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―記念文倉庫―
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『Adorer―情熱―』
あの人と初めて会ったのは、初夏の日差しが緑のシャワーを投げ掛ける時節だった。
ケヤキ並木通り沿いにある俺の店にも、緑のトンネルが作る眩いばかりの陽の光が溢れていて、柔らかいカーテンみたいに揺れていた。
うちの店舗デザインを手掛けたのが最近の都市開発で有名になったデザイナー兼建築家によるものだったからか、業界ではそこそこ注目されていて、とあるファッション雑誌の撮影場所に指名されたのだ。
一度は断ったのだが、定休日である月曜の午前中だけ、と重ねて頭を下げられたものだから断り切れなくなった。
その時、店の中では撮影クルーたちが待機してモデルの到着を待っていた。
俺はと言えば、翌日の仕込みの為にラムレーズンやオレンジピールの下ごしらえをしつつ、その張り詰めた緊張感を肌に感じていた。
モデルは約束の時間を過ぎても移動中との事で時間が押していた。
俺との約束―――午前中のみの撮影―――がなくともカメラマンやロケバス、プロデューサーらの午後からの仕事が控えていた、その緊張感たるや。
雑誌編集者は携帯片手に照明や器材がセッティングされた店内をうろうろと歩き回る。カメラマンなど苛々が募って、先程から表の喫煙所で煙草を吹かしていて、アシスタントが所在なげに無意味に機材の調整を繰り替えしている。
そんな中で彼だけが、店内を満たす初夏の日差しを楽しんでいるようで。
黒のタートルネックのカットソーに、同じく黒のデニムパンツにシックな黒革靴と言った黒ずくめのスタイルに、明るい若草色のストールだけを巻いた姿は、彼こそこの場にお誂え向きなモデルに思われた。それが窓際のテーブルに寄り掛かり、店の外のテラス席の上で揺れる緑の光を眺めている。
そこへ、モデルが到着した、と編集部の人間の1人が店内に駆け込んで来た。
途端に騒めき立つ店内。
編集者に続いて、モデルらしい背の高い女性が俯き加減で小走りに登場した。「すみません」と何度も連呼しつつ。
スタイリストが駆け寄る。
着替えの為に店内の一角には仕切りカーテンが用意されていて、モデルと一緒に彼女はそこに飛び込んだ。
カメラマンも戻って来るが、煙草臭いその若い男は未だ機嫌が悪そうだ。
編集者2人とプロデューサーが、予めの打ち合わせを元に具体的なショットやイメージコンセプトを話し合う。光加減、店内の構造、用意されている服のアイテムに合わせたシチュエーションなど、互いのイメージを確認し合った。撮影の段取りも時間に間に合うよう入念に組まれる。
そこへ、着替えを終えたモデルが出て来た。
彼女の姿を一目見て、素人の俺でもさすがに眉を顰めずにはいられなかった。
急いで移動して来た彼女の長い髪はぼさぼさ。ここに来る前に別のスタジオ撮影をしていたと言うメイクは、何処のビジュアル・ロックバンドかと言う程濃く、怪しげな雰囲気と来た。この雑誌の撮影は夏に向けた"爽やかナチュラル"がコンセプトだったから、場違いも良い所だ。
スタイリストは、自身でコーディネートした白いカーディガンを主としたアイテムと、モデルとのミスマッチに戸惑いの目を編集者やプロデューサーに向けた。向けられた方も困惑を隠し切れない。
そして、彼らが助けを求めるようにやがて目をやったのが、彼だった。
「伊達さん…お願い出来ますか?」
担当編集者が恐る恐ると言った風に、窓際のテーブルに寄り掛かっていた青年に声を掛けた。
伊達、と呼ばれた青年は悠然と撮影現場の中央を進み出て来て、モデルの前に立つ。
170を越えていそうなモデルと並んでも見劣りしない背の高さとスラリとしたスタイルに、そこだけ別世界のような印象を受けた。
その彼の右手が伸びて、乱れて縺れた黒髪を、次いで、ド派手なメイクを施された頬や瞼に触れた。
伊達氏は、腰に提げていた道具ケースから小さなチューブを取り出した。
「こいつでしっかり顔洗って来な。5分はかけろよ」
それを聞いた編集者が、ばっと俺を振り向いた。
「すみません、洗面所をお借り出来ますか!」
ラップを掛けたボウルを冷蔵庫に仕舞おうとしていた手が止まる。
「Hey, guys. 20分後に撮影開始だ、Just a sec!」と、その向こうからやけに流暢な英語を取り混ぜた号令が掛かった。
20分、と聞いて、俺は慌てて厨房の隣にあるスタッフオンリーの部屋へと駆け付けた。
―――いや待てよ、モデルには5分かけて洗顔しろと言っていた…。
俺は、店の者が使う手洗いへモデルと編集者を案内した後、控え室に留まったまま考えていた。
―――すると、彼の仕事としては15分しか与えられない事になる。髪のセットと顔の化粧、それが彼の仕事だと聞いていたが、出来るのか?

