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―記念文倉庫―
3
一連の作業が静かに収束して行った後、一息吐きながらブランデーの入ったグラスを取り上げ、再び一口二口、含んだ。
そうしては、やけに眩しく厨房を照らす天井の照明を見上げる。
こんな電子制御の整った、ピカピカの調理台に激しい違和感を覚える瞬間だ。
俺の目に馴染んでいるのは、可愛いデザインを施された陶製の釜や、真っ黒になるまで使い込まれた天火や天板。荒々しい火を立ち上げる、これ又荒々しい形の五徳と言った、ちょっと狭苦しさを覚えるような素朴な風景だ。シェフがスタッフと一緒に3、4人も立ったらもう一杯、と言った家庭的なそこで、互いにぶつからないようボウルやトレーを持って動き回った思い出が鮮やかに蘇る。
照明もこれ程赤裸々じゃなかった。
ものの色艶がはっきり見分けられるから、こうした蛍光灯の明かりが望ましいと思われがちだったが、良い材料と、それを生かす素早い腕と、火加減を見誤りさえしなければ、素材本来の繊細な状態を引き出す事が出来るとあの人は知っていた。だから、むしろその狭い厨房は薄暗いくらいで、コンロの炎の揺らめきがはっきりと見て取れた。
―――そのものの質を決定するのは温度だよ。そして時間。時間は我々人間にはどうしようも出来ないが、火加減を見てやる事は出来る。目を離さず見守ってやる事が重要だね。
そう言って、微笑んだ俺の師匠はもう、この世にはいない。
確かに時間が過ぎ行くのはどうしようもなかった。
ブランデーをちびちびやりながら、そんな風に過去の徒然を思うと何となく心許なくなる。望んで望まれて得た素晴らしいこの店が急によそよそしくさえ感じる。
―――感傷だ、と思った。
何もかも順風満帆で、非の打ち所がない現状に不満を抱く謂れなど、ない筈だ。
ブランデーを飲み切り、ムースが冷えた頃合いを見計らって冷蔵庫を開けたその時。

ガンガンガン、

耳殻を震わせる無粋な騒音が店内に響いた。
俺は、ムースを乗せたトレイを調理台に乗せつつ店内へ目をやった。
下ろしたシャッターは横格子状のものだから外の景色が見える。それは外を出歩く人々にとっても同じ事だったのだが、店のロゴが貼られたガラス窓の向こうでシャッターを叩く人物を認めて、俺はぽかんと口を開けた。
2週間程前、鮮やかな手並みを見せてくれた伊達氏が、振り向いた俺に向かってにっかりと笑いながら片手を振った。


