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―記念文倉庫―
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国内外のブランド店が立ち並ぶ表参道のケヤキ並木通りは、平日でも人通りが多い。
俺の店「ラ・ヴィアン・ローズ」も午前中から席の半分が埋まり、持ち帰り客も途切れなく並んだ。
有難い事だ。
最高に恵まれた立地条件と、この店舗をデザイン・設計・建築してくれた古い友人に感謝してもし足りないぐらい。
3時のピークが過ぎ、人の波が一段落した所で、自動ドアを潜り抜けて息せき切って走り込んで来た小柄な人影が―――コケた。
「まあっ!金吾さん、何もない所で一体何度倒れたら気が済むんです?」
ショーケースの前に立って、客の対応をしていたバイトの少女が声を上げる。
呆れたようなその言い草に、何事かと様子を窺っていた客たちもクスクス笑った。
その中でもたもたと不器用に立ち上がったのは、見た目コロコロと太った少年だ。体が小さいので小・中くらいに見えるが実は高校2年生。名は小早川金吾と言って、うちのバイトの鶴姫と同い年だ。
ちなみに、これでも俺のパトロンだったりする。
「うっうっ…小十郎さぁん!」
泣きつかれてもな。
俺は厨房で奴が店の表を回り込んで来る所から見ていたが、どうしようもない。今手元にあるタルトの飾り付けを全て終えてから、ショーケースの前まで出て行った。
「床掃除してくれんなら閉店後にしてくれよ?埃が立つ」
「ひどいよ、小十郎さん!こんな…皆が見てる前で大声出されちゃった僕の身にもなってよ!恥ずかしい…っ」
「駆け込んで来なきゃ良いだろうが」
「だ、だってぇ…」
そう言って、物欲しげな眼差しを投げやるのは、ショーケースに並んだ自慢の菓子たちだ。ショートケーキにチーズケーキ、チョコケーキやモンブランと言った定番の他に、タルトは季節に合わせて数種類、ミルフィーユにクレーム・ブリュレ、マカロンやシフォンケーキも外せない。焼き菓子もあるが、伝統洋菓子であるカヌレやミルリトン、パリブレストなども物珍しいのか根強い人気があった。
「今日は何だ?」
今にも涎を垂らしそうな顔を、可笑しさを堪えつつ眺め下ろしながら尋ねる。
「ええとね…ショートケーキと、ショコラ・マロンと、カシス・ポンムと…グリュイ・エールと…」
このまま放っておくと全商品の名前を言いかねない。
プチ・ガトーと言われる、小さくカットされたケーキを何種類も学校帰りに買って行くのがこの少年の日課なのだ。その丸々とした頬と腹は、全部小麦粉と卵とバターと砂糖で出来てるんじゃないかと思うぐらい、毎日良く喰う。
「それから!今日の試作品も!」
まあ、毎日通うのはこれも目当てなんだろう。
俺は盛大な苦笑いを刻んでから一回厨房に引っ込んだ。
金吾の実家は外食産業で関東でも5本の指に入る実業家で、数多くのチェーン店や専門料理店を経営してる。俺は、そうした親を持つ金吾に何故か気に入られ、こんなハイソな土地に店舗を構える事が出来たのだが、その時の交換条件として出されたのが「試作品は僕に一番最初に食べさせてね!」だった。
それ以外はちゃんと客として購入して行ってくれるお得意さん、と言う訳だ。
俺は、厨房のテーブルの隅に置いてあった白い小皿を取り上げた。店頭のプチ・ガトーを作る傍ら、考えつつ作成した今日の試作品だ。
店に出ると、金吾の奴は早速空いていたテーブルに着いてフォーク片手に待機中だ。俺はその目の前に小皿を置いた。
マフィンカップに包まれたそれは、チョコレートを練り込んだパンケーキだ。上にナッツのような食感のものが乗っている。
早速カップを切り開いた金吾は、パンケーキをフォークで2つに割った。
「わあ…」
中からはとろりとしたチョコレートクリームが流れ出す。
もう少し暖かい方が良かったか、と思いつつ金吾の反応には満更ではない。
流れ出したチョコクリームを、小さくカットしたパンケーキに絡めてぱくり。
もぐもぐもぐ…
そうした擬音がぴったりの味わい方だ。
柔らかいパン生地に紛れてコリコリとトッピングが小気味良い歯応えを伝えて来る。
「ん〜」と金吾は、口の中で蕩け合う味覚を至福の時とでも言いたげに味わった。だが、口中のものを全て飲み込むと、ふと首を傾げる。
「どうした?」
「んー、とっても美味しいけど、でもこれ、普通のパンケーキだよね?」
「普通のとは何だ、トッピングとして乗ってたの、あれゴボウだぞ」
「ゴボウ?!」
「チョコとゴボウって良く合うだろ?」
自慢げにそう言ってやったのだが、金吾の表情は微妙だ。
「小十郎さん!」
「お、おう…」
「スイーツって夢の食べ物なんだよ!小麦粉、卵、バターの組み合わせは黄金トライアングルだけど、そこに色んな果物や木の実なんかが絡んで来て宝石みたいな出来映えと味が味わえる!そう宝石!日常の平凡な時間とは一切、切り離された別世界が広がるんだ。…そこに、ゴボウなんて如何にも平凡の代表みたいなものが入り込んじゃ…っ」
「あー。分かった分かった!」
放っておくと延々続きそうな金吾のスイーツ論(?)を、俺は無理やり断ち切る為に試作品の乗った皿を取り上げた。
