いが隠し切れなかった。
夏に入り立ての頃、閉店後の店内で、俺の試作品を食べて大泣きした面影は全くと言って良い程なく、今はふっくらと丸みを帯びた顔も全身も、まるきり幸福せそのものだ。とは言っても、元が美人だった彼女はそうやって少し恥ずかしげに微笑むと、やっぱりとても魅力的で。
「あの後、モデル辞めてお料理教室始めちゃいました…お陰でこんなに、ぽっちゃり」
そう言って、健康的な頬を両手で押し包む。
「…Ah, それと、彼女のモデル時代からの友人、杏奈と香織だ」と、時間を急かすように伊達氏が脇から説明を入れた。
そうだった、とそれを受けて、リサが後を続ける。
「大変だってマサさんからお窺いして…お手伝いさせて頂けますか?」
「それは…大変、有難いですが…」
「小十郎さん、8時過ぎちゃいました!」と、戸口で鶴姫が声を上げた。
「あ、ああ…」
ふと、伊達氏に目をやると、彼は薄っら微笑んだまま1つ頷いてくれた。
「リサさん、料理教室をやってるっておっしゃいましたが」
「一度はホテルのキッチンでアシスタントした経験もあります」
リサは1つ頷きつつはっきりと応えた。
残る2人は趣味と実益を兼ねた腕前―――自分でカロリー計算してヘルシーな料理を嗜む、とか言ったレベルだった。
「なら、お三方はイベント会場に私と一緒に来てください…それから鶴姫」
「勿論、私も行きますよ☆商品知識は誰にも負けません」
よし、と俺は頷いた。
その後、店内を振り返る。
鶴姫が連れて来た4人の友人は3人までが去年も見た顔ぶれだった。そして厨房で忙しく準備に立ち回る2人のスタッフ、天海、それと彩音の間に連携が出来始めているのも、ここ2、3日側で見ていた俺には分かる。
「それでは行って来ます」
俺が声を投げ掛けると、彼ら彼女らが一斉に振り返った。
「いってらっしゃい!」
「気を付けて!」
「健闘を祈りますよ…」
「頑張って下さい!」
口々に返される声に背を押されて、俺たちは店を出た。




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