スタッフの控え室を回って、外から店内に彼を導き入れた俺は何となく居心地の悪さ、のようなものを感じていた。
彼は1人ではなく連れがいたのだ。
20代初めの、ひょろっとした背の高い美女だった。
昼日中は町中を歩いていると汗を掻くくらいだと言うのに、細い体には大き過ぎるベージュのスプリングコートを羽織って、化粧をきちんと施しているにも関わらず顔色が悪い。セミロングの髪は櫛を入れただけのようで、表を歩いて来たせいか少し縺れて窶れた頬に一筋二筋掛かる様は、直視しちゃ悪いような気分にさせる。
「店閉まってるのに明かりが点いているから何してんだ、と思ったら、明日の準備か?」
彼は、真っ暗な店内から煌々と明かりの灯った厨房を見やってそう尋ねて来た。
「いえ、ちょっと…新作ケーキの研究を」
俺の応えには、ふーん、と曖昧な相槌を返し、伊達氏は手近なテーブルの椅子の1つに連れの女性を座らせ、自らもその対面に腰を下ろした。
俺はそんな彼らの傍らで所在なく突っ立つ。
「ショーのリハが終わった所でさ」と彼はそんな俺を振り向きつつ、言う。
「どっか落ち着ける所ないかって探してたんだ」
だからって、閉店してる洋菓子店にわざわざ乗り込んで来なくても。
そう言った心中の声が顔に出ていたのだろう。伊達氏は薄く皮肉に微笑んでから店内を見渡し、大きく息を吸い込んだ。
「ここのスイーツ、食ってみたかったんだけど仕事終わりがいっつも閉店後…つうか、日付跨ぐ頃だからなかなか来れなくて、さ。迷惑なのは分かってんだけど、1つ味わわせてくれよ」
彼はそう言って、微妙に濃淡の付いたグレーのサマーセーターの袖を摺り合わせて、俺を拝むように頭を下げた。
まあ、この間みたいに雑誌だったり、あるいは舞台やファッションショーなどのメイクをやるからには、時間は不規則な上にハードスケジュールなんだろうが。
思わず苦笑を刻んだ所で、彼と向かい合って席に着いた女性が視界に入る。
ショーのリハ、とすると、彼女はモデルだろう。俺と10センチと違わない背丈に、ブーツカットのジーンズがまるで外国人のように長い脚を包んでいるのも頷ける。
けれど今、彼女は、俯いたきり白いテーブルの上の小さな傷を見落とすまいとしているかのようで。更に、頬に落ち掛かる荒れた黒髪が悲壮さを漂わせていた。そして、力の入った肩から、美しく手入れされた指先にかけてが細かく震えていて。
訳ありなんだな、と了解した。
「…では、"試作品"で宜しければ召し上がって頂きましょうか。他のプチ・ガトーなどは在庫管理してて、今はレジも落としていますので」
「お、いいねえ!」
伊達氏は、連れの女性の様子になど気付いていない素振りで無邪気に手を打った。
彼女はますます全身を強張らせたようだった。
では、仕上げて来ますので少々お待ちを、と言って俺は一度厨房に引っ込んだ。
そこからの照明だけで後は夜の暗闇が落ちる店内で、2人の姿は幻のように見えた。
何を語らうでもなく、一方は叱られた子供のように震え縮こまり、もう一方は至って自然にリラックスしている。
―――別れ話の縺れか?
そんな下世話な俺の感慨を他所に、2人のシルエットは静かなショーウインドウを覗くように厳かで、美しかった。
俺は、冷蔵庫から取り出してあったムースを型から抜いてフィヤンティーヌの上に乗せた。真っ白な小皿にそれを乗せ、イチゴジャムをたっぷりと掛け流し、更にプラリネ(ビスタチオのキャラメリーゼ)をふた欠片程乗せれば完成だ。
温かみのあるショコラブランの白が、ジャムを淡いピンクのシルクのように纏ってキラキラ輝く、非常に夢のあるスイーツだ。
それを、2人のいるテーブルまで運んだ。
「Woo, Excellent.」などと伊達氏は大袈裟なリアクション。
女性は、閉じた貝殻のように無反応だ。
早速フォークを取り上げた伊達氏がそれを2つに割る。ふあ、と立ち登るのはイチゴより香気の強いフランボワーズの甘酸っぱい大人の香りだ。それに濃厚なショコラブランの甘さが絡む。一口食べれば、イチゴのちょっと昔懐かしい甘さと相まって、何とも言えない蕩けるような味わいだ。
「Wow, So delicious!!」
伊達氏の感嘆の台詞を帰国子女っぽいな、と思っている端から、彼はぱくぱくとそのスイーツを平らげて行った。目の前の女性がフォークも取り上げず、いや、むしろそれを見ようともしないのにお構いなく、だ。
何故か追い詰められている、と言うような印象を持った。
余計なお節介かとも思ったが、俺は彼女に声を掛けていた。
「苦手なものでも入っていましたか?」
「―――…」
「すみません、お客様に試作品などお出ししたのがマズかったですよね」
「……そうじゃ、ないんです…」
何やら酒焼けでもしたような嗄れた声だった。
既に完食した伊達氏がコップの水を二、三口飲み干してから彼女を見やった。そしてそれを片手の中で揺らしつつ、テーブルに肘を突く。
「なあ、リサ…。これ、すっげー美味いぜ?」
彼の言葉に、リサ、と呼ばれた彼女はちらと眼をやり、それから細くて骨張った手にフォークを取った。それはもう、恐る恐ると。
そうして、ムースの角から一欠片を切り取って目の前に持って来る。
その緊張感たるや、まるでヘレン・ケラーが流れる水に手を触れて初めて「Water」と一言叫んだ、その瞬間をこれから迎えようかとでも言うような感じで。
フォークが痛々しい程に震える。
どんなに時間がかかろうと、俺も伊達氏もそこからは何も言わずにただ見守った。

―――そして、一口。

咀嚼するまでもない、舌の上に乗せれば溶け出すムースだ。その味は彼女の舌を包み込み、やがて口腔内を満たしただろう。
カシャン、
と言ってフォークが皿の上に落ちた。
リサは突然、両手で顔を覆って激しく泣き出したのだ。
それも泣き喚くと言ったものではなく、漏れる微かな嗚咽ですら喉の奥で押し潰してしまうような、それはとても苦しい泣き方だった。
声を出して泣く事すら出来ない。誰にも気付かれないようひっそりと、たった1人でそれが通り過ぎて行くのを耐え忍ぶ、そんな泣き方だった。
「…ごめんなさい、マサさん…ごめんなさい……」
その合間に溢れるのは謝罪の言葉だ。そして、それに対して伊達氏はどう応えたか。
「美味いだろ?」
そんな彼の混じり気のない笑顔を見やった彼女が、堰を切ったように声を出して、泣いた。

気の済むまで泣いて、リサは泣きながらもプチ・ガトーを残さず食べてくれた。
その後で、涙でぐしゃぐしゃになった彼女はやはり、二週間前のモデルのように控え室で顔を洗い、その彼女の道具を使って伊達氏がメイクをし直した。
すると不思議な事に、店に入って来た時は何処の通夜帰りかと思った顔色が、これから夏本番、と言った今の季節に相応しい生き生きとしたものに蘇った。全身の痩せぎすな所やこけた頬などは隠しようもなかったのにも関わらず、だ。
駅まで送って行く、と言った伊達氏の台詞には、ちょっと自嘲の笑みを浮かべながらリサは首を振った。
「1人で歩きたいの、本当に久々に清々しくて」
「そうか、気を付けて帰れよ」
店内の時計を見れば11時を回った所だ、遅いが電車も未だある。
控え室からの通用口に見送りに出た時、彼女は俺の目を真っ直ぐ見て、はにかむようにして微笑んだ。
「とても美味しかったです、ありがとうございます。…あのスイーツの名前は何て言うんですか?」
「…ああ、ラ・ヴィアン・ローズ…"薔薇色の人生"って意味ですよ」
すると彼女は、彼女こそ薔薇の花のようにふわりと笑った。
「ステキ、完成するのを心待ちにしてますね」
「…ありがとうございます」
立ち去る彼女の後ろ姿は、さすがにプロのモデルらしくしゃんと背筋を伸ばして真っ直ぐ前を向き、颯爽と長い脚を踏み出して遠離って行った。




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