「あーーーっ!!」
途端に上がる大声。
文句は言うが完食はしようってのか。俺は渋々皿を置いた。
「捨てちゃうなんて勿体ない事は僕が許さないからね!」
全く、小十郎さんはすぐスイーツに野菜を入れたがるんだから…とか何とか続く小言は無視して、俺はすごすごと厨房に戻った。
周りの常連の中じゃこうしたやり取りが日常茶飯事だったので、密かなクスクス笑いが上がっている事などガン無視だ。
野菜スイーツを目論む店長と、それを阻止して正統にしてゴージャスなスイーツを目指すご意見番の攻防、と言った所か。
野菜好きの俺としては是非とも広めたいのだが。
まあ、確かに、俺の師匠だった人もカボチャとニンジン以外の野菜を使って作品を作った時には渋い顔していたが―――つまらねえ。
「私は良いと思いましたよ☆」
ショーケースの後ろを通り過ぎる時に、鶴姫がそう声を掛けて来た。
「でも、お野菜で売り出そうとお思いなら、全商品お野菜を使ったスイーツにして、オーガニックな所とかも全面的に押し出して、ヘルシーなイメージを設定しないと、お店としてやって行くには難しいのではないでしょうか?」
ものすごく現実的なご意見だ。
「小十郎さんはお野菜を使わないスイーツもとっても美味しく作られるんですもの…金吾さんの言う通りにされた方が良いですよ?」
「……ご忠告、痛み入ります…」
厨房に戻れば、3人のスタッフが不自然に眼を反らす。全部見てたんだろう。
俺は我知らず唇を尖らせながら、焼き上がっていたワッフルを銀トレイに移し替えた。


夜8時に店を閉め、それからスタッフと共に一時間、翌日の仕込みをした後に俺は一人、店内に残った。
防犯シャッターを下ろした店内は厨房だけの明かりが落ちる。
暖かい夜の表を未だ遊び足りぬと言った感じに行き過ぎる若い男女の姿が、むしろショーケースの中を行き交うハウスマヌカンのようだった。
営業中は微かに流していたBGMも止めてあるから、行き交う車の立てる騒音がざっと通り過ぎた後は、柔らかな静寂に包まれる。
そんな中、俺は清潔なキッチン机の上に、手にしたボトルを置いて厨房を見渡した。
ここからは俺1人の時間と空間だ。
ブランデーグラスなどシャレたものはないから、アイスティー用のそれにボトルの中の琥珀色の液体を注ぐ。途端に立ち登るのは、絹のように上品で、薔薇の花弁のように繊細で、そして、情熱の塊であるその芳香。
Eau-de-vie.―――正に「命の水」。
景気付けと言うより、少しずつ時を巻き戻すようにそのブランデーを味わった。
それから、今日、目の前に用意した材料を眺めやる。
そのプチ・ガトーのベースになるフィヤンティーヌには小麦粉の他にビスタチオの粉末を用意した。これにフランボワーズ(酒の方だ)を加えたショコラブランのムースを乗せ、最後に果肉を潰したイチゴジャムを掛けて完成する。その作業工程は完全に頭の中に出来上がっている。
これが一番イメージに近い材料・作り方だと今では確信を持っている。だが、近いと言うだけでそのもの、と言う訳でもないのだ。それが分かっていながら何処に違いがあるのかを見極めたいが為に、今夜もこうしていちから作り始める。
閉店直後に洗ってグラニュー糖をまぶしておいたイチゴは、その水分が砂糖を溶かし始めていて飴菓子のような状態になっている。それを火に掛け、少し弱めの火でゆっくり煮詰め始める。
傍らで、フィヤンティーヌも作り始める。
ジャムは暫く煮ていると灰汁が出て、それを取り除くタイミングを見計らいながらの平行作業だ。
小麦粉に全卵、ビスタチオの粉末、砂糖を少々混ぜ合わせたものを天板の上にスプーンで薄く丸く、直径7センチ程の大きさに伸ばす。それを5つ作った所で、今度はショコラブランのムース作りへと突入する。
細かい連続作業が玉突きのように次々と俺の後を追い駆けて来る。いや、俺の方が追っているのか。
カリッと焼き上がったフィヤンティーヌをパレットに上げて、イチゴジャムの灰汁取り。
ムースは、予め冷蔵庫に入れておいた生クリーム、刻んだショコラブラン、板ゼラチンなどの状態を確認してから、別のボウルに卵黄とグラニュー糖を入れて白っぽくなるまですり混ぜた。
別の鍋には、牛乳、ヴァニラ棒を入れて火に掛け、沸騰した所ですり混ぜた卵黄を加えて弱火でとろみが付くまで加熱する。それを火から下ろし、冷蔵庫でふやかしておいた板ゼラチンを水気を切って加え、掻き混ぜた。
更にそれを、刻んだショコラブランに加えてゴムベラで良く混ぜ、粗熱を取る。
冷蔵庫から、予め9分立てておいた生クリームを取り出し、さっと立て直してキメを整えた所で、その半量をショコラブランに加え馴染ませるように泡立て器で混ぜ、馴染んだら更に残りの半量を加えてゴムベラで掬い上げるように混ぜる。最後にフランボワーズを振り掛けるのも忘れない。
これを、やはり直径7センチ程の型に流し込んで冷蔵庫で冷やせば、ムースは完成だ。
その作業の合間に灰汁を取り続けたジャムも適度なとろみが付いて良い頃合いのようだ。これも火から下し、金属製のこし器で果肉をすり潰した後、粗熱が去るのを待つ。




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