洗顔の終わったモデルが、タオルで顔を拭きつつ声を上げた。
「すごい、このクレンジング…しっかり化粧落としてくれたのに肌が突っ張らない!むしろ何時もよりスベスベ!」
何処のテレビ通販の煽りかと言った事を暢気に評価している彼女を、編集の女性が引っ立てて行った。
俺は開けっ放しだった扉を閉めて、その後に付いて店側に戻った。
伊達氏が待機していた店のテーブルにモデルが着席した所だ。
腕時計を見るときっかり5分。
そして、メイクアップが始まった。
周囲で様子を見守るクルーらも固唾を呑んだように動きを止める。
髪にブラシが入れられた。
縺れた長髪は多少くせっ毛掛かって、パーマを当ててだいぶ経ってしまったかのようなだらしなさを見せていた。それにゲルを馴染ませた手櫛で流れを作った後、額や顔の脇にひと房ふた房残して後ろで引っつめ髪にすると、だいぶ印象が違って見えた。
次に化粧下地。
女性のメイクの仕方など良く知らないが、乳液を一回顔全体に馴染ませただけで終了。すぐ様ファンデーションに移り、これは2種類を塗り重ねていた。最初はピンクがかったもの、次が肌色だ。
後で知ったが最初のは顔色を整える為の下地で、青ざめた人にはピンク、赤ら顔の人には淡いグリーンを使うのだそうだ。
ファンデーションの次にコンシーラーで部分的に気になる所を補正し、ベースが完了。
ここまでで更に5分、素早いが手付きは丁寧だ。
そこから先が正にめくるめくようだった。
両手に何本もの刷毛やペンなど持って絶妙な色合いの目元を造り、口紅はちょっと迷った末に、やはりナチュラルピンクの中から2番目に淡いケースを取り上げる。
モデルの顎先を左手の指先でちょっと抑え、口紅専用の細い筆で形作って行く。その時の、モデルの唇を真剣に見つめる彼の表情は何と言うか…同性の俺が言うのも何だが大層、色っぽい。
半眼に閉じた左目が見下ろし加減に凝視する。彫りの深い眉から落ち窪んだ瞼の丸さと長い睫毛が印象的で、通った鼻筋の下で影を落とす口元は微かに開いて白い歯を覗かせている。
何となく気付いたら自分もバカみたいに口を開いていたので、誤摩化し半分に咳払いしつつ辺りを見渡したら、どいつもこいつも口を半開きにしていた。
歪みそうになる口元を拳で隠し、足音を忍ばせて厨房に戻ろうとした。そこへ、
「Final!」背後から聞こえて来た声に振り向くと、クルーたちがざっと動きを開始した所だった。
腕時計を見れば、きっかり20分。
化粧道具が引き下げられ、テーブルの上がざっと拭かれ、モデルが椅子の上でポーズを取り、照明係が脚立の上からバン、とでっかい板を振りかざす。
全て、ほとんど一瞬の内に起こった出来事だ。
撮影が始まるとゆるゆると時間が流れ出したように感じる。
臍を曲げていたカメラマンも、ファインダー越しの被写体がイメージ通りに仕上がったからか、流れるようにスムーズにシャッターを切っていた。
厨房前のショーケースに凭れ掛かった伊達氏の脇に、俺は店のアイスコーヒーを差し出した。
「お疲れさまです、美事でしたね」と言いつつ。
何だ?と言う表情で振り向いた彼は、グラスを見下ろしてちょっと唇を尖らせた。
「シロップ」
「え?」
「ストレートは好きじゃない」
ああ、コーヒーが苦手だったのか、と思いつつ、カウンター脇の籠からガムシロップを取り上げてグラスに添えた。
伊達氏はそれを細い指先で取り上げると最後の一滴まで流し込んだ。
ストローで掻き混ぜれば、中で氷が立てる澄んだ音が小気味良い。
「あのさ」
「はい?」
コーヒーを一口二口含んだ彼が再び振り返った。
「彼女の為に一杯ハーブティ用意してやってくんねえか?代金は後で一緒に請求してくれていいから」
見れば、撮影の合間にモデルは自分が持ち込んだペットボトルから水を飲んでいるようだったが。
「ああ…」それに気付いた伊達氏が、何となく照れ臭そうに後ろ頭を掻いた。
「この後も彼女、仕事が押してるんだよ。気分転換に10分や15分、午後ティー味わったってバチは当たらねえだろ?」
俺は改めて、窓際に移動して立ったままポージングを繰り返すモデルを眺めやった。
最初にここに飛び込んで来た時と打って変わって、"爽やかナチュラル"な装いとメイクで生まれ変わった彼女は、ちょっと品の良いここらのOLと言った感じで自然な笑みを浮かべている。
「当店のプレーン・スコーンもお付けしましょう。甘くなくてバターも控え目で、小麦の風味が自慢です。良ければ、蜂蜜も添えて」
「Sounds great!」
と、青年は控え目に声を上げた。
意味は分からないが、彼が喜んでくれた事だけは分かった。
瞳を輝かせて笑顔を覗かせた青年は、年相応の若さを見せていた。前髪に半ば隠された右目に、モノクルと言う片眼鏡を掛けているのに気付いたのはこの時だ。
欧米人が昔、眼窩に嵌め込むタイプをステイタスのように掛けていたそれではなく、ブリッジで鼻梁に引っ掛けるタイプのもので、グラスの色は濃い青だ。
かなり珍しかったのでついまじまじ見つめていたら、彼は顎を引いて眼鏡越しではない視線を寄越して来た。
掛かる前髪を透かして見えた右目の瞼に、かなり醜悪な傷があった。その下に僅かに白濁した眼球が覗いていて、痛々しい。
「俺のトレードマーク、気にしないで慣れてくれよ」
掛けるべき言葉を見失っていたら、彼の方からそう軽く言い放って来た。俺のような反応を示す連中には完全に慣れてるって事なんだろう。
「眼帯じゃないって所が、アーティストらしいですね」
俺はそう言い返しつつ、苦笑のようなものを浮かべずにはいられなかった。
「Give me a break…(よしてくれよ). 白くて四角い奴だろ?あんなの死んでも身につけるのはゴメンだ」
肩を竦め、首を振り降り、如何にも厭だと言わんばかりの彼の態度に俺も笑った。
それを軽く睨み返した伊達氏が尚も言う。
「そう言うあんたは、頬傷のあるヤクザがスイーツ作りなんざ、似合わねえよな」
「……ヤク…」
絶句した俺を他所に、彼は自分の化粧道具を取り上げると、撮影中だと言うのにクルーたちや編集者に暇の挨拶を残して立ち去ってしまった。
彼も又、この後に仕事が押していたのだ